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15.傷と欲

 珍しくきゃあきゃあと騒いだランチタイムの後。教室へ戻ったエリスが感じたのは、途方もない違和感だった。ざらりと皮膚に纏わりつくような、重たい冷気が階下から這い上がってくるように感じる。そしてどこか慌ただしい教職員の動き。学生達が席についても、授業を受け持つ教員は現れず、廊下を慌ただしく駆け回る音だけが聞こえる。

「…何かあったのかしら?」

「そうですね…とはいえ、待つ他ありませんが…。」

 ひそり、とジェーンと話し合う。教室のあちこちではやはりエリスとジェーンのように、何が起こったのかと周りとヒソヒソと声を掛け合っているのが見える。窓際の席の者が外を見回しては、何もないと教室内に声をかける。何があったのか───そろそろ誰か一人、廊下に出ていってしまうのでは、というところまでざわめきが大きくなったところで、イルシュナーが教室へするりと入ってきた。

「遅くなって申し訳ありません。授業を始めます。」

「教授、何があったのですか?」

「やけに騒がしいのは何か起きたのですか?」

 少しばかり乱れた髪を指先で軽く梳いて、いつも通りの平坦な声で教室へ呼びかけたイルシュナーへ、令息達からの興味津々の質問が矢継ぎ早に飛ぶ。令嬢達は声をあげはしないものの、令息達の声に深く頷いてイルシュナーを見つめた。

「…学内でトラブルが起きているのは事実です。この授業以降は休講となります。なるべく手短にまとめますので、授業が終わり次第、皆寮に戻るようにしてください。」

 はあ、と深い溜め息を吐いたイルシュナーの言葉に、教室は緊張感を持ってざわついた。学園に通うのは凡そが魔力を潤沢に持った学生達だ。護身術は必修科目で、大抵のトラブル───直近では貴族子女を狙った誘拐犯が学園内に忍び込んだが、その際も休講になることはなかった。つまり、それだけのことが起きている。

「それから、クラウンさん。」

「はい。」

「クラウンさんは急ぎ、医務室へ向かってください。授業の内容は後ほどどなたか…ああ、フルールさん、ノートを彼女に見せて差し上げてください。」

「はい、教授。」

「フルールさん、ありがとう。クラウンさん、荷物は後から運ばせます、急いでください。」

「っ、かしこまりました。」

 何が起きているのか、夢で見た中に似たような出来事はなかったか記憶を漁っていたエリスを、イルシュナーが硬い声で呼んだ。告げられた内容は予想だにしていなかったもので、一瞬エリスは呆けた。授業よりも優先度が高いと続けるイルシュナーの言葉に、ようやくエリスは頷くと、荷物もそのまま、ジェーンにノートを頼むだけ頼んで教室を静かに、けれど足早に退出した。

 廊下に出ると、教室内にいた時よりも重く冷たい空気が階下から伝わってくる。教室の後ろ側の扉から出たエリスだったが、念の為前側の扉の脇を通って階段へ向かう。すると、途切れ途切れにエリスへ、イルシュナーからの念話が飛んできた。

 医務室へ行けという指示は、イルシュナーの独断だという。それだけしか内容は受け取れなかったが、エリスにはそれで十分だった。近くにいるのに正常に受け取れない念話。念話は、相手にもよるが二〜三メートルであれば雑音なく受け取ることができる。お互いの魔力を認識しあっている者同士、相手の魔力へ周波数を合わせて飛ばすのが念話だ。それが、この距離で、途切れる。

「キール先生…!」

 足音が聞こえないよう、風を足元だけに纏わせてエリスは走り出す。階下から湧き上がる重たい冷気の正体にようやくエリスは気付いた。濃い───魔力持ちでは到底、混魔でも持ち得ないような、濃い魔力が階下から滲み出している。エリスが知る限り、学園内の学生、教員でここまで濃い魔力を持つ人間は一人しかいない。

 エリスの教室は三階。医務室は一階だ。医務室は元々魔力を暴走させた学生が運び込まれることがあるため、他の教室や教員たちの研究室よりも、魔力を通しにくい頑丈な作りをしている。だが所詮、学生の魔力の限界値で計算された設計なのだろうとエリスは階段を駆け下りながら考える。

 何が原因か、何が起きたか分からないが、キールが魔力暴走を起こしたと仮定する。魔力は年齢と共に保有量が増える。医務室の設計の最大値はおそらく、先祖返りを計算に入れていたとしても成人以上を鑑みている可能性は低い。そうなれば、滲み出した魔力を冷気として感じている可能性は極めて高かった。

