05. 二人の教師
眠る前「どうか明日の朝目が覚めたら日本に帰っていますように」と神様に祈る。そして目が覚めるのはあの天蓋付きのベッドの中。家のベッドが固いとか文句をいっていたけれど、いまはあの硬さが恋しい。
05.
いつも、携帯のアラームで目が覚める。しばらく布団の中で起きたくないなぁと携帯を触っていると、遅刻するわよと母親に呼ばれ、台所へ行く。白いご飯に味噌汁と納豆が定番のメニューだ。
が、ここでは白いご飯も味噌汁も納豆もない。
ノックの返事を待たずに入ってきたメイドに、ごろごろする間もなく身支度をされ、朝食を済ませて窓際の席につく。
ふと窓からきれいに手入れされた庭が見えた。丁寧に刈り込まれた植木に、色とりどりの花が風にのって軽やかに踊っている。
そこでようやく「そういえば外にでていないな」と気が付いた。それどころか、リオルトとメイド以外の人ともろくに喋っていない。わけのわからない異世界にやって来たというのに、毎日はとても狭い世界の中で完結していく。現実感がなくて心は宙ぶらりんなのに、体ばかりが重たくなるような感覚がした。
「……やだな」
机に突っ伏して、美月はあくびをひとつ噛み殺した。
「失礼します」
扉が開いて、美月は慌てて姿勢を正した。
部屋に入ってきたリオルトは、今日はずいぶん上機嫌に見える。口元にゆるい笑みを携え、その美しさに磨きがかかっている。
今日はずっとこれだけ機嫌がいいとやりやすいのに……。
美月はそう思いながら、「おはようございます」と席を立った。
「おはようございます、聖女様。今日は、新しい教師を連れてきましたよ」
「げぇ!」
「げえ?」
笑顔のリオルトに問われ、美月は慌てて「なんでもありません」と首を振った。
けれど内心は「なんでもありません」なんてことはない。新しい人に会えるのは多少嬉しいが、もう一人リオルトのような教師がやってきたら息苦しさで窒息死してしまう。
「入りなさい」
ああ、どうか、どうか優しそうな人が入ってきますように。
美月は両手を握りしめ、固く目を瞑り、神に祈った。
「失礼します」
聞き覚えのあるテノールに、美月はゆっくり目を開けた。
「やあ、久しぶり」
「シオンさん!」
「名前覚えててくれたんだ。嬉しいなぁ」
柔らかな金髪に、紫色の瞳のたれ目。甘い顔立ちの美青年の顔を見て、美月は歓喜の声を上げた。神に祈りは通じたらしい。
淡いグレーの詰襟のジャケットに身を包んだシオンは穏やかな笑みを湛えたまま、ゆっくりと美月の前までやってくると「ミツキ」と名前を呼んだ。その響きに自分でも驚くほど安心する。
「元気だった?」
「はい、元気でした」
「そ? よかった」
満面の笑みを浮かべる美月の背後には、勢いよく振られる尻尾が見えるようだった。
それほどの明るい表情と声色に、リオルトは目を丸くした。
「あなたはずいぶんシオンになついているんですね」
「懐いているとかそういうんじゃないんですけど……」
「へえ、ミツキは僕のこと好きじゃないんだ?」
「いえ、好きですけど」
と言った直後、にんまりと笑うシオンの顔を見て、またしても自分の失言に気が付いた。両手で口を覆った頃にはもう遅い。「そうか、そうか」と鼻歌交じりで肩を持たれて、美月は少し不満げな視線をシオンに投げた。
「……そういう好きじゃないですから」
「じゃあどういう好き?」
「……リオルトさんよりは、ましってことです」
「ほお……」
背後から聞こえた地獄の底からの声に、美月は大きく肩を跳ねさせた。錆びたロボットのように振り返った先には笑顔のリオルトが、指示棒をぱしぱしと掌に当てながら立っている。眉間に浮かんだ青筋に背筋が凍った。
失言を引き起こした相手を咎めるように睨みつけたが、シオンは悪戯に成功した子供のような笑みを浮かべるだけだった。
「では、ましじゃない方の教師からは特に指導は必要ないですね」
「わあ! ごめんなさい。必要です!」
慌てて袖をつかむと、冷たい視線が降ってくる。
絶対零度の視線が、胸にぐさりと刺さった。
「リオルトさんがいないと路頭に迷います! 言葉の……あの……言い間違いみたいなものです! せ、先生!」
美月は必死だった。脳をフル稼働させ、想像しうる限りの誉め言葉と自らの愚かさを並べた。だってここでリオルトに見捨てられたらまずいことになってしまう。リオルトは厳しいし、正直鬱陶しいが、右も左も分からない世界を漂う美月にとっては灯台だ。
「お願いします、先生!」と頭を下げ続けていると、リオルトのとげとげしい雰囲気が少し和らいだ。恐る恐る見上げると、視線を逸らした彼は口元を手の甲で押さえながら、肩を震わせていた。
「そんな必死にならなくても……あなたに魔力の使い方を教えるのは私の仕事ですから……」
「え?」
