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09. 雨の日ダンス



 この国に来て初めて降った雨が、窓を叩いていた。



09.



 慣れないハイヒールを履いて、背筋を伸ばし、顔を上げる。見上げた先にいたのは、美しい金髪と夜を連想させる宝石のような瞳の美青年だ。まぶしすぎる。美月は勢いよく顔を逸らした。


「無理です!」

「傷つくなぁ」


 嘘つけ、と心の中で悪態をついて、美月は横目でシオンを見た。いつも着ていた上着を脱いで、白いシャツ一枚になったシオンは憎たらしいまでに完璧だった。

 彼はにっこりと天使のように微笑んでみせる。腹立たしいことに、彼は自分の容姿を自覚している。だから、今私が照れている理由も分かっているのだ。

優雅に紅茶を飲みながら足を組む、もう一人の美しい家庭教師に「チェンジ」と訴えかける。

 リオルトはカップから口を離し、首を傾げた。


「なぜですか? 彼はダンスもそこそこ上手ですよ。あなたとの身長差的にも、練習をするにはもってこいです」

「いや、そういう話じゃなくて、つまり顔ですよ!」

「顔? 顔がなんですか?」


 リオルトはシオンから離れようとする美月の行動の意味がかけらも分からない。彼が首をひねると、美月は顔をしかめて、重たいため息をついた。


「リオルト様は、人の美醜に一切興味がないからね」


 すぐ後ろから楽し気な声がそう教えてくれる。美しい人間ほどその自覚がないと聞いたことがあるが、それはどうやら事実らしい。

 美月はほかに助けになりそうな人物を探したが、部屋付きのメイドはティーセットを用意し、部屋から出て行ってしまったばかりだ。部屋の中には3人だけ。助けはやってこない。つらい。


「さあ、さっさと抱き合って踊ってください」

「うぐぅ」


 品よくデコレーションされた焼き菓子を人差し指と中指で挟み、「早く」と指される。助けを求めるように見つめてみても、リオルトは動かなかった。ついに観念して、美月はシオンと向き合う。

 シオンは太陽のようにまぶしい笑顔で、両手を広げて待っている。


「さあ、ミツキ」

「……シオンさん楽しんでますよね」

「もちろん。ミツキ顔真っ赤だねぇ」


 自分の顔が真っ赤なのは、よく分かっている。異性に抱きついたことなんて人生で一回もないのだ。熱くて、発火寸前だ。

 そして、そう言うシオンの顔色はまったく変わらない。それが美月には少し悔しい。悔しかったから、半ばやけくそのような気持ちで、体当たりするようにその胸に飛び込んだ。思ったよりも勢いをつけすぎた気もしたが、シオンはびくともしなかった。


「じゃあ、まず胸を張って、右手は伸ばしてそのまま僕の手を握って。で、反対側は僕の背に回して」


 言われた通りに姿勢を作ると、目線に白い首と金髪がちらつく。一つだけ開けられたボタンの隙間から、なんだかいい香りがして、脳が沸騰した。くらりと力が抜けそうになるが、察したように背を支えられ、ついに石のように固まるしかできなくなった。


「ほぁ……」


 心臓の音が聞こえてしまっているんじゃないかと、恥ずかしさのあまり変な声が出た。そこに追い打ちをかけるように「うわぁ、ミツキ、心臓の音すごいねぇ」と底抜けに明るい声が降ってくる。


「しぬ……」

「死なない死なない」

「そうですよ。それに、聖騎士に力を分け与えられる前に死なれては困ります」


 リオルトは冗談が分かっているのかいないのか、真面目なトーンでそう言って指を振った。どこからか音楽が流れてくる。今日の雨によく似合う、しっとりとしたスローテンポの曲だ。


「では、あとはシオンのリードについていってください」

「え? そんな適当な指導ひどいですよ!」

「ダンスっていうのはそういうものです」


 そう言いきって、リオルトは紅茶に口を付けた。これ以上の指導はしてくれないらしい。「こいつ!」と、腹の奥底が震えた。人にこんな恥ずかしい思いをさせておいて、自分はろくに指導もしないでお菓子を食べるなんて! 

