03. おやすみなさい、いい夢を
『もう一回、やってみろよ、星崎』
『がんばれよ、みんな期待しているんだ』
『ここで諦めたら、今までやってきたことが無駄になっちゃうのよ』
『まだ頑張れるよ、美月』
うるさい、うるさい、うるさい。みんなうるさい。大嫌い。これ以上、何も言わないで。
もうこれ以上は走れないの。
03.
天鵞絨のカーテンの上で、暖かな色の灯りが波打っていた。
どうして自分が寝ているのか分からない。背中を預けるベッドは沈むように柔らかい。体が重く、頭が痛い。
美月の目は薄く開いたまま、ただぼんやりとカーテンの影を追っていた。
――ここはどこだっけ。
脳が目覚めるスピードで、次第に記憶がよみがえる。冷たい瞳に、冷たい手。足元を覆い隠した氷。
美月は勢いよく起き上がった。
慌てて両手を見れば、いつもと変わらない手。恐る恐る布団をめくれば、いつの間にか着せられていたナイトドレスからいつもと変わらない自分の足が出ている。触れたふくらはぎは温かい。しっかりと血の通った温度だ。ホッとすると同時に、久しぶりに直視したその傷跡が気になった。
左膝に残った手術痕。
他の皮膚のよりも盛り上がったそこを撫でると、ぎゅうっと胸のあたりが痛くなる。
「……どうして……」
ぽつりと、無意識のうちに言葉が落ちていた。
美月は自分の心の底から這いだそうとする気持ちを押し込めるように、膝を抱えた。前髪の隙間から室内をうかがえば、薄暗い室内は、間違いなく先ほどまでリオルトと話していた部屋の中の一室だ。先ほどのあれは、悪い夢ではないらしい。天蓋付きのベッドは夢だったが、こんな状況で初体験なんてあんまりだ。
ここから出るべきか否か考えていると、部屋に控えめなノックが響いた。返事を待たずに、ベッドの左側の扉が開かれ、美月は慌てて足元をシーツで覆った。
「あれ? 起きてたんだ」
「あ……」
見覚えのある金髪が、ゆっくりと室内に入ってきた。
「えっと……シオン、さん」
「へぇ、名前覚えててくれたんだ。気分はどう?」
扉を開けたのは、シオンと呼ばれていた美青年だった。
シオンは持っていた水差しとグラス、それからフルーツの乗ったトレーをベットサイドのテーブルに置くと、近くにあった椅子を引いて、ベッドの横に腰かける。
まるで友達に話すような気安いトーンに、美月の緊張は少しだけ解かれた。
「気分は……あまりよくはないです」
「はは。だろうね。リオルト様に氷漬けにされたって?」
「え……ええ」
「あの人性格悪いから」
シオンは小さく笑いながらグラスに水を注ぐと、それを美月に手渡した。
「喉乾いたでしょ。飲みな」
「あ、ありがとう、ございます」
両手で受け取ったグラスの中を見ながら、美月は悩んだ。
喉はとても乾いている。ただ、このシオンという人は悪い人ではなさそうだけれど、こんな状況で渡された飲み物を平気で飲めるほど信用はできない。
飲んで、氷漬けになったりしたらいやだ。
「……心配?」
「あ……」
こちらを窺っていたシオンが「そりゃそうだよね」と小さく言って、もう一つのグラスに水を注いだ。そしてそれを一気に飲み干す。
飲み干したシオンは、美月に空のグラスを見せた。
「毒も入ってないし、氷漬けにもならないよ」
自分の心を読んだようなそのセリフに、美月は意を決してグラスを口に運んだ。
最初は一口だけ。いつもコンビニで買う水よりも少しだけ甘酸っぱい風味が口に広がる。水は喉を通り、胃に沁みた。一口入ってしまうともう我慢できず、残りも一気に飲み干す。
「おいしいでしょ。リンゼの果汁を少し絞ってあるんだ」
「……おいしいです」
「果物もあるけど。食べられそう? こっちに来てからろくに食べてないでしょ」
