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18. 負け


 いつも、人のよさそうな笑みを張り付けている。

 けれど腹の中は醜いものでドロドロ。その不安定さは痛々しい。

 私はそれを、よく知っていた。



18.



 誰にも拾われない叫び声を上げ続け、喉が掠れて声も出なくなった頃、部屋の鍵が開く音がした。疲れて閉じていた目を開けると、ちょうど部屋にヴィッツが入ってきたところだった。


「やあ、聖女様」


 後ろ手にドアを閉めながら、ヴィッツはまた人の良さそうな笑みを張り付けた。


「顔を見に来てやったよ」

「……それはどうも」


 ベッドの前に立って自分を見下ろす男を、美月は精一杯睨み上げた。


「ひどい顔だな」

「どこかの誰かのせいで」

「そうか。それはいい気分だ」

「ド変態クソ野郎」

「そうやって罵倒されたのも生まれて初めてだ。新鮮だな。悪くない」


 本物の変態じゃん。

 美月は呆れたように「もういい」と言ってから口を結んだ。これ以上ヴィッツと楽しいおしゃべりをする気はなかった。とにかくなんとか隙を見て、ここから出なければならない。もう時間がない。

 今、自分がどこにいるのかは検討もつかないが、あれだけ叫んで誰も来なかったのだ。夜会の会場からはかなり離れているのだろう。


「なぁ、まさか、逃げようとしてるのか?」


 ぎし、とベッドが鳴った。

 ヴィッツの両手は美月顔の両脇に置かれ、片膝はベッドに乗せられている。鼻先が触れ合いそうなほど、顔を近づけられる。ヴィッツの目が、獲物を狙う獣のように細められた。美月は出そうになった悲鳴をごまかすために、「はっ」と吐き出すように笑った。


「当たり前でしょ」

「打たれ強いな」


 ヴィッツはどこか感心したように言った。


「ここに来た時は、もっと弱い目をしてたのに」


 それだけ言い残して、ヴィッツは美月の元から離れた。

 顔だけ起こしてヴィッツの背を追う。彼はロープを拾い上げてから壁際の古い椅子を引きずり、部屋の中央に置いた。そしてその足で美月の元へと戻ると、その体を軽々と持ち上げる。


「なにっ、すんのよ!」

「ベッドに寝転がしとくだけでもいいかと思ったが、少し不安だからな」


 ヴィッツは美月を椅子に降ろすと、あっという間に美月の腕を椅子の後ろに縛り付けた。


「ちょっ!」

「これなら、ここから逃げ出せない」


 じたばたと動かした足も、あっという間に取られ椅子の足に括り付けられる。二重で縛られ、本当にまったく体の自由が利かなくなってしまった。


「自分で言うのもあれだけど、女相手によくここまでできるわね! むしろ尊敬するわ!」


 美月は体をくねらせながら叫ぶように言った。腕も足も動けば動くほど皮膚に食い込んでいく。痛い。けれど、絶望して、従順に泣いてやるつもりもない。

 ヴィッツはそんな美月を見て小さく笑うと、もう一度ベッドに腰かけた。そして不思議なものを見るように、正面から美月を観察する。

 不躾な視線に、美月は「なによ」と食いしばった歯の隙間から声を漏らした。


「いや、きみと結婚したらしばらくはこうやって縛り付けておかないといけないかもなぁ、と思ったんだ」

「だから、結婚しないって」

「するよ。きみは聖女で、俺が聖騎士だから」


 ――まただ。


 ヴィッツの張り付けた人のよさそうな笑顔。

 この人は知っているんだ。こうやって笑っていれば、誰も痛い場所には踏み込んでこないことを。


「……“笑ってごまかせると思うの?”」

「え?」

「そう思うよね。だって、本当に、笑っていれば誰もそれ以上は踏み込んでこないから。それでごまかせてると思ってたの。でも、ごまかせないんだよ。だって、こんなにも見てて痛々しいんだから」