 今までの我慢が緊張で押し出されてくるように、美月は「ハッ」と嘲るような笑い声を出した。


「分かりましたよ……リオルトさん、ダンスしたことないんですね!」


 ビシッと指を指すと、リオルトは顔をしかめた。


「な、なんですか……人に急に指を指して。ぶ、ぶしつけだと思いませんか。ダンスくらいは、あります」


 平穏を装っているが、声の端々に動揺が浮かんでいる。美月はにやりと口の端を上げた。


「経験があるのと、上手なのは別ですよね」

「な!?」

「リオルトさん知識はあるけど、実際にはできないんでしょう!」


 いつもは圧倒的に優位に立つリオルトが気まずそうに視線を逸らすのを見ているのが面白い。まるで犯人を追い詰める刑事のような気分だ。気分が高揚していく。が、


「この小娘が……黙って聞いてれば調子に乗って」


 リオルトの低い声と、こめかみに浮かんだ青筋を見てそれも一瞬で急降下だ。完全に調子に乗りすぎた。

 ゆらりと立ち上がった姿に、「ヒィ」と情けない悲鳴が出る。リオルトが手に持った分厚い本が完全に凶器に見えた。ぶるぶると震え、咄嗟にシオンの腕にすがりつく。

 すると、一連の流れを見ていたシオンが吹き出した。


「ミツキって案外ズバズバ言うんだね!」

「いや……」

「リオルト様も、まあまあ、落ち着いて。事実なんだし」

「シオン!」


 シオンはひとしきり笑うと、まるで小さな子供に言うように美月に言った。


「リオルト様はさ、本の虫なんだ。いろんなことを知りたい人なんだよ。歩く図書室とまで言われてるくらい。この歳まで妻も取らず、趣味も持たず、仕事一筋で生きてきた人だからね。国で一番知識と貯金のある魔導士だよ」

「褒めてるんですか、貶してるんですか」

「どっちもですよ」


 シオンがにっこりと効果音がつきそうな笑顔を作ると、リオルトは頭を抑え「本当にあなたは可愛くない」とため息交じりに言った。


「私は図書室に呼ばれているので、夕刻まで外します」


 リオルトは本を持ち上げ、そう言って部屋を出て行く。

 シオンが上手く話しを逸らしてくれたおかげで助かった。そう思い、美月はふうと息をついた。


「……聖女様、私のダンスの腕前についてはまた後日」


 部屋を出る前に、見せたリオルトの笑みには背筋が凍るような思いだった。

 ぱたんと閉まった扉を見ながら、美月はポツリと言った。


「つ、次に会ったらぶん殴られそう……」

「大丈夫大丈夫。僕もっと悪いこと言ったことあるけど、別になんともなかったよ」


 いまいち信用できないその言葉に口を結んで、美月はシオンに向き直った。シオンに怖いものなんてあるのだろうか。


 雨の音が、音楽の後ろで鳴っている。


 ふと、冷静になると、


「二人きりだね、ミツキ」


 シオンがわざとらしく言った。


「なんでわざわざそう言うこと言うんですか……」

「ミツキの反応が面白くて、つい」


 反論を待たず、力強く、それでも強引さは感じない力で、シオンに体を引かれた。「わぁ!」と慌てて足元に視線を落とすと、間髪入れずに「顔を下げちゃだめだよ」注意が降ってくる。


「そんなこと言われたって、っあ、ごめんなさい!」


 顔を上げた瞬間に、今度はシオンの足を思いっきり踏んでしまった。


「痛いなぁー、骨が折れたかもー」

「だから悪かったって……」

「責任とってもらわないと」

「責任?」

「そんなの僕に言わせるのぉー?」


 おどけた表情で笑うシオンに腹が立って、もう一度足を踏むとシオンが声を上げて笑った。

 シオンは意外と笑い上戸だ。いたずら好きで、笑い上戸で、挙句美青年。神様はいろいろなものを彼に与えすぎだ。「ふざけてないでください」と低めの声で言うと、ようやくシオンは黙った。


