13.家族会議は予定調和に
久しぶりに―――とはいえ普段よりは間をあけず、寮から自宅へ帰ったエリスが最初に見たのは、自室の窓から見える荒れに荒れた庭だった。パベリーに聞けば、魔力持ち達からの釣書が山となってしばらくして、ローリヤが暴れたのだという。庭にはまだ少し、海水に似た魔力が残っていて、それが抜けきらなければ、庭の手入れをし直すことも難しいらしい。
「せっかくお嬢様がお戻りですのに…。」
「…いえ、それなら仕方ないことでしょう。」
ローリヤは激情家だ。聞けば人魚はみな、そうなのだという。ならばその血を引きながら、淡々としている自分は、ひどくアンバランスだろうなと、エリスはぼんやりと思った。ちなみにライルは色恋沙汰に関してのみ、かなりの激情家である。セリウスは人魚の血が混ざったのが四代前と血が薄れているためか、クラウン家の中では穏やかな気性である。
セリウスとライルの執務が終わってから、家族会議が開かれると、帰宅して早々に家令から言付けられたため、エリスは自室でのんびりと本を読んで過ごした。昼食まで寮で済ませてきて正解だったとエリスはそっと嘆息する。どうせ話し合いは夜だろうと当たりをつけて戻ったが、帰宅時間を悩むからある程度は、帰宅を促す手紙に書いておいて欲しかったものだと、まだ戻らない父に胸の内で毒を吐いた。
手紙を書いたのがライルであれば、時間も書き、何ならお茶の時間も過ぎてからの到着で構わないと、エリスの求める言葉を綴ってくれたことだろう。父が時間を指定しなかったのは、少しでも早く帰って、ローリヤと話しておいてほしいという思惑があってのことだとは、わかる。セリウスはライルほど、ローリヤに対するエリスの感情の機微を知らないからだ。
「お嬢様、旦那様方がお戻りです。談話室にいらっしゃるようにと申しつかってまいりました。」
「ありがとう、シュリル。久しぶりですね、…大丈夫?」
本を読み、パベリーの淹れた紅茶を飲み、時に彼女と雑談し。そうして過ごしていれば、あっという間に空が夕焼けに包まれていた。馬車が戻った音がする、と思っていると、ノックの後、年若いメイドがそっと腰を落として頭を下げ、エリスに声をかけた。
少し前の休暇中は、明るく溌剌としていたシュリル。少し白い顔色に、エリスはそっと顔を顰めた。
「顔色が悪いわ、パベリー、シュリルを休ませてください。私は談話室へ行きますから。」
「かしこまりました。」
「えっ、あの、お嬢様…?」
さっと立ち上がると、エリスはシュリルの手を取って歩き出す。部屋を出て、階段の前でパベリーに彼女の手を託した。心得たと言わんばかりのパベリーに対し、シュリルはどこかぼんやりと、それでも驚いた様子でエリスとパベリーを見比べる。
「お願いね。」
「はい、お嬢様。」
え、え、と戸惑った声を上げ続けるシュリルを、有無を言わさず連れて行くパベリーの背中を軽く見送って、エリスは一人談話室へ向かった。シュリルの様子に、エリスは覚えがある。魔力中毒だ。自分のものより強い、高濃度の魔力に長時間晒されていると、思考がまとまらなくなり、しまいには動くこともままならなくなる。シュリルは元が溌剌とした少女だったものだから、周りは落ち着きを覚えたのだろうと気にしなかった可能性が高い。そうでなければ、シュリルがローリヤ付きのメイドの証であるピンを胸元につけていた理由がわからない。
クラウン家では、ローリヤ付きのメイドにのみ、胸元にピンをつけている。鱗を模したそれには防御魔法が組み込んであり、時に癇癪を起こすローリヤから身を守る効果がある。だがそれで守られるのは、あくまでも攻撃魔法を受けた時だけだ。感情の波と共に溢れ出す魔力からまで、守ってくれるわけではない。
「失礼致します、エリスです。」
「入りなさい。」
