06. 片鱗を見せて
あの後、今代の聖女は丸1日眠り続けた。
半壊した部屋から連れ出し、寝かせたベッドの上でうなされながら彼女は、ずっと誰かに謝っていた。
目覚めてしばらくは、呆然としていた。部屋が違うことに気が付くと、「夢じゃないんですね」と確認するように言って、ベッドから起き出した。
その時の顔は、もう昨日までとは違っていた。やっと自分の立場を受け入れたようで、ちゃんと自分の中にある魔力と向き合おうと勉強に打ち込んでいる。
あの時「シオンを教師として連れてくる」という選択をした自分は間違っていなかった。周囲の説得は少々面倒だったし部屋の被害もあったが、それだけの価値はあった。
リオルトはそう思いながら、隣を歩くシオンを見た。
自分よりもわずかに背が低い男の揺れる金色は、今日も軽やかだ。真意の読めないゆるい笑みを湛えるその男に、リオルトはぽつりとこぼした。
「……どういうつもりなんですか」
その声が思いがけず不機嫌で、自分でもいささか驚く。
シオンは脈絡のない問いに、驚きと戸惑いの混じった視線を返した。
「何の話ですか?」
「……あの小娘のことですよ」
彼女をそんな風に呼ぶことがいいとは当然思ってはいないが、リオルトにとって美月は“小娘”以外の何者でもなかった。
聖騎士選定の儀を滞りなく行い、聖女を側で支えるのが、魔導士長の大きな仕事の一つだ。そして、聖女の魂を持つものが異世界に生まれた場合の召喚も。
この国を守る、誉れある仕事だ。さらにはあまり例のない異世界からの聖女の召喚。リオルトはその喜びと使命に心を震わせていた。のに、召喚の儀には邪魔が入り、現れた聖女はまだ17と幼く、記憶喪失状態。「自分は聖女ではない」と情けなく笑って魔力も使えない。麗しき護国の聖女という余裕は、彼女からは感じられない。気心の知れた相手くらいには、愚痴っぽくなることは許されてもいいだろう。
あの小娘、というリオルトの言い方に苦い笑みを浮かべて、「ああ、ミツキのことですか」とシオンは返した。
「“帰れる”と言ったそうですね」
ぴくり、とシオンの眉が動く。それからゆっくりと向けられた不敵な笑みに、リオルトは眉をひそめた。
「……嘘は言ってませんよ」
「馬鹿ですね。そんな期待を持たせるような言い方をして。後で傷つくのは彼女ですよ」
「“帰ることができる”っていうのは、嘘じゃないですから。一応」
「……他の候補がどう思っているかは知りませんが、少なくとも“彼”は彼女を帰す気なんて毛頭ありませんよ」
今度はシオンが眉をひそめる番だった。なにか言いたげに開いた口で、結局言葉を飲み込んで、視線を逸らす。
リオルトはたたみかけるように言った。
「挙句、彼女をミツキと、名前で呼んで」
「……聖女様じゃ、呼びにくいじゃないですか」
リオルト様だって僕の前では彼女のことを“小娘”って呼んでるし、と付け加えられるが、リオルトは馬鹿にするように鼻を鳴らした。
「気持ちの問題ですよ。入れ込みすぎだって話です」
「僕は別に……」
「……いいんですよ。入れ込んだって。あなたがその座を勝ち取ればいい」
シオンの目がゆっくりと見開かれた。信じられないものを見るような目で見上げたその目には、リオルトの不敵な笑みが映っている。
「……まさか」
シオンは小さく笑って足元に視線を落とした。
「僕はそんな野心家じゃないですから」
よく言う。
リオルトは口に出さなかったが、心の中で呆れたように返した。
辿り着いた部屋の重厚な扉をノックすると、「はい」と少し緊張の色がある声が返ってくる。新しい部屋は聖女様が住むには部屋数も少なく、いささか質素に感じるが、彼女はこっちのほうがいいです、と笑っていた。
いつものようにシンプルなデザインの洋服を着て部屋にたたずむ彼女の顔を見る、シオンの表情はとても柔らかい。そんな彼を見て、リオルトは小さくため息をついた。
06.
