14.不相応な願い
「…と言うわけで、一旦わたくしの婚約話は断ち消えました。」
家族会議が終わり、週明け、エリスは学園に戻った。いの一番に医務室へと足を運んだエリスは書類の整理をしつつ、キールへ淡々と報告───もとい、愚痴を吐く。こちらも同じく書類にペンを走らせながら、キールは苦笑いを浮かべる他ない。
なにせ、キールだけはライルの言外の思いに気づいている。エリスは、ライルの言った自身の我儘という言葉を欠片ほど信じているようだったが、けれどもそれが全てではない。不器用な兄なりの妹を案じる思いを正直に口にするチャンスを不意にしたのだなと、後輩の顔を思い浮かべて苦く笑うだけである。
「それで?エリス嬢はどうするんだい?ライルくんの言う通りにするとしても…アテはあるの?」
「ありません。大体、わたくしと親交のある方は、意中のお相手がいるか、婚約されていますから。」
精々キール先生くらいでしょうか。エリスの言葉に、キールは空咳をした。ゲホゲホと慌てたように咳をするキールを、エリスは少し冷めた目で見つめる。
「事実ですから仕様がないでしょう?それに、わたくしを揶揄う前に、キール先生だってそろそろお相手を探されるべきなのでは?」
「…うーん、そうだねえ。」
ベーゼンド王国は、他国に比べれば晩婚の風潮がある。それは魔力によって、幼少期に交わした婚約が成り立たないことが度々起きたり、混魔に至っては血脈を引く魔族の寿命に近しい長命である者が多いことから、極々自然な流れだった。
とはいえ、キールも三十を目前とする年齢。流石にそろそろ婚約くらい…という頃合いだ。加えて公爵家の血を引くキールは、本来であれば引くて数多。噂によれば届く釣書全て、キールが冷たく足蹴にしたことから今ではとんと浮ついた話を聞かないという。
「キール先生こそ、どなたかいらっしゃらないのですか?」
「あー…まあ、うん。…それより今、目下の悩みはこの引き継ぎ書の山なんだよね。」
あからさまに話を逸らしたキールだったが、やれやれ、とでも言わんばかりに椅子の背もたれにだらりと体を預けて脱力した。嫌になるよ、とキールは愚痴る。
「ああ…この見覚えのない書類。引き継ぎとは何のでしょう?」
「この医務室のだよ。来年いっぱいで退任予定なんだ。」
「え…。」
僕の着任時には引き継ぎ書も何もなかったくせに、酷いよねとキールは笑った。まるで明日の予定を告げるような軽い口調のキールに対し、聞いていない、とエリスは目を見開く。
「急に、決まられたので…?」
「ん…?ああ、うん、そうなんだ。着任の時も急だったし、辞める時も急みたいだよ。」
「そんな他人事みたいに…。後任の方は、もう決まっているのですか?」
「さあ?最初はクリストフ殿下の予定だったけれど、卒業前に退任ってなったからね。今頃話し合われてるんじゃないかな。」
「なら…なら残ればよろしいのでは?後任探しで苦慮するくらいなら、予定通りキール先生が残られれば…。」
「…そう、だね。」
書類整理をしていた手は止まっていた。だらけた姿勢のままのキールにエリスは言い募る。そのまま残ればいい。けれど吐息混じりのキールの返答は、まるでそれができれば良いけれど、とでも言いたげな歯切れの悪い声だった。
「まだ内緒にしておいてね。知っている人は極一部なんだ。エリス嬢なら口も堅いから、大丈夫だとは思うけれど。」
「…はい。」
どうして、と問おうとエリスが口を開くより早く。キールはこれ以上聞いてくれるなと言わんばかり、満面の笑みでエリスより先に話を打ち切った。笑顔のくせに笑っていない瞳に気付いたエリスは、その言外の拒絶に鳩尾のあたりが冷えるのを感じた。体の芯が冷えて、開きかけた口は、はくりと息だけ吐いて閉じられる。