ノックをして入った談話室には、すでにエリス以外の三人が揃っていた。セリウスとライルは、王城の執務官の証であるタイを巻いたままだ。帰宅してすぐ、話し合うことにしたのだろう。ライルの隣、セリウスの向かいにエリスが腰を下ろすと、すぐに紅茶がサーブされる。
「…あら?シュリルは?」
「シュリルなら今日は休むように下げました。魔力中毒の症状が出ていましたので、今パベリーをつけています。」
「え…?」
「エリスから見て彼女の症状は?大丈夫そうかい?」
「まだ軽度の症状だとは思います、が、一旦魔力抜きをする必要はあるかと。…お母様付きからは、外した方が良いかと思います。」
ローリヤはシュリルを気に入っていたらしい。自分の魔力が原因である、と暗に告げられ、顔色を悪くしている。セリウスはそんなローリヤの背中をさすりながら、エリスに症状を確認した。
「私付きに異動させましょう、私付きならそこまでリスクはないでしょうし、しばらく休ませていても問題ないわ。」
「そうだな、一旦ライル付きにしよう。」
ローリヤから離す。それを聞いたローリヤから、冷えた魔力が漏れるのを察して、ライルは慌てて声を上げた。セリウスはそれに、何も気づいていない様子で同意した。ローリヤからお気に入りを引き離す悪、エリスが一瞬でもそう認識されたのに、兄妹は気づいていた。ローリヤは気に入ったものを全て抱え込んでおきたい質だからだ。最も執着を向けられても平然としているセリウスだけは、気づいていないようだが。
「…エリス、急に戻らせてすまなかった。」
「いえ、お父様。…婚約の話が幾つか来ていると。その件でしょうか。」
「エリスの言う通りだ。…事情はどの程度知っているかな?」
「…派閥闘争であることは、認識しております。」
「…そうか。そうだな…エリスなら、知っているね。」
セリウスは目を細めてエリスを見つめた。我が娘は淡々と答えたが、婚約の話とイコールで派閥闘争によるものと正しく答えるのは、箱入りの令嬢には難しいはずだ。だが、とセリウスは思う。エリスはきっと、原因も要因も、全てを正しく把握しているのだろう。学園で起きたサミュエル・ダレル一派による聖女への襲撃未遂に関して、セリウスもライルも、問題が王城預かりになってからは調査に加わっている。それを解決に導いたエリスの表向きの行動も、暗躍も、ステファンから上がってきた報告から、正しく読み取っていた。
「…エリスは、どうしたい?」
ライルはそっとエリスの片手を握ってやりながら問いかけた。この問題はライルが主導すると、帰りの馬車でセリウスと取り決めていた。
「どう…とは?」
「想う方がいるなら、その人の名前を教えてちょうだい。婚約に向けてうちから打診するなりできる。それか…今回の釣書から誰か、選ぶか。想う方がいなくても、釣書から無理に選ぶ必要はないわ。」
「…混魔と友好関係を築いている家からの釣書はありますか?もしくは混魔廃絶に動いていない家が良いです。その中から、家格と、我が家の利になる方を選んでいただけませんか?」
「エリス、何を…?」
「わたくしは、家の利になれば他に希望はございません。」
ガシャン、とカップの割れる音がした。ローリヤの手から、カップが滑り落ちたのだ。
「エリス、エリス…駄目よ、愛する方と結ばれなければ。どなたかいないの…?エリスが選んだ方なら、誰も反対しないわ。言ってみて、ね?」
こぼれた紅茶に構うことも、服の裾が濡れるのもいとわず、ローリヤはローテーブルを回り込み、エリスの元へよろけながら駆け寄る。まるで先日のキールのようだと、エリスは表情には出さず胸の内で一つ、笑った。
「お母様、では例え話ではありますが…もしわたくしがカルロス様を選んだらどうされます?」
「…あの亡者の一族?エリス、あの息子は駄目よ、エリスに釣り合わないわ。もっと良い方がいらっしゃるわ。」
「―――舌の根の乾かぬ内、という言葉をご存じですか?」