 雑念を押しのけて、シオンの足元の動きと体の動きに集中する。ダンスは嫌だけど、さすがにそんな大事な場で失敗するわけにはいかない。


「あんまり力まないで。リオルト様の言う通り、ダンスは基本的に男がリードするものだから」

「は、はい」

「あとは習うより慣れろ、かな?」

「そういうものでしょうか?」

「そうそう。難しく考えすぎない。あ、もっと体預けてくれてもいいよ」

「はい」


 自分では何が正しいのか分からないので、シオンの言うことをそのまま実行する。次第に恥ずかしさも消え、音楽をしっかり聞くこともできるようになった。

 踊りはなんとなく形になっているような気もするが、そもそもこういう男女がペアになって踊るダンスの正解もよく分からない。窓に映った自分を横目で見たが、上手い下手についてはなんとも言えない。「上手いね」と嘘なんだか本当なのか分からない誉め言葉を「ありがとうございます」と軽く流し、踊る。


 そして美月はふと、その痛みに気が付いてしまった。


 ――あー……雨か。


 視線をちらりと窓の向こうに向ける。降り続く雨は、朝よりもほんの少し強くなっているような気もした。


「どうかした?」

「あ、いや、なんでもない、です」

「そ?」


 美月はちらりと自分の足元を見た。痛いのは慣れないハイヒールに押し込まれた足ではない。スカートの下に隠れる、左膝に残った手術痕の方だ。

 昔から、天気が悪いときに痛みやすいのだ。

 一度意識してしまうと、もうその痛みを見ないふりができなくなる。じくじくとした痛みが、左膝を包むように広がっている。


「で、ここでターン」

「え?」

「ほら、ターン。くるっと回って」

「あ、はい」


 シオンの手に自分の手を添えたままくるりと回ると、痛みが強くなった。つい顔をしかめてしまう。


「ミツキ?」

「あ、いや、は、恥ずかしくて」


 苦しい言い訳だとは思いつつも、膝が痛いことは言いにくかった。シオンは腑に落ちない顔をしている。けれど、こういうときは笑顔だ。笑っていれば大抵のことは乗り越えられる。

 美月はいつものように笑顔を作った。


「……ふーん」


 シオンは口角を上げた。

 けれど目はちっとも笑っていない。


「ミツキさぁ、それってくせ?」

「え?」

「笑ってごまかせると思うの?」

「な、なに?」


 続きを待たずに、浮遊感。

 シオンの顔が一気に近づいて、ようやく抱きかかえられたと気が付いた。一瞬の驚きのあと、顔に熱が集まる。


「ちょ、は、離して! 重い! 重いんで!」

「いや、本当に重いね。肩が外れそう」

「言いすぎですよ!」

「はは、冗談。軽いよ」

 

 そんなの嘘だ。自分の体重は自分が一番よく分かっている。太ってはいないが、だからと言って抱きかかえても平気なほど痩せてはいない。美月は「おろして」と何度も言ったが、シオンは何も言わなかった。

 見上げた顔は笑みを浮かべているのに、怒っているようにも見える。


「で?」


 椅子に美月を下ろして、シオンはその前に跪いた。


「どこ痛めてるの?」

「……え?」

「足痛いんでしょ。靴擦れ?」


 躊躇なく靴に伸ばされたシオンの手から逃れるように体を捻って、美月は「どうして」と驚きを隠さず言った。


「どうしてって……それ、僕が聞きたいんだけど。なんで隠すの? 痛いなら痛いって言いなよ」


 シオンは怒っていた。いつもの柔らかな雰囲気は影をひそめ、鋭い目で見上げられると言葉に詰まる。シオンはため息を一つついてから、もう一度美月の靴に手を伸ばした。有無を言わさず靴を脱がすと、そっと足を持ち上げる。