 美月はヴィッツを見た。

 ヴィッツの瞳が、初めて揺れた。そして、ゆっくりと逸らされる。


「……あなたは可哀想な人」

「……へぇ、それも初めて言われたな」


 ヴィッツが、がしがしと前髪を乱す。その行動とは裏腹に、声は冷静だ。


「私も同じだったから分かる」


 その言葉にヴィッツの手が止まる。


「……同じって?」

「あなた、別に聖騎士の地位にそれほど興味ないでしょ」

「……まさか」

「心と行動が合ってない。受け入れられていないことがあるんでしょ」


 わざわざ私に、自分が召喚を邪魔したと言ってみたり、シオンとの約束を告げてみたり。そんなこと、本当は言わなければいいのだ。言わずに、ただ聖騎士になってしまえばいい。それで誰も傷つかない。

 でも、そうできなかったのは、きっと耐えられなかったからだ。自分の中に抱えておくことができなくて、けれど誰にも言えなかった。だから、私に言った。

 この世界のことを何も知らない、私に。


「俺は聖騎士になる」

「家のために?」


 ヴィッツは押し黙った。


「私は貴族とか、そういうことってよく分からないけれど、あなたは他人の希望とか想いとか、いろんなものを背負いすぎてる気がする。自分の意志がなければ、そんなのは夢じゃない。呪いだよ」


 部活に復帰してからの数か月は、まさにそうだった。

 私を突き動かしていたのは、期待や他人の想いを叶えられない自分への情けなさと、罪悪感だ。それは夢というよりは呪いだった。四六時中頭に張り付いて離れず、真夜中に叫びだしたくなるような。

 ヴィッツはその時の自分によく似ている気がした。


「こんなことまでして、偽りの実力で聖騎士になったら、あなたは永遠に呪いの中だよ。それであなたは幸せなの?」

「……しあわせ?」


 額を抑えたまま固まっていたヴィッツから、言葉がこぼれた。

 美月は言葉を待った。今、ヴィッツの心が揺れているのが分かった。私は手を伸ばせない。あの時シオンがしてくれたように、揺れる心をこちら側に引き寄せてやることはできないのだ。だから、どうにか言葉が届いて欲しい。

 美月は祈るような気持ちで「ヴィッツ」と名前を呼んだ。


「……しあわせ、か」


 ヴィッツはそう言って、肩を震わせた。


「しあわせ、ね」


 くしゃりと前髪を握ってから、額から手は離れる。そしてその手が口元を抑えた。

 押し殺したような笑いが、隙間から漏れる。今まで部屋に横たわっていた沈黙を消すかのように、ヴィッツの笑い声は部屋に響いた。


「愚かだな」

「ヴィッツ……」

「俺がそんないい人間に見えるのか」


 ヴィッツは立ち上がり、美月の頬に触れた。


「俺がお前にいろいろな事実を告げたのは、ただの退屈しのぎだ。すべてが上手くいきすぎるのは退屈だし、事実を知っているお前と結婚して、お前が悔しそうに顔を歪めながら、それでも俺がいないと生きていけないのを見るのは楽しそうだったから。それ以上の理由なんて、一切存在しないんだ」


 子供を慰めるように言って、ヴィッツはしばらく頬を撫でた。

 美月の怒っているような、悲しんでいるような目を見ながら、ヴィッツは言った。


「……聖騎士になったら、幸せだよ」


 ヴィッツは穏やかな笑みを浮かべた。


「それで全てから開放されるから」


 美月の目が傘を広げるように見開かれ、唇が開く。けれど、何か言いたげに震えた唇が、言葉を紡ぐことはなかった。悔しそうに唇を噛みしめ、俯く。

 美月の、負けだった。

 ヴィッツは美月の両頬を掬いあげるようにして、再び視線を合わせた。なぜ彼女が泣きそうな顔をしているのか、よく分からなかった。

 そんな美月に、ヴィッツは言い聞かせるように言う。


「……次に会うときは、すべてに勝利した俺だ」


 頬に寄せられた唇が、小さなリップ音を立てて離れる。美月はもう、何も言わなかった。




 部屋から出たヴィッツは、扉の外にいた衛兵に声をかけ、夜会会場へ戻る。

 なにもかも上手くいっている。明日の夜には、自分は聖騎士だ。ヴィッツは何気なく、空を見上げた。黒く塗りつぶされた空には、分厚い雲がかかっている。

 月は、見えなかった。


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