「ごめんなさい!」
シオンの顔を見て、血の気が引いた。一も二もなく慌てて頭を下げると、「なに?」と焦った声が返ってくる。
シオンに会ったのは、あの部屋を半壊させた事故以来初めてだった。
「顔上げてよ」
「あんな怪我までさせて、本当にごめんなさい」
「えぇ……別に気にしないでよ。ちょっと切っただけだよ」
肩を持たれて頭を上げてと言われても、上げられない。
「私がきっとなんか変なことをしたんだよね。ごめんなさい、あんな風にするつもりじゃ……」
「変なことではありませんよ」
リオルトの冷静な声に、美月は顔を上げた。彼はすでに窓際に新しく用意された4人掛けのテーブルセットの前に立ち、ぱらぱらと分厚い本を捲っている。
「あれは、聖女の力の一つです」
「……でも、私の魔力は浄化だって……」
「もちろん。それがあなたの本来の力ですよ。はい、聖女様、魔力を使うということはどういうことでしたか?」
「えっ? えっと、えー……魔力を使うと言うことは、世界中に存在しているマナと自分の魔力を融合させ、様々な現象を起こすこと、です」
「そうです、ちゃんと覚えていましたね。その通り、私たちはマナと自分の魔力を融合させ、いわばマナを異常な状態にしているんです」
リオルトは開いたページを指さした。
席につきながら覗き込むと、そこには一人の女性の肖像画が描かれていた。
「聖女様の力と言うのは、その異常状態になったマナを浄化し、あるべき形やあるべき場所に戻すことができる力です」
美月は小さく頷いた。
「ですが、歴史の中に、それに加えてもう一つの力を持った聖女様もいました。それが増強の力です」
「ぞうきょうのちから?」
「マナをより集め、マナの形をより魔力と融合しやすい形に変化させ、その力を増強させることができる力です」
美月の正面に腰かけたシオンが「そんなものがあるの?」と不思議そうに本を覗き込んだ。
「マナをあるべき場所、あるべき形に戻すことができるということは、その逆もできるということですよ。現に、10代前の聖女様もその力を持っていました。この時期に起こった大きな戦争で我が国が勝利したのは、彼女が増強の力を使って、こちら側の攻撃をより強いものに変えたからです」
勇ましく立つ、力強い美しさを持った女性の肖像画の下には、“彼女は増強の力に優れ、「戦の女神」と国民から崇められた”と書かれている。
「へぇ、それはまた随分便利な」
「まあ、便利ですが、これは全ての方が持つ力ではありませんし、扱いも難しく安定しないとも記されています。使いこなせれば便利でしょうが、我々が聖女様に望むのはあくまでも浄化の力です。今回あなたが倒れ眠り続けたのも、その力の影響でしょうし」
視線を向けられ、美月は頷いた。
確かにあの時、力を使っている意識もなかったし、どうやってあの力を使ったのかも分からなかった。あれがコントロールできるようになるとは思えない。
「ですから今日は、もう一度最初にやった練習をしましょうか」
「氷を消す?」
「そうです」
あの日と同様に、リオルトは銀のトレーの上に、こぶし大ほどの大きさの氷を出した。「どうぞ」と身を引かれ、美月は少し戸惑いがちに手を伸ばす。
あの部屋を半壊させた事件以来、美月はほんの少し、ほんの少しだけ、今まで感じたことがない感覚を感じていた。常に誰かが側にいるような、何かの気配を感じるのだ。
心霊現象か何かではないかと心配になってリオルトに相談すると、
「ああ、それはマナの存在を感じているんですね」
と、なんでもないような顔で言われた。
「別におかしなことじゃありません。すぐに慣れますよ。例えば誰かの言葉を思い出した時、その人の存在を感じることがあるでしょう。そんなものです」
なるほど、わからん。
美月はここ数日でリオルトの説明下手には慣れていたので、とりあえず「はあ」と返事を返しておいた。リオルトはすべてお見通しのようで、いささか不満げではあったが。
――でも、そうか。これがマナなのか。
美月は雨を確認するときのように、宙に手を伸ばし、掌を天に向けた。何も見えないが、何かがそこを通り過ぎていくような感覚がある。
けれどまだ、ぼんやりとそれを感じられるようになっただけだ。自分の中にあるという浄化の力もよく分かってはいない。
手をかざしたはいいけれど、そこからどうしていいのか分からずに、美月は初日同様に固まった。
「……と、溶けません」
しばらく氷を見つめていた美月は、その姿勢のまま申し訳なさそうに言った。
「あなたはもうマナの存在を感じられています。集中してください。できるはずです。というかできるようになってもらわなければ困ります」
「そんなこと言われましても……なんか、コツとか……」
「グワーッと集中するんです」
下手くそすぎる説明に美月はがっくりと項垂れた。
この国の魔導士長じゃないのか、と心の中で悪態をつきながら、掌に神経を集中させた。ざわざわとした気配は感じる。けれどそれをどうやったら溶かすことができるのか、思い浮かばない。
「リオルト様は昔からそういう感じだよね。僕も教えてもらったときは苦労した」
傍観していたシオンが、ため息交じりに言った。
「いい、ミツキ。個人の持つ魔力と要素には相性があるっていったじゃん」
「え? う、うん」
「リオルト様の魔力はリオルト様から生まれたもので、その氷の中にもリオルト様の魔力が入ってる」
シオンは氷を指さした。
「魔力はいわば僕たちの一部だ。リオルト様のことを想像したら、もう少しその氷の感覚が分かるんじゃない?」
リオルトさんのこと!?