「あれ? 靴擦れじゃないね?」

「う……うん」

「じゃあどこ? 足首捻った?」


 足を間近で観察される羞恥心でなんだか泣きたくなった。美月は「本当に大丈夫ですから」とシオンの肩を押した。


「あのさぁ」


 シオンはその手を押し返し、不機嫌さが滲んだ声を出した。


「言わないと分からないだろ」

「……ほ、本当に、なんでもないです、から……」

「……言いたくないってこと?」


 美月はしばらく考えてから、小さく頷いた。

 知られたくない。言いたくない。そこは、その思い出は、もう見ないように蓋をしたところだから。


「へぇ」


 シオンは美月の足をそっと降ろし、まっすぐに美月を見た。


「でも教えて」

「……どうして……」

「大切だから。ミツキがどうして痛いのか、どうして苦しいのか、知りたい」


 シオンは美月の手を握った。


「言いたくない理由ごと、教えてよ」


 言葉が出なかった。

 握られた手の力が強くなる。美月は震える唇を噛み、まっすぐにシオンを見た。シオンは目を逸らさない。


「……ひ、だり、膝が、痛いんです」


 しばらくの沈黙の後、雨の音に紛れて消えてしまいそうな、小さな声が紡がれた。

 聞こえなければそれでいいと、美月は思った。けれどシオンは、そうはしてくれなかった。


「膝? どこかで打った? それとも踊ってる最中に痛めたの?」


 美月は首を振った。


「昔……手術した痕があるんです」


 美月はそっと自分の膝に触れた。覆い隠すように触れれば、少しだけ痛みが和らぐような気がした。


「手術?」

「怪我したの」


 その言葉に不安げに目を揺らしたシオンに、美月は「もう直ってますよ」と情けなく笑いかけた。

 窓の外は相変わらずの雨模様だ。静かに降る雨が、窓を流れていく。シオンは何も言わなかった。まるでその続きを待っているように感じた。

 だからだろうか、美月はぽつりと言ってしまった。


「……昔、陸上の選手だったんです」


 言ってすぐに、どうしてそんなことを言ってしまったんだろうかと不思議に思って口を覆った。そもそもこの世界に陸上競技が存在するのかどうかも怪しい。陸上の選手だったと言われても、シオンはなんのことか分からないだろう。「なんでもないです」と付け加えようとしたが、視線を感じた。見れば、シオンが穏やかな笑みを浮かべこちらを見ている。


「うん」


 と、ゆっくりと頷かれて、美月は咄嗟に視線を逸らした。シオンは相変わらず何も言おうとしない。部屋に漂う沈黙に耐え切れなくなって、美月はそれを埋めるように少し早口で話した。


「あの、陸上の選手って言うのは、要するに決められた距離を誰が一番早く走れるかっていうのを競争する人のことなんですけど」

「うん」

「私も、昔、それをやってて」

「うん」

「で、でも、練習中にけがしちゃって、」


 こんなこと言わなくていいと分かっているのに、口だけが勝手に動いて言葉を繋げていく。


「わたし、昔みたいに、は、走れなくなっちゃて、」


 吐き出すように言うと、瞼が熱くなった。



 走ることが大好きだった。

 最初は多分、小学校に入る前のかけっこ教室で1番になったとき。一番前で風を受けて、一番最初にゴールテープを切る。みんなに褒められて、嬉しくて、次のかけっこでも1番になれるように練習した。

 小学校に入るとき、母のすすめで地元の陸上クラブに入った。地元の足の速い子がみんな集まったその教室で私はいつも2番だった。でも、いつも自分よりも前を行く子を抜かしたくて、一生懸命練習した。最後の地方大会でその子を抜かして、優勝したときは気持ちよかった。幸福感で世界がきらきらして見えた。


 全身で風を感じて一番にゴールテープを切る快感は、やみつきになった。

 

 もっと早く走りたかった。私は練習を重ねて、どんどん足が速くなった。応援してくれる人が増えて、私はうれしかった。苦しい練習も、乗り越えられた。応援してくれた人たちに背を押され、中学校では全国大会にも出た。