白い皿に載せられた色とりどりのフルーツは美味しそうに見える。けれど食べるのは……。
そう躊躇しかかったが、体は正直だった。ずいぶん長い間水分以外を入れてなかった胃が、食べ物を求めて盛大に音を立てる。あまりの音に、一気に顔に熱が集まった。授業中にお腹が鳴った時の恥ずかしさの比ではない。
ちらりと見れば、差し出された皿を持つ手が笑いをこらえるように震えていて、美月はつい謝った。
「ご、ごめんなさい」
「なんで謝るのさ。生理現象でしょ」
シオンはからからと笑いながら、皿を美月に渡した。「食べさせようか?」という冗談交じりの提案は丁重に断っておく。
皿には見たことのないフルーツが丁寧に並べられている。とりあえずリンゴに似た形のものを口に運んだ。リンゴよりも少しもったりとした触感だが、甘くておいしい。
「食べたらもう少し寝なよ。まだ夜中だから」
「あの……」
「ん?」
シオンが小首をかしげると、柔らかそうな髪が揺れた。
「その、シオンさんって、どっきりのスタッフとかじゃ……」
「どっきり? なにそれ?」
眉間に微かに皺を寄せたシオンの表情はとても嘘をついているようには見えない。「いえ、なんでもないです」と小さく言って、美月はフォークを置いた。手の震えが止まらない。
不思議な見た目の人々に、ファンタジーな設定の話、聞いたことのない地名。想像したくもないが、どうやらここはリオルトが言うように地球とは違う世界らしい。
気が遠くなりそうだ。
「大丈夫? 気分が悪い?」
「だ、大丈夫です」
「本当に?」
震える手を覆うようにシオンの手が置かれた。手を握られると、不思議と心が少し落ち着いた。指先に血が再び通ったように、触れられたあたりが暖かくなる。
「大丈夫です……あの、シオンさん、どうしてここに……」
「さん付けも、敬語もいらないよ。立場的には君の方が上なんだし」
シオンはそう言って、形のいい唇を緩めた。「まあ、そんな立場の人にこんな風にしゃべってる僕が悪いのか」小さくそう言いながらも、その話し方を辞める気はないようで、シオンはそのままで続けた。
「一応今晩の君の護衛だからね。仕事中だよ」
「護衛……」
「聖女様の護衛だよ。僕、一応ローゼリア王国近衛騎士団第3隊の副隊長」
シオンは悪戯っぽく言った。
また登場した“聖女様”というフレーズに、美月はシオンの顔を見た。
「……私、まだ、よく分かってないんです。その……“聖女様”ってなんですか」
「あー……なるほど、だいたい分かった。リオルト様って、ちょっと説明下手なんだよね。あの人頭が良すぎるんだよ。こっちが全部知っている前提で話してくるっていうか……」
シオンは頭を掻きながら、美月を見た。
美月のアーモンド形の目は、不安で揺れている。そうだよな、何も分からないまま違う世界に連れてこられて、不安に決まってるよな。
シオンは「食べながら、気楽に聞いて」と前置きをしてから、息を吸う。異世界から来た人に、自分の国をどう説明するべきか。
「とりあえず、ここは君のいた世界とは違う。それはリオルト様から聞いた?」
「えっと、ローゼリア王国という名前の国だと聞きました」
「そう、ローゼリア王国」
シオンは小さく頷いた。
「ローゼリア王国には、代々、聖女と聖騎士という役割を持つ人間がいる」
「聖女と聖騎士……」
「そう。聖女はと呼ばれる浄化の魔力を持つ乙女のことで、彼女は10人の聖騎士候補から選ばれた一人に、その力を分け与える役目があるんだ」
「それが私?」
「そう」
一切の迷いなく頷いたシオンに、美月は小さく首を横に振った。
「その、私には、魔力とか、ないと思うんです」
「ああ、そうか。きみのいた世界には魔力が存在しないんだったね」