 最後の数段はポンッと飛び降りるようにして、エリスは一階に辿り着いた。一階の廊下を踏んだ瞬間に、爪先が凍えるような錯覚を覚えた。突き刺すような魔力を感じつつ、医務室へと向かう。意外にも一階の廊下に人影はなかった。否、一階に人の気配がなかった。───一人、エリスのよく知る魔力の持ち主を除いて。

「…キール先生。」

 コンコン、と医務室の扉をノックする。瞬間、一瞬湧き出すような魔力の波が止まった。だがそれも一瞬のことで、再度扉をノックしようとするエリスの手を拒むように、扉に何らかの魔術がかけられたらしい。二度目のノックをしようとしたエリスの手を、扉からパチリと軽い電流が走り拒絶する。

「キール先生、わたくしです。エリスです、開けてください。」

 軽い電流程度なら、とエリスはその拒絶を無視して、無理矢理に扉をノックし続ける。終いには指先が痺れる程度の電気が走ったため、さすがのエリスも扉をノックするのは諦めた。キールは室内にいる。そして、室内に誰かが入室するのを拒んでいる。あるいは、誰かがではなく、エリスが入室するのを、拒んでいる。

 ならば、とエリスは足を軽く肩幅程度に開き、深く息を吸った。意識して喉に魔力を集める。

「キール先生、開けてください!」

 前世で言うところの腹式呼吸を意識すれば、予想以上に容易く扉にかけらた拒絶の魔術は弱まった。その隙を狙って、エリスは手のひらが真っ赤になるのも構わず、扉を無理矢理に開ける。扉にかかっていた鍵は、エリスの声で軽く吹き飛んでしまった。それなりに多い自分の魔力量に感謝しつつ、扉をこじ開ける。途中、指先の感覚がなくなるほどに痛んだが、そんなことはどうでもよかった。

 開いた扉の先、キールが床に蹲っていたからだ。

「っ…キール先生!!」

 他の学生への影響も考え、飛び込んだ後扉を閉めるのは忘れない。だが、大慌てでエリスはキールへ駆け寄った。傍目で見てもわかるほど荒い呼吸を繰り返すキールに差し出した手は、キールに触れる前にやはり弾かれる。

「…え、りす嬢…?」

「キール先生、どうされたんですか!?何が、」

「どうして来たんだ!!出てってくれ!!!」

「きゃっ…!?」

 出ていけ、と叫んだキールから、噴き出す魔力に、エリスは床に膝をついて耐えた。三階から駆け下りてくる最中に緩んでいた首元のリボンタイが、キールの魔力による風圧に負けて飛んでいく。エリスの姿を認めて、キールはずるずると壁ににじり寄る。白い額に、脂汗が浮かんでいる。荒い呼吸のまま、キールはしゃがみ込んだまま壁に寄りかかりエリスを見遣った。

「! その、牙は…、」

 威嚇するように、怯えるようにエリスを睨みつけるキールの口元。見慣れない二本の牙が、主張するように真白く光った。

「ボクは吸血鬼だ、おかしくはないだろう?わかったら出ていってくれ、頼むから!」

 ぐしゃり、と前髪を掻き乱すキールの手の甲には、いく筋も血が滲んでいた。恐らくは、自身を抑えるために自らを噛んだのだろうというのは、想像に容易かった。

 キールを中心に巻き上がる魔力の渦は、混魔の中でも魔力の多いエリスだとしても簡単に触れられるものではない。扉を開けるのだけでも魔力を消費し、しかも両手はキールの剥き出しの魔力に触れて既にボロボロだ。何枚か爪が割れ、血が滲んでいる。

 恐らく一階に教職員すらいなかったのは、キールを抑えられる人員を確保するべく動いているのだろうとエリスはようやく気づいた。室内はキールを中心に、まるで竜巻でも室内で起きたかのように荒れている。ベッドを囲うカーテン切り裂かれたかのように千切れ、薬品棚は一部倒れている。倒れていない棚も、ガラス戸に無数のヒビが走っていた。

 惨状。そう呼ぶに相応しい空間を作り出したのは、キールから漏れ出す魔力だ。この状態のキールを止められる人間はそう多くない。それこそ、宮廷魔術師でも高位の者になるだろう。ではそういった者が、この状態のキールを止めるとして。それで果たしてキールの無事は、保証されるのだろうか。アンカースなら、どうにかキールを傷つけない方法を考え、取ってくれる可能性がある。だがそれ以外の人物が来たら?ぐるぐると考えて、それからエリスは深く息を吐いた。