「聖女様たるものが、そんなに自分を卑下するものではありませんよ」
そこまで言って、ついにこらえられなくなったのか、リオルトは噴き出した。押し殺した笑いが手の隙間から漏れ出し、つられるようにしてシオンの遠慮のない笑い声が弾ける。
からかわれていた、と気が付いて美月は真っ赤になった。
「ミツキはかわいいねぇ」
小さな子供にするように、少し乱暴に頭を撫でる手を振り払うと、シオンが柔らかく目を細めた。
「さあ、がんばろ、ミツキ」
「そうですね。がんばってください。愚かな聖女様」
妙に息の合った二人を見比べ、美月は小さく首をひねった。
昨日同様に窓際の席に腰かけると、リオルトの隣にシオンが椅子を用意し腰かけた。メイドが入ってきて、ティーセットを並べていく。甘酸っぱい香りがした。口を付けると、レモンティーに似た味がする。
お茶請けのクッキーは日本のそれよりもぐっと甘く、夏休み明けに友人からもらった海外製の派手な味のものを思い出させた。でも嫌いじゃない。
美月は昨日よりも幾分かリラックスして、正面に立つリオルトを見た。
「まず、昨日のことを謝ります。言い方が悪かったですね。魔力のない人間に会うのは初めてでして、上手くいかないことに少しいら立っていました。私はなにもあなたに意地悪したいわけではないんです」
突然の謝罪に、美月の口からクッキーがぽろりと落ちた。「元々意地悪な性格なんだよ」とシオンが横から茶々を入れると、リオルトの目が鋭く光る。が、シオンはそんなものはどこ吹く風だ。
「あ……いえ、別に、気にしてないです、けど」
美月は慌ててテーブルに落ちたクッキーのかけらを寄せ集める。リオルトの謝罪は、謝罪というにはすこし態度が大きすぎるようにも感じるが、このプライドの高そうな人間から謝罪をされるなんて考えてもみなかった。
リオルトは「でしたらいいんです」とそっけなく返事を返して、大きく咳ばらいをした。その耳が微かに赤いことに気が付いて、美月はわずかに口元緩ませた。彼も人並みに照れたりする、かわいい部分もあるらしい。
「なにか?」
目ざとい。
美月は「あ、いえ」と緩んだ頬の筋肉を引き締めた。
「あなたはここに来た時、儀式を邪魔され、言語さえ分からない状態でした。これは昨日話しましたね」
「ええ」
「そのとき、あなたがこの国の言語を理解できるように魔力で助けたのが、シオンです」
シオンが、したり顔で小さく手を上げた。
「言語を理解させるというのは、自分の言語に関する知識を魔力と周囲のマナと共に相手に押し込むことで成り立ちます。かなり高度な魔力の使い方で、ほんのわずかでも相手に送り込む魔力とマナの量を間違えると命にかかわるような危険なものなので、それができる人間はあまり多くありません」
「そう、僕、けっこうすごいんだよ」
「……へらへらしないでください。一部の魔導士にしか許可されていない禁術ですよ。咎められなかったからよかったものの……」
禁術。その言葉に、美月はシオンを見た。「うるさいなぁ」と頬を膨らませていたシオンは、視線に気が付くと軽いウインクを寄越してみせた。いろいろ聞きたいことはあったが、そんなものを見せられたら、一気に肩の力が抜けてしまう。
「まあ、それは置いておいて、つまり今あなたの中にはシオンの魔力が入っているということです」
「はあ……」
いまいち納得しない美月の顔を見て、リオルトの眉間に皺が寄った。
「ですから、あなたの中のシオンの魔力を引き金にすれば、あなたの中に眠る本来の魔力を引き出せるのではないかと」
「な、なるほど?」
分かったような分からないような話だが、美月はとりあえず頷いた。
「今日シオンを連れて来たのは、そのためです。ではシオン、早速始めてください」
「いいの? ミツキ、まだ、よく分かってない顔してるけど」
「いいんですよ。どれだけ説明しても多分、分かりませんから」
「うっ……」
辛辣な言葉にダメージを受けるが、紛れもない事実だ。そもそもの前提が違うのだから、分かるはずがない。そうだ、大丈夫。と、一生懸命自分で自分を慰めながら、美月は自分の前にやってきたシオンを見上げた。
シオンの顔を見ると不思議と安心した。それはもしかしたら、自分の中にシオンの魔力があるからなんだろうか。
そんなことを考えていると、シオンに立ち上がるよう促される。
「緊張しなくていいから」
そう穏やかな声で言って、シオンは美月の両手をとった。するりと指が絡められ、思わず腰が引ける。声も出せないような緊張で、口から吐いた息が震えていた。
両手を恋人のように握り合い、シオンの足が一歩近づく。
心臓が爆発しそうだった。シオンの長いまつ毛に縁取られた、宝石のように艶やかな瞳が、自分を静かに見下ろしている。
「魔力には相性があるって言ったの覚えてる?」
「あ、はい」