常であれば、言葉に詰まったエリスの、飲み込んだ言葉を引き出すのがキールだった。だが今日ばかりは、言葉を飲み込むよう促すキールに、エリスは何か言いようのない不安を抱いた。何か、何かがある。キールの退任は勿論だが、それ以上の何かをキールは隠している。漠然とした不安を抱くエリスを尻目に、キールは能天気を装って、ようし!と勢いづけて書類の山に向き直っていた。
意気揚々と書類の山を取り崩しにかかるキールの背中が、何故か頼りな気なものに見える。能天気なふりをして拒絶をするくせ、背中に弱さを滲ませるキールに、エリスはギリと唇を噛んだ。口の中に錆びた味が微かに広がる。
「キール先生は、」
「ん?」
「キール先生はわたくしに無理をするな、頼っていいと仰るのに、自分のことになると真逆のことをなさるのですね。」
「エリス嬢…?」
「頼れと言う癖にわたくしには心配もさせてくださらない。確かにキール先生は先生で、わたくしは生徒です。親の助けなしに何もできない子供ですから、頼ってくださいなんて無責任なことは言いません、けれど…心配すら、できないなんて。」
能天気に見せる様が、心配すらも拒むようで。弱さを隠しきれもしないくせにへらりと笑うキールを、エリスは静かに詰めた。元々家族への苛立ちを燻らせていたせいで、今はエリスにも余裕がない。余裕がない自覚はエリス自身あるものの、キールの柔らかい、けれど確固とした拒絶に、ムカムカとした悪感情がみぞおちの辺りで熱を持つようだった。
「ちが…ちがうよ、エリ、」
「―――もういいです。今日はこれで失礼します。」
キールが何事か口を開くのを遮るようにピシャリと言い捨てて、エリスは足早に医務室を後にした。拒絶に対して拒絶を突き返すようなエリスの言葉に、キールがどんな顔を浮かべているのか、エリスは敢えて視界に入れなかった。一人飛び出した廊下で思う。キールの声音が、今まで聞いたことの無い迷子のような声だったこと。けれどエリスはそれを振り払ってしまった。言いようのない罪悪感が、ざらりと背を撫でるようだった。
啖呵をきった手前戻るわけにはいかない、けれど去り際のキールの声音が耳にこびりついて離れ難い。ずるり、扉に背をつけたままエリスは廊下にしゃがみ込んだ。令嬢として床に座り込むなどはしたないことこの上ない自覚はあった。けれど、と思う。まとまらない感情と考えごと己を抱き込むように、抱え込んだ膝にエリスは顔を埋めた。
どれだけそうしていたか。室内でキールが動く気配もなく、恐らくはお互い、お互いの魔力でそこに居ることを感じてはいた。けれどお互いに、相手の手を取ることはできず。どれだけそうしていたか、体が冷えてきたと自覚した頃合でエリスは一つ溜め息を吐くと、勢いをつけて立ち上がる。スカートに寄ったシワを軽く叩いて伸ばし、ちらりと医務室の扉を一瞥してから、静かに歩き出した。
翌日、エリスは珍しく寝不足の色を隠さない顔色でグローリアとジェーンを迎えた。エリスが姉妹と語らうのは、最近はもっぱら、朝と放課後のみ。放課後はそれぞれを送り届ける必要性があるため、ゆっくりと時間をとって話すことができるのは実質朝のみだ。目元に浮かぶ濃いクマを、無理やり化粧で誤魔化すエリスに、グローリアが心配げに寄り添った。
「エリス様、どうしたの?体調が悪いなら無理をなさらないで。」
「ありがとうございます、グローリア様。お恥ずかしながら昨日は少し寝つきが悪くて…。大したことはないので、今日は早めに休みます。」
「それがいいわ。お姉様、エリス様をよろしくね。」
「ええ、リア。大丈夫よ。」
一人クラスが違うグローリアは、教室へ向かう道すがらひとしきりエリスを心配した後、ジェーンにエリスを頼んで教室へと入っていく。後ろ髪引かれるように、数メートルの距離もちらちらと後ろを───エリスの様子を伺うグローリアに、エリスは小さく笑った。ここ数日の間で一気に荒んだ心が、純粋に心配されたことでほんの少し癒される心持ちだった。