 ───一か八か。キールを失うかもしれない可能性に行き着いてしまっては、ここをこのまま離れるという選択肢はあり得なかった。

「頼まれたって、貴方を一人にするものですか!」

 魔力を込めた声を、ぐっと腹から出す。喉の奥から血が滲んだような味がしたが、そんなものに気を取られている暇はなかった。キールの奔流のような魔力の渦にぶつけられたエリスの魔力は、わずかばかりながら、キールの溢れ出す魔力を抑える働きをしたらしい。それを認めると、エリスはキールへ駆け寄った。途中、制服が多少切れたり、頬に鋭い痛みを感じたりはしたが、それで足を止めるエリスではなかった。

 どうやらキールには、エリスを振り払うだけの力すら残っていなかったらしい。魔力を放出させるのは、命を削るほど体力を使う。エリスの吠えるような宣言に目を丸くしているうちに、気づけばキールはエリスに抱きしめられていた。

「エリス嬢!?なにを、」

「わたくしの血を、飲んでください。」

 凪いだエリスの声に、キールの体は大きく震えた。震える体で、大した力もこもらない腕で、エリスの体を離そうと、心ばかりの抵抗を見せる。

「だめ、だ…それはいけない、だめだよ、エリス嬢。ボクは、」

「吸血鬼だと言ったのは、キール先生でしょう?」

「でも!」

「血を飲めば治まるのでしょう?ならば飲んでください!」

 制服の胸元のボタンを乱暴にくつろげ、キールの口元に首筋を差し出す。震える唇が、緩みかけてはぎゅうと噛み締められる。躊躇っては拒否するようなキールの態度に、エリスは両手でキールの頭を抱き抱えた。

「飲めば楽になれるのなら。飲んでください、キール先生。」

 震える熱い吐息が、エリスの首筋にかかる。次の瞬間、強烈な痛みがエリスの首筋に走った。痛いのか、熱いのか判別がつかず、目の奥で星が飛ぶような激しい痛みだった。

「っぐ…!」

 奥歯を食いしばって、痛みに耐える。ずる、と血が吸われる音と感覚がする。痛みでぼう…とするエリスだが、すぐに室内に溢れていた魔力が弱まっていることに気づいた。エリスは痛みで力の入りにくい腕を動かして、抱きしめたままのキールの髪を撫でる。

「…落ち着くまで、どうぞ。」

 このまま血液を摂取すれば、もう少し落ち着くかもしれない。エリスはそう判断して、キールにもっとと血を勧めた。キールの体は最初こそ弛緩して震えていたものの、今はむしろエリスの体を抱き寄せるほどで、その腕の力が、キールの回復を表しているようで痛みに震える体のままエリスはほう…と息を吐いた。

 先祖返りがどうかは知識になかったが、一般に吸血鬼は空腹状態―――血液が足りなくなると魔力を安定させることができなくなると聞く。そして、キールの口元に普段は存在しない牙と、いく筋もついた手の咬み傷。それらから咄嗟に自分の血液をエリスは差し出したのだが、どうやら対応として合っていたらしいと安堵する。

 安堵すると同時に、エリスの視界が貧血の時のように白んでいく。キールの頭を抱き抱える腕にも、力が入らずもはやダラリとその背に回されただけの状態だ。気づけば、血を啜られるのに痛みを感じなくなっていた。

「…エリス、嬢…?」

 ずるり、と首筋から牙が抜かれる感覚があった。それと同時に、エリスの異変を感じたらしいキールが吸血をやめ、エリスの顔を覗き込む。覗き込まれた際に、口元の牙がだいぶ存在感を薄めていて、見慣れたキールの表情にエリスはふわりと微笑んだ。

「よか、った…落ちつか、れて…。」

「エリス嬢!」

「お、やく…に、たてて…よかった…。」

 意識を失うような貧血の症状、にかなり近いながら、それよりも体から体力はもちろん魔力まで、全てが空に近い感覚だった。力が入らず震える指先で、キールの口元の血を拭ってやりながら、血の気を失ったエリスは途切れ途切れに呟く。

 ───エリス!!

 キールが珍しく慌てた声で自分を呼んでいる、気がする。ホワイトアウトする意識の片隅でそんなことを思いながら、エリスはキールの腕の中、くたりと意識を失う。

 その背後、バタバタと慌ただしい足音と共に、アンカースを先頭に雪崩れ込んだ魔術師達が目にしたのは、気を失って人形のようにだらりとしたエリスの体を、泣きながら抱き締めるキールの姿だった。

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