プロローグ
主人公が猫のまま進むという、けっこう無理があるライトファンタジー!いろいろと!!無理がある話です!!
ちなみにネロはオスです。猫にゃー少女的なものを期待された方はすみません……。
プロローグ
野道を転げるように駈けていた子猫は、後ろから抱え上げられた。
「ンニャーッ!」
触診するようにさわってくる手を、無闇に爪でひっかく。
「おおっと、ヨッコイショっと」
その手は暴れる猫を抱き直した。
「みーつけた、元気なガット・アイ(ねこのひとみ)ちゃん」
低く嗄れた声が、耳もとで響く。脳みそに直接囁かれているよう。
ざわざわと草が風になびいた。
猫を撫で回す手は、細い二本の血が流れていた。彼女は気にも留めていない笑顔で言う。
「観念なさい。私に適うわけないのよ。だって優秀な魔女だもん」
くっそ!
チラと後ろを見やる。軽やかに水の流れる、大きな川がそこに横たわっていた。バレーヌ川。アルファ半島をおおきく横断しており、東西の地域をつなぐ物流の航路でもある。
が、橋が見当たらず、対岸には渡れそうにない。
夢中で逃げるうち、こんなところにまで追い詰められてしまった。
猫は鼻をむずむずさせた。
川のほとりに生えたアザミの赤い小花が、花粉をまき散らしているらしい。
「さてと、帰りましょ。飼い主から報酬をもらうためにね、私が」
「にゃにゃっ!」
猫の言葉で猛抗議すると、
「『私利私欲じゃねえかー、オマエのつごうかよ!』……って感じぃ?」
彼女は首をこちらに傾け、猫の意をそっくりそのまま言い当てた。
「にゃっ…?(なんでわかった?)」
「猫と会話くらい、チョチョイノチョイでできるわよ。魔女と猫は昔から仲がいいからね」
声から受ける印象よりもずっと若い、二十歳過ぎの娘だった。
紫のストールを肩に巻き、足首を隠すワンピースを着ている。さくら色の髪は、背中を覆うほど長い。
好奇心むきだしの朱色の瞳を、ぱっと輝かせ、猫の目を覗き込んでくる。
「これが噂のトルコ石の瞳! 宝石より綺麗ね」
率直に褒められ、猫は萎縮した。
油断したとたん、コールタールに飲み込まれたように、視界が黒く染まった。
魔法にかけられ――ていない。なんのことはない、ただの黒いゴミ袋を被されたのだ。
「さあ、追いかけっこはゲームオーバーよ」
ガット・アイ――ねこのひとみ。
世界でもとても珍しい、伝説の猫の種。
白い和毛は高級シルクよりなめらか。ターコイズグリーンの瞳は、南の海よりも透き通り、澄みきっていた。
『そのひとみにじっと見つめられたものは、時をさかのぼる』――と言われている。
割ったコップを見つめれば、五分前の、割れる以前の形に戻る。しょうゆをこぼしてしまった白シャツを見つめれば、真っ白に戻る。
世界全土の時間を巻き戻したり、死者を蘇らせたり、人を何歳も若返らせたり――そんな、生命倫理を覆すようなことはできない。
それでも、少しの傷を治したり、肌のシミや皺を消したりすることならできる。
二匹といない美貌。そして奇跡の魔法『ねこのひとみ』。
そのおかげで、猫ハンターに誘拐されては、資産家にとんでもない大金で売られ……を、数ヶ月の間に何度も繰り返した。
でも、魔女に捕まったのは初めてだ。
「私はハルン。春の魔女よ」
猫は身を固くした。
春の魔女。
この地域の天候を操作して温暖に保ち、地元の繁栄を守る。規格外の契約金で市に雇われた大魔女だ。
ふだんは、プリベラ市都心部の【風見の塔】に住んでいるはず。
『春の魔女がなんで、こんなトコに――』
「んー。公務だけしてても暇だし。ありあまる能力を温存して使わないのは人類の損失かなって。ひまつぶしにペット探しのバイトしてるのよ」
『よけーなことすんなよ! 稼いでるクセに、セコイことしやがって!』
「よく喋るじゃない、マリーノヴィ・ツベートちゃん」
『フン、我輩はそんな、ご大層な名前じゃない…』
「ワガハイくん? ふふ」
『それは一人称ニャ。名前なんて、無い……』
目の前のビニール袋に小さな額をこすりつけて、彼は主張した。
『我輩の名前は全部かりそめなんだ。飼い主が変わるたびにコロコロ変わる。そんなもの真の名じゃない――』
突然ゴミ袋の口が開いて、真昼の日光と新鮮な空気が顔に降りかかった。
「マリーノヴィ・ツベート! まあまあ、よく帰ってきたわねえ」
「にゃゃぁ!」
玄関ポーチで、中年の婦人が猫を抱き込んだ。いつのまに移動し、元の家に戻っていたのだ。
また、彼女の顔面を見つめ続ける日々が始まるのか。
少しくらい皺を薄くしたところで、大差ないのに!