「エリス様、本当に今日は無理をなさらないでね。リアも言っていたけれど…何かあったらわたしを頼って。ね?」
「ジェーン様もありがとうございます。心配をおかけしてしまってすみません。」
「良いのよ、わたし達はお友達でしょう?心配するのは当然のことよ。」
「ふふ、ありがとうございます。」
少し過保護な様子のジェーンに、そういえばジェーンは自分よりも二つ歳が上だったことをエリスは久しぶりに思い出した。授業内でペアを作る際、編入であるジェーンのサポートができるようにと、エリスが組むことが多い。普段、あまりに自然と一緒に授業を受けているため、年齢差を忘れていたのだ。
「それで、どうされたの?」
「え…ああ、くだらないことですよ。」
「くだらなくないわ、だってエリス様だもの。エリス様がクマを作られるほどのことって、他の方からしたら余程のことだと思うのが当然だわ。」
常になく強い口調のジェーンに、エリスは何と返すか悩んだ。寝不足で、思考力は落ちている。そこに強く言い切る口調で、心配だとかかってこられては、エリスに拒む術は実質なかったと言っていい。エリスは迷いながらも、そっと言葉を溢した。
「いえ、あの…ただ、」
「ただ?」
「…ただ、キール先生と、少し、意見のソリが合わなくて。」
「ええ。」
「ただ、それだけなんです。くだらないでしょう?」
「くだらなくなんてないわ。それで、エリス様が傷ついて…いいえ、悩んでいるのなら、きっとそれだけじゃなかったんでしょう?」
それだけ、ではなかった事情を無理に口にする必要はないと、ジェーンはそっとエリスの肩を抱いた。ぽんぽん、と軽く背中を叩かれ、いつの間にか詰めていた息を吐く。
「今日、キール先生とは?」
「…お昼は確か、教員会議の曜日ですから…約束はしていませんが、放課後、でしょうか…。」
「いつも特に約束はしていらっしゃらないのでしょう?大丈夫、いつも通り医務室へ伺えば、きっと大丈夫よ。」
「いつも通り…。」
「そう、いつも通り。引っかかっていらっしゃるのが何か分からないけれど、エリス様の顔に、謝りたいって書いてあるから。まずはいつも通りお邪魔して、謝って、仕切り直してしまえばいいわ。ね?」
「…そう、そうですね。ありがとうございます、ジェーン様。」
「どういたしまして。」
ふわり、と微笑むジェーンに、エリスはそっと肩の力を抜いて微笑み返した。そうだ、まずは一言謝ろう。昨日はそもそも自分自身が感情的すぎた。感情的な相手には何を説明したところで無駄だということを、エリスは身に染みて知っている。冷静になって説明を求めてみれば、突き放すようなキールの態度も変わるかもしれない。何か、事情の一欠片でも話してくれるかもしれない。
胸の引っ掛かりが取れて、エリスはようやく一つ笑えたのだった。
それから、数時間後。ランチタイムはここ最近にしては珍しく、グローリアとジェーンの二人揃ってエリスと食べると譲らず、カルロスが場所取りに奔走する事となった。悩みは晴れたから心配はないとエリスは二人に伝えたものの、姉妹は譲らない。本来二人とランチを共にしようとしていた、エリス達が縁繋ぎをした混魔の者達も、彼らは彼らで、エリスの顔色が悪いと、すんなり姉妹とのランチの機会をエリスに譲った。
「…方々に申し訳なさしかないです…。」
「致し方ないだろう。そんな白い顔色でいるのが悪い。」
「……カルロス様にだけは言われたくないセリフですね。」
「俺のは生まれつきだからな。」