シオンは「ごめん」と言ってから続けた。
「この世界では誰もが多かれ少なかれ魔力を持っている。さっきリオルト様が見せた氷も、あの人の魔力の形の一つだよ」
先ほどリオルトに見せられた氷を思い出した。確かにあれは手品というにはあまりにも突然でリアルだった。魔力とか、そういう理解できない世界のものだと言われた方が幾分か納得できる。
「世界中のどこにでもある火や水みたいな世界を構成する要素――僕たちはそれをマナと呼んでいるんだけど……マナの力を借りるために使う力のことを魔力っていうんだ。自分の魔力とマナを上手く混ぜ合わせて、人はいろいろなことができるんだよ」
「じゃあみんなリオルトさんみたいに氷が作れるの?」
「いや、そういうわけではないんだ。人はそれぞれ自分と相性のいいマナがあって、あの人は氷とか水とか、そういうものと相性がいいんだよね。ちなみに僕は風と相性がいい」
そう言って、シオンは掌を上に向けた。美月の視線がそこに向けられたのを確認してから、そこに風を呼ぶ。しゅるしゅると音が鳴って、小さな竜巻のようなものが出来上がった。
「すごい……」目をまん丸にした美月の口から言葉が漏れると、その小さな竜巻はふっと煙のように消えた。
「こういうことだよ」
「私にもこうやって氷を作ったり、竜巻を出す力があるの」
「いや、きみの魔力は少し違うかな。僕たちはこうやってマナの力を借りるだけだけど、きみの魔力はそれらと対話する力とでも言うのかな……」
シオンは口元を抑えて少し考えた後、言葉を選ぶように話し始めた。
「浄化の魔力は、形を変えたり不安定になったマナをあるべき場所、あるべき形に戻すことができる力だよ。分かりやすいのは、誰かが使った力を打ち消したりとかかな。魔力を使うっていうのは、つまりマナの形を変えるっていうことだからね。だからその気になったら、あの時きみはリオルト様の氷を消すことだってできた」
「ど、どうやって?」
「それは僕には分からないけど……」
シオンは困ったように笑った。
美月は長い息を吐いた。そうでもしないと、頭が爆発してしまいそうだった。なんというか、
「現実感がない?」
考えていたことそのままのシオンの問いに驚きつつ、美月は頷いた。
「ないですね。それに、その力がどうして必要とされているのかも、よく分かりません」
「そうだなぁ……一つは単純に、大きな自然災害を避けることができるってところかな。マナが不安定になったり異常が起こると、大きな災害が起こるから。もう一つは浄化の力を持つ最強の騎士が必要だからかな。浄化の力を持つ騎士は、魔力の攻撃に対してはほとんど無敵みたいなものだからね。ローゼリアはその騎士の力で、大きな戦争に勝ってきたわけだし」
「はあ……」
「難しい?」
「いえ、その、言っていることは分かるんですけど。よく分からないと言うか……」
「そうだよね。僕も、魔力のない世界のことなんて説明されても分からないもんなぁ」
そう。分からないのだ。シオンの説明はリオルトのそれよりずっと分かりやすいのに、より分からなくなる。説明されればされるほど、現実感がなくなってしまうのだ。
深刻な表情で黙り込んだ美月を見て、シオンは少し困ったように微笑むと、その手を美月の頭にそっと乗せた。
「あんまり難しく考えないでいいよ。多分、明日からリオルト様にいろいろ教わるだろうし、生活していく中で徐々に分かっていくこともあるだろうから」
「……明日」
当然のように言われた言葉に、美月の視線がゆるゆると上がった。
「私、ずっとここにいるんですか? 家には帰れないんですか?」
「そうだね。少なくとも聖騎士が選ばれ、君がその魔力を分け与える時までは」