美月はリオルトを見上げた。目が合うと、「どんな顔しているんですか」と苦々しげに言う。どうやら心の中が表情に現れていたらしい。彼のことなど、考えたこともなかった。
美月にとってリオルトは“地獄の家庭教師”。厳しく、話すことはいつも難しい。彼はいつも小難しそうな表情で、自分のことを“覚えの悪い生徒”だと思っているのがなんとなく伝わってくる。時折見せる笑みは、裏を感じさせる悪どいものばかり。
でも、悪い人ではないと分かる。
どれだけ自分の覚えが悪くても見捨てはしないし、口は悪いがそれは私を嫌っているからではない。だから、悪い人ではないのだろう。と、思う。ただ彼は自分の立場に誇りを持っていて、真面目なんだ。
その時だった。
掌に何かが、いや、誰かが触れた感覚があった。
美月は肩を跳ねさせ、恐る恐る掌の下を覗き込んだ。氷の輪郭がうっすらと白い光を帯びている。
「わっ!」
「手を引かないで!」
反射的に引こうとした手を、がっちりと掴まれる。シオンが驚きの混じった表情で、けれど目を輝かせながら、その弱々しい光を見ていた。
「……集中して、続けなさい。ミツキ」
いつもよりもいくらか穏やかなリオルトの声に背中を支えられ、美月は一度深く息を吸って吐いた。自分の手に意識を集中させる。
目を閉じれば、確かなものを感じる。
氷の中にあるリオルトさんの魔力。そして、掴まれた腕からほのかに伝わるのはシオンの魔力だ。シオンのそれに比べると、リオルトさんの魔力はずいぶんと尖った感じがする。けれど透き通っていて、きれい。まるで理科の教科書で見た鉱石みたいだ。
そしてそれを取り巻くのは……、
――ふと、耳元で誰かが笑ったような声が聞こえた。
「あ」
ぱき、と何かが割れる音がした。
かざしていた手を離すと、氷は粉々に割れ、宙を漂っていた。それは砂のように四方へ広がると、弱い光を伴って空気に溶けて消えた。
部屋には沈黙が漂い、窓の向こうから木々のざわめきが聞こえる。
初めての感覚だった。はじめて、“魔力”の存在をしっかりと感じた。部屋の半壊事件のときは、自分のせいだという感覚はあっても、自分の力がどう魔力に作用しているのかの感覚はまったくなかったのだ。
力なく離れたシオンの腕をたどって顔を見上げると、彼はぽかんと口を開けていた。その表情の意味を測りかねて、不安になる。もしかして、失敗だっただろうか……。
「ミツキ……」
よろよろと近づいたシオンは、美月の両肩をがっしりと掴んだ。
「あの、」
「すごい! 全部消えた!」
「え?」
「やっぱりミツキは聖女だよ!」
目を輝かせるシオンに体を揺すられ、美月の首がぐらぐらと揺れた。
あまりの勢いに気持ち悪くなりながら、美月は横目でリオルトを見た。彼は口元を抑え、難しい表情をしていたが、美月の視線に気が付くと、ふっと目元を緩ませた。
「シオン、それ以上やるとミツキが吐きますよ」
「あ、ごめん」
「い、いえ……」
沸き上がる吐き気を抑えながら、美月はテーブルに手をついた。
「感動しました」
「――え?」
「聖女の魔力を初めて間近で見ました。……この国の誰とも違う、美しい力ですね」
リオルトは噛み締めるように言った。
「はやく、あなたの本当の力が見たいです」
「リオルトさん……」
「そのために、明日からはもっとビシバシ行きましょう」
「……え?」
テーブルについた手を、縫い留めるように上からがっしり掴まれる。リオルトは満面の笑みを浮かべているはずなのに、なぜか背筋が冷える。
つられて引きつった笑みを作った美月の頬を、汗が流れた。
「そろそろ、聖女様として、表に出なければなりませんしね」