亡者を操る一族の血を引くだけあってというべきか、カルロスの肌の色は限りなく白い。ついで恐らく白いのは、陽にあたれないキールだろう。ぽやぽやとそんなことを考えつつ、ケイティが自分のついでだと食堂から運んでくれた、温かいリゾットを口に運ぶ。軽めのクリームリゾットは白身魚の身がほぐされていて、胃に優しい味わいだった。
「エリスさん、どうでしょう?食べれそうですか?」
「ケイティさん、ありがとうございます。美味しいです。」
「よかった!」
ゆっくり食べてくださいね、と微笑むケイティは、エリスの向かい側、カルロスの隣に腰掛けている。エリスの両隣にはグローリアとジェーン。エステルとルークも並んで腰掛けており、いつの日かのランチタイムとはからずしも同じ顔ぶれが揃っていた。
「ケイティ様とエリス様は仲がよろしいのね。」
「学園入学前からの付き合いですからね。ね、エリスさん!」
「ええ、そうですね。」
エリスが唯一、さん付けで呼んでいることに気付いたのだろう。ケイティにグローリアが問いかける。ケイティとエリスの仲は、キールがケイティの父にエリスを紹介したところから始まっている。この中ではカルロスの次に長い仲だ。
「腐れ縁だろう?」
「それはカルロス様とのことです!」
毒気を抜くような笑顔をニコニコと浮かべるケイティに、シニカルな笑みを浮かべてカルロスが絡んでいく。きゃんきゃんと戯れ合うような二人に、エリスはそっと眦を緩めた。向かい側のじゃれ合う二人に聞こえないように、グローリアとジェーンに耳打ちする。
「カルロス様とケイティさんは、お付き合いなさってるんですよ。」
「ああ、やっぱりそうだったの。」
「えっお姉様、気づいていたの?」
にこにこと、そうではないかと思っていた、と笑うジェーンは、相変わらず底が見えない。一方のグローリアは、驚きひとつしないジェーンに驚愕の眼差しを向けた後で、キラキラとした視線を、カルロスとケイティに向けている。政略的とは程遠い色恋沙汰の話に、グローリアが興奮しているのが伝わってくる。
「ケイティ様!」
「えっ、はい!!」
「あの…あの、恋バナというやつをしましょう!?」
「えっ!!!何故!?」
興奮のまま、勢いのまま、グローリアは挟んでいたテーブルを避けて、ケイティの側に寄ると、その手を取った。状況についていけていないケイティは目を白黒させている。カルロスだけは、原因がエリスにあると気づいたようで、エリスを一瞥してはため息をつき、それから我関せずといったように紅茶を啜った。
「カルロス様も!他人事みたいなお顔をなさらず!」
「っそうですカルロス様!私が何を話しても良いのですね!?」
「構わんが?」
「っ〜〜〜〜〜!!!!」
余裕たっぷりに笑ってみせるカルロスに、顔を真っ赤にするケイティ。それを見て、グローリアは、キラキラとした目できゃあきゃあと声を上げる。エリスの中に浮かんだのは、若いなあ、などという、凡そ同世代の少女達を眺めていて浮かぶはずのない言葉だった。
「ふふ、リアったら。あんなにはしゃいで。」
「ケイティさんたちのような恋人同士は、学園内でも少ないですからね。見ていてこちらまで幸せになるのも道理かと。」
ぼんやりと三人をエリスは眺める。カルロスとケイティの仲は昔から知っているし、グローリアもクリストフ第二王子との仲は順調だと聞く。ジェーンはジェーンで、誰か名前まで聞いてはいないものの、想い人と良い雰囲気だとか。自分以外はおよそ政略的とは程遠い恋愛事情であることに気づき、エリスは小さく嗤った。
三人だけできゃあきゃあとやり合っていたのが、気づけばジェーンを巻き込み、ルークとエステルまでも騒ぎ始めている。一人だけ傍から、エリスは皆を微笑ましく見つめているような表情を浮かべた。
「―――恋なんて、」
そんなもの、わたくしには不釣り合いだわ。ぽつりと零されたエリスの毒は、笑い合う誰の耳にも入らなかった。