「僕は風のマナ達と相性がいい」
「はい」
「きみの魔力は浄化だ。僕が今から弱い風を起こすから、まずはそれを感じてみて。それから、難しいとは思うけれど、それを打ち消すようなイメージを頭の中に描くんだ。そしてそのイメージを僕に伝えるように、手に意識を集中して。風の中のマナ達をあるべき形に戻すんだよ」
物語を読むようにそう言った後、静かにシオンの瞼が閉じられたのに習って、美月も目を閉じた。すぐに頬にゆるい風の流れを感じる。
――風を打ち消す、かぁ。
シオンの言う通り、難しいと思った。
頬を慰めるように撫でるゆるい風を感じていると、意識の深くまで潜っていくような感覚があった。周囲の音が次第に遠ざかり、聞こえなくなっていく。
――違う、なにか、聞こえる。
一度消えたはずの音がもう一度聞こえ始める。けれどそれはさっきまで聞こえていたシオンの声や風の音ではない。これは声援だ。
私はこれをよく知っている。陸上のトラック。血液が沸騰しそうな感覚。足が進めば進むほど、世界は風の音と心臓の音だけになる。ただ一点を目指して、周りの景色が流れていく。私は、昔、その瞬間が世界のなによりも好きだった。
でも、今、私はスタートラインに立ったまま動けない。
もう風を感じることはない。日々の喧騒に埋もれて、風の音はもう聞こえなくなったのだ。
「――ミツキ!」
シオンの切羽詰まった叫び声で、急に意識の深いところから引きずり出される。同時に握っていた手が離れる感覚。目を開けると、強い風で打ち付けられた前髪が何度も視界を遮った。
「わっ!? な、なに?」
「ミツキ、動くなよ」
暴れる髪を押さえつけて、美月はようやく周囲を見渡し、そして言葉を失った。
室内だと言うのに、猛烈な風が吹いている。家具がガタガタと揺れて倒れ、花瓶が割れる。舞い上がった書類や本が渦を巻くように部屋の中を飛び回っている。リオルトは部屋の隅で、柱に捕まるようにしてかろうじて立っており、そのすぐ隣に立つシオンも立っているだけで精一杯という様子だ。
「だ、大丈夫?」
と大声を出すが、強い風の音にかき消されてしまう。助けを呼ばなければと思い立ったところで、美月はハッと気が付いた。
この強い風の中心が自分だと。
「……なんで……こ……これ……私が?」
自分の体に変化はないし、魔力を使っているような感覚もない。震える掌を見ながら、「なんで……」とこぼす。
「反作用ですね。先にそっちが出てしまったようです」
「みたいですね。ミツキ、気持ちを落ち着かせて!」
「落ち着かせるって……私は……」
体の中を冷たい何かが流れているような感覚がする。
『もう一回、やってみろよ、星崎』
『もう、いんです。もうこれ以上頑張れません』
そう言ったとき、長く付き合ってきたコーチや両親がどんな顔をしていたのか知らない。どんな顔をしているのか、怖くて顔をあげられなかった。
『あちゃあ、赤点ギリギリだ』
『仕方ないよ。体育科から普通科に来たの、最近なんだし』
勉強なんてずっとしてこなかったの。どれだけ真剣に聞いても、よく分からないんだ。
ヘラヘラ笑っている私は、みんなの目にどう映っているんだろう。
なぜか思い出したくないことばかり思い出してしまう。止まらない。
風はよりいっそう強くなり、ついに部屋の窓が一斉に吹き飛んだ。
「っくそ!」
シオンの表情が険しくなる。
「ミツキ、絶対そこ動くな!」
「な、なにするの?」
シオンは勢いよく自分に向かってきた分厚い本を腕で受け止めて、じりじりと足を進めた。
「あ、危ないよ、シオン!」
「いいから!」
強くなった風は椅子をも空中で振り回し、壁に当たったそれが大きな音を立てて割れた。飛び散った破片はそのまま風に乗り、シオンの頬を擦った。赤い血が白い肌に飛ぶ。
声にならない悲鳴が出て、美月はよろめいた。
なんてことをしてしまったんだろうか。
罪悪感が噴き出して、手が震え始める。全身が氷のように冷たくなっていく感覚が、はっきりと分かった。
「ミツキ」
シオンは名前を呼んだ。
「大丈夫だ、ミツキ」
「……シオン」
「大丈夫だから」
ミツキの目に微かに光が戻った。わずかに風が弱まる。
シオンはその隙を逃さず、一気に美月に駆け寄って、倒れかかったその体を抱いた。力を込めた腕の中で、美月は震えていた。どこか焦点の合わない目で視線をさまよわせ、押さえた口元からは荒い呼吸が漏れ出ている。
「ミツキ」
「ご、ごめんなさい。わ、私……」
「大丈夫、大丈夫だから。大丈夫だから、泣かなくていいよ」
そう背中をさするシオンの言葉で、美月はやっと自分が泣いていることに気が付いた。
「……ごめんなさい」
絞り出した言葉はしっかりと届いただろうか。
貧血になった時のように、急に頭が重たくなって、美月はそのまま意識を手放した。