 その大会で準優勝すると、たくさんの人に声をかけられるようになった。


『次は、絶対に全国大会で優勝できるよ』

『もしかしたらこの街からオリンピック選手が出るかもしれないなぁ』

『高校は、陸上の強いところから声がかかってる。有名な選手をたくさん輩出している有名校だ』


 みんなまるで自分のことのように、私の活躍を喜んでくれた。期待を山ほど背負って、声がかかった高校の体育科に進んだ。そこで練習漬けの生活を送った。これ以上ないくらい練習して、出場した全国大会。結果は2位だった。中学の頃から、全国大会で優勝し続けている女の子が、また優勝した。

 私はどうしてもその子に勝てなかった。


『次は絶対勝てるよ』


 いつからか、その声を少し重たく感じるようになった。


『星崎が優勝するのを見るのが、とても楽しみだよ』


 伸びない記録に、つらい練習。息抜きのない生活。そして、いつも私の少し前を、笑顔で駆け抜けていくあの子。

 次の大会では、結局4位だった。前十字靭帯を切ったのは、その大会が終わってすぐの練習中だった。


『リハビリをすれば大丈夫だ。昔みたいに走れるようになるから』


 その言葉を信じてリハビリを続けた。家族の応援、コーチの激励、チームメイトからのお見舞い。全部「ありがとう」と受け取って、苦しいリハビリに耐えた。

けれど、結局部活に戻れたのは8か月後。もう昔のようには走れなくなっていた。もがくように練習をしても、なかなか昔のようなタイムが出せない。


『もう一回、やってみろよ、星崎』

『がんばれよ、みんな期待しているんだ』

『ここで諦めたら、今までやってきたことが無駄になるぞ』


 あれだけ嬉しかった応援も、喜んで背負っていた期待も全部つらい。抱え込んだみんなの言葉に、体中を刺されているようだった。

 そして部活に復帰して2か月目、もう一回、左の前十字靭帯を切った時には、もう部活に復帰するだけのエネルギーが残っていなかった。


 情けなくて、悔しくて、逃げるように部活を辞めて、体育科から普通科に移った。

 普通科に移って、はじめて普通の学生になった。朝早くから練習することも、放課後くたくたになるまで練習することも、誰かに期待されることも応援されることもなく、ただ、友人と笑って勉強するだけ。

 後悔なんてしていない。あれが、私の選手としての限界だった。何回怪我をしたって、不死身のように復活する選手はたくさんいる。私はそのくらいだったというだけだ。

 でも、



「……寂しい」


 言うと、喉の奥につっかえていた破片が取れたように、楽になった。そして熱がせり上がる。溢れてしまいそうで俯いた。どんな情けない顔をしているのか、想像もできない。


「選手を辞めて、応援してくれた人や期待してくれていた人たちがいなくなって、すごく楽になったのに寂しい。あれだけ大好きだった走ることを、もう素直に好きだと言えなくなって寂しい。もう風を感じられなくなって、寂しい」


 ずっと誰にも言わなかった言葉は、堰を切ったように溢れてきて、もう止められなかった。

 シオンは黙って私の話を聞いてくれていた。何を言っているのかほとんど分かっていないだろうに、彼は私の話を遮らなかった。

 溜め込んでいたものをようやく全部吐き出すと、熱のこもった息が出た。


「なんか、めちゃくちゃにしゃべっちゃって、ごめんね、シオ」


 言葉の終わりを待たず、シオンが立ち上がった。そのまま頭を抱えられ、そっと引き寄せられる。頭を胸元に押し付けられると、バニラのような甘い香りにほんの少しだけ汗の混じった匂いがする。


「ミツキ」


 丁寧に名前を呼ばれ、頭を撫でられる。


「……ミツキ」


 2回目に名前が呼ばれたとき、もう我慢できなくなった。目から大粒の涙が溢れてくる。シオンのシャツにシミがついてしまうのが申し訳なくて体を離そうとするが、より強く抱き寄せられる。「いいよ」と穏やかな許しの声が降りてきて、そろそろとその胸にすがりついた。


 美月は声をあげて泣いた。

 部活を辞めて、普通科に移って、初めて泣いた。遠くに置いてきた自分と、初めて向き合ったような気持ちだった。



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