意地が悪い自覚はあった。ローリヤがカルロスの一族を嫌忌しているのは、家族内で周知の事実だ。それでもあえて、エリスはカルロスの名前を出した。誰であっても反対しないといいながら、自分の気に食わない魔族の血を引く一族に関しては、どうあっても認めるつもりがない。ローリヤの傲慢さを、エリスは家族の中で一番知っている。
「誰であっても反対しないのでしょう?お母様。ならばお母様が厭う血を引いている方でも、受け入れていただかなくては。…できもしないのに、口先だけで言わないでください。」
言葉が出ないのか、口をパクパクと動かすローリヤから視線を外し、エリスはライルに向き直る。
「カルロス様は例に出しただけですが、どのみち、お母様が受け入れる方となると狭められるでしょう?だから、先ほどの希望も合わせて通していただければ、わたくしは何も言いません。」
「エリス…。」
ライルは途方に暮れたようにエリスを呼んで、それから力なく片手で髪を乱した。やるせない、と全身で示す兄に、エリスは一つ苦笑した。ライルもわかっていたのだ。ローリヤの誰であっても反対しない、の一言に、自分が認める範疇であれば誰でも、の意であることを。
「お父様、私はエリスをこの騒動の道具にしたくはない。だから今回の釣書、すべてに辞退の返事をします。よろしいですね?」
「ああ。」
「また、今後はエリスの婚約に関しては、すべて私とエリス本人で進めます。お父様はまだしも…お母様には関与していただきたくありません。」
「…わかった。」
床に崩れ落ちたまま、二の句が継げぬローリヤを横目で見やったライルは話を進める。セリウスは苦悩した様子で、それに首を縦に振った。娘の婚約にかかわれない、そう聞いたローリヤの瞳から、大ぶりの涙がボロボロとこぼれた。涙だったはずのそれは、床にころりと音を立てて転がる。部屋の明かりで、きらきらと光るそれは、人魚の涙。感情が高ぶったときにしか、流れないはずのものだ。
エリスはそれを見て、冷めた感情を抱いた。そんなに干渉したいか。毒のような感情が、胸の内でとぐろを巻く。
「エリスも、それでいいわね?」
「…わたくしは、何でも。お兄様の、家の決定に従います。」
エリスの言葉に、部屋の空気が一気に重く、冷えた。部屋中に満ちるほどの魔力を全身から燻らせるローリヤに、全員の視線が向いた。
「…お母様、エリスの幸せを願ってくださるなら。了承してください。」
エリスは先に部屋にお戻りなさい。ライルはローリヤから視線を外さぬまま、そっと囁いた。でも、とつぶやいたエリスだったが、いいから、と背中を押されては致し方ない。俯いたまま表情は見えぬものの、ローリヤから感じるのは怒りの感情だ。恋と愛を尊ぶ種族であるローリヤに、恋も愛もどうでもいいといったエリスの態度は逆鱗に触れるものだろう。理解はできる。でも、とエリスは胸の内で呟く。でも、誰かを愛しても無駄になるのなら、自分を見てくれる人のところに嫁ぐことができたら、それだけでも十分だろう。
パベリーはまだシュリルについているようで、部屋の前に待機してはいなかった。エリスは足早に部屋に戻ると、ソファーに倒れ込むように座った。
「…感情まで、お母様の都合よく動けば楽だったのに。」
ローリヤの求める娘像を演じてきた。物分かりよく、大人しく。意見は控えめに、親の言うことにはしっかり従う。それなりに可愛らしい物を身につけ、淑やかに振る舞う。声には魔力がこもるから、なるべく柔らかい声音と口調を心掛けて。
今のエリスを構成するものは、大凡がローリヤの理想からの産物だ。本当のエリスはそこまで大人しくない、物心ついて間も無くは、前世の夢に振り回されつつも、お転婆とまでは言わないが明るい少女だった。ライルと声を上げて笑い合い、庭を駆け回れたのは幼少期まで。
―――エリス、あなたは人間のお嬢様なの。だからそんなにお転婆では駄目。お母様の自慢の娘になってくれるでしょう?