「それっていつまで……」
「一か月後だよ。一か月後の聖騎士を選ぶ儀式で、聖騎士が選ばれるから」
「一か月……」
長すぎる。一か月もの間、連絡もなしに家に帰らなかったら、きっと家族も学校も大パニックだろう。警察だって動くし、ニュースにもなってしまうかもしれない。
美月は自分の頭に置かれた手を離して、「それは無理です」と首を振った。
「一か月も帰らなかったら、大変なことになります。もし日本に戻ったって、元の生活には戻れない」
「……それは大丈夫。きみを返すときは、多少の前後はあるかもしれないけれど、同じ時間の同じ場所に返すことになっているから」
「じゃあ……」
「それほど大問題にはならないと思うよ」
安心して、と小さな子供にするようにもう一度頭を撫でられて、美月は小さく胸を撫で下ろした。
シオンの言っていることが正しいのなら、一か月後にはここから、元居た場所に帰れることになる。100%信用はできないけれど、少なくともシオンはここに来てから出会った人の中では一番信用できる人物のように感じた。
大丈夫。一か月後に帰れると思えば、この現実だって悪い夢だと思える。
美月は皿に残っていた薄い黄色いフルーツを食べて、それをシオンに戻した。
「ご馳走様でした。おいしかったです」
「いいよ。さあ、もう少し眠りな。明日から、きっと大変になると思うから」
肩を押され、そっとベッドに戻された。長い間眠っていたはずなのに、背中がベッドに触れるとまた猛烈な眠気が襲ってくる。首元まで柔らかなぬくもりに包まれると、目を開けているのが辛く感じるほどだ。
「水差しは置いていくから、好きなときに飲んで。灯りはどうする?」
霞む視界の中、立ち上がったシオンがベットサイドのランプに手をかけていた。
付けたままでも、消してもらっても問題はない。朦朧とする頭の中でぼんやりと思う。「どちらでもいいです」と言おうと思っていたのに、口から出たのは、美月も想像もしていなかったセリフだった。
「……行かないでください」
シオンの動きが止まり、ゆっくりと顔が向けられる。その表情は驚きに染まっている。
美月は自分が言ったセリフがとんでもない意味を持つと気が付いて、恥ずかしくなった。顔を見られないように、慌てて頭までベッドの中に潜り込む。
「……そういうこと、ベッドの中では言わないほうがいいんじゃない?」
シーツの向こう側から、からかうような声が聞こえてきて、美月はすっかり黙り込んだ。もうこうなったら寝たふりをするしかない。
部屋の中がもう一段階暗くなったが、シオンの気配はまだそこに残っていた。
「……ねぇ」
と、少し甘えたような声が降ってくる。
「名前教えてよ、聖女様」
寝たふりを決め込んだばかりなのに、嫌な質問だ。美月はどうするかしばらく考えたあと、「……美月」とぶっきらぼうに答えた。
「ミツキ? 変わった名前だね。どういう意味?」
「……美しい月、で美月」
「へぇ」
こんな美しい人間に、平々凡々の極みのような自分が、自分のことを「美しい月」だなんて、どんな羞恥プレイだ。
美月はあらためて寝たふりをすることを決めた。もうこれ以上失言をしたくない。「いい名前だね」と言われた言葉には、返事をしなかった。
「僕、今晩はずっとこの部屋の前にいるから、安心して寝なよ」
シオンはそう言って、寝具の上から背中をそっと撫でた。
「おやすみ、ミツキ。いい夢を」
静かな足音は部屋を去り、静寂が満ちる。窓の外の木々のざわめきを聞きながら、美月はそっと目を閉じた。こんなおかしな場所にいるのに、今はあまり不安がない。
――そういえば。
なくなりかける意識の片隅で、ここに来てから初めて名前を呼ばれたな、とぼんやり思った。