「わたくしは、所詮…お母様の理想のお人形でしかない。」
重い溜め息を、ひとつ。身の内から溢れそうになる魔力を無意識にぐっと堪える。無理に抑えた魔力が体の内側でグルグルと渦巻くのは内蔵を無造作にかき混ぜられるような酷い痛みだったが、それでもエリスは耐えた。ソファーの上、体を折りたたむようにして縮こまり、両腕で自分の体をかき抱く。
ライルが学園に入学してからは、エリスの事を無条件に宥め抱きしめてくれる人はいなかった。ローリヤはそのくらいの魔力の揺れぐらいどうにかできるでしょうと、自身と娘の体の作りの差にも気付かなかったし、セリウスに至っては家を長く空けていたため、エリスが苦しんでいたのを知らない。一人で耐えることが、エリスにとっては当たり前だった。意識して深く息をすること数回。脂汗こそ滲んでいるものの、痛みがマシになったのを待って、エリスはゆっくりと体を起こした。
「―――エリス?」
「お兄様、なんでしょう?」
軽いノックの音ともに、ライルが部屋に顔を覗かせる。心配げな表情のライルに、エリスは意識して穏やかな笑みを作った。
「さっきは…お母様を止められなくてごめんなさいね。そもそもお父様がエリスをこんなことで呼び戻そうとしているのも気づかないで…止められなかったわ。本当にごめんなさい。」
「お兄様が謝ることなど、何も。わたくしに選択肢を残してくださいました。わたくしは…家のためになるご縁ならば、本当に、どなたでもかまわないのです。」
「それがエリスにとって本心からだろうとは思う。…でも、私は妹を犠牲にして家を盛り立てたなんて思いたくないし思われたくないの。だからこれは、私の我儘よ。」
恋を探しなさい、エリス。ライルの思っても見なかった言葉に、エリスは目を見開いた。
「自分を偽らず、思うままの自分で向き合える人を探してほしいの。お母様の言いなりでいることなんてないの。ないのよ、エリス。」
おもむろにエリスを引き寄せたライルは、それこそあやすようにエリスの髪を撫でながらぽつりと溢した。ライルにとってエリスは可愛い妹だ。それなりの素養があったと言う前提はありつつも、嫡男としては自由に育てられたライルに対し、ヒトの貴族に当てはめられるのを拒否したにも関わらず、娘を貴族子女として厳しすぎるほどに礼儀作法を叩き込む母に、ライルはずっと違和感を覚えていた。そしてそれが、異様だと気付いた時には、もうエリスは幼少期のような無邪気な、顔いっぱいに笑顔になるような溌剌とした表情を浮かべることはなくなっていた。
ライルはずっと、後悔している。自由に育った自分と、しがらみに縛られた妹。大人になり、母の身勝手を全て理解してから、余計にその後悔は重くのしかかった。そして妹は、もはやそのしがらみから抜け出す気力すら投げ出してしまっている。自分にだけは素直に頼り、甘えた可愛い妹。仮にエリスが男であったならば、きっと跡目争いをしただろうと、陰口を叩かれることもある。けれどもそんな、たらればなどどうでもよかった。エリスは自分ではおよそ読めない何かを、生まれながらに持っている。そんな妹を気にかけるのはライルにとってごく自然なことだった。
───たとえその兄の思いを、妹が図りかねているとしても。