猫はそう思って、わざと魔法は発動せずに、御主人の顔を見つめた。
ガット・アイは見つめれば自動的に魔法にかかるわけではない。自分の意思で、『ねこのひとみ』を発動する必要がある。
彼女は自身の若返りを信じ込んで、毎晩、鏡をのぞきこんでは悦に入っている。
なにも変わっていないのに。
強烈な思い込みが、多少は肌の色つやをよくしているのかもしれない。
後方の魔女をにらむと、含み笑いでひらひらと手を振られた。
*
一週間後。
地下坑道に広がる町の貯水庫に、猫はいた。
立ち入り禁止の掲示を通り過ぎ、鉄格子の隙間から滑り込んだ。
雨水を溜めておく貯水タンクを目前にして、猫は足を止めて振り返る。
『げぇ、またおまえかよぉ!』
見覚えのある女の影が、地下の真白い灯に反射し、長く伸びる。猫の影と重なった。
あの魔女だ。
薄暗い地下で改めて眺める。
魔女ハルン。肌艶はみずみずしさがある一方で、その表情と声は、百年の眠りについた王国の女王のように老けていた。
「だって聞いてよー、こんなわりの良いバイト他にないって。猫ちゃんを見つけるなんてこの天才魔女にはオチャノコサイサイだし、報酬は弾んでもらえるし、あんたは懲りずに脱走するしね」
ヒールを鳴らし、距離を詰めてくる。
「あのマダムの家にいれば、あったかい部屋で毎日ごはんもらえるんでしょ? 別にイイじゃない。なんで逃げるのよ」
『ほっといてくれ……我輩はただ、自由が好きなだけニャ』
「フーン、そお」
ハルンは頷き、ただ猫を見つめた。
『また連れ戻すのか』
「はっはっは。どうしようかなぁ~」
魔女は猫の小さな額に、手をかざしてきた。
眠気をさそう魔法でもかけるのかと思ったら、また黒いゴミ袋で身を包まれる。
「にゃっ!」
暗い部屋で猫は目覚めた。
窓の外で、ごうごう鳴っている。風の音だった。
固いマットレスの寝心地は最悪。今まで寝たことのない安物だ。
気絶している間に、新しい家に売り飛ばされたのか? 慌てて起き上がり、周囲に目を配る。
ジャンプで届きそうな低い天井。ベッドしかない部屋、きしむ柱の音。丸みを帯びた曲線の壁。すっかり夜で、壁に吊された小さなランプだけではよく見えなかった。
それでも資産家の家には見えない。不安が顔をもたげる。
「にゃ、にゃにゃーっ!」
「あら、やっとお目覚め?」
同じベッドに寝そべって、フライドしたサツマイモを食べている人影がいた。背に垂れる長い髪に、聞き覚えのある声。
『おまえ、魔女ハルン?』
「そ」
『なんで』
「まず、寝なさい。溜まった疲れを取るの。いい? 寝るのが一番」
優しい言葉と温かい手が、ふんわりと猫の背中に降ってきた。
猫は一瞬で眠くなり、再び寝そべった。
そのまま抱き上げられ、彼は魔女の膝上にのせられた。ひっかきたい。けれど身体が疲れ切って動かない。
こんな魔女、信用できるのか?
でも、もうどうでもいい。
どこへ行っても地獄ならば……
猫は素直に眠った。
次に目が覚めると、猫はひとけのない工場の裏にいた。まばらに生えた草と、黄色い花が揺れている。ほんとうに死んだのかも知れないと思うほどに、日光がまばゆく綺麗だ。
身を起こす。身体はどこも辛くなかった。
それどころか毛皮を脱いだように軽い。
『おい、どこニャ、ここ』
くるりと身体をひねると、やっぱり側に魔女がいた。桜色の長い髪を押さえて、その場にしゃがみこんで、猫を見つめていた。
「おっはよーん、ネロ」
『わ、我輩を、屋敷につれていかないのか? 仕事なのに?』
ネロ、と言われた気がしたが、なんのことかわからない。
「はぁー悔しい。さんざん探したけど目当ての猫は見つからなかったのよー。ハルンちゃん、賞賛されてばかりの栄光人生で初めての挫折!」
『え……?』
魔女は微笑んで、猫を見返している。
「依頼人にはもう詫びをいれたわよ。魔女ハルンが本気出して三日も見つからなかったんじゃー、死んだとしか思えない、諦めてくれるって」
あれから三日も経っていたことに、初めて気づいた。
猫は、そのあいだ、魔女といっしょにいて、うとうとと眠っていた。
今まで気が立っていた分を慰めるような眠りの中にいた。少し起きてはミルクを飲み、ごはんも食べさせてもらった。あれは彼女の家だったのだろう。
「あんた、あのマダムの息子に虐待されてたのね」
『なっ、なんで……』
「マダムはあんたの魔法目当てだろうけど、優しそうだし、どう見ても屋敷は快適だし。なんで逃げ出すのかなと、ちょっと調べてみたのよね。すぐに分かった。すっごく巧妙に、外傷がないように加減して暴力を振るわれていたんでしょ。あと言葉の暴力もね。イヤねー」
ネロはじっとうつむいて答えなかった。閉じている瞳に涙がこみ上げてくる。
「わかったなら、ぐずぐずしてないで早くどこか遠くに逃げなさい」
『あ、あの、お礼を……』
「べつにいいわよ。今まで稼いだし」
『だって、なあネロって……ネロ、ネロ、それは我輩のことニャ? にゃ!』
希望が胸に満ちた。全世界に春が訪れたように、空が華やぐ。
魔女がつけてくれた名前は、いままででいちばん気に入った。
一生、この名前を名乗ってゆく。
名付け親である彼女に付き従う。
そう安直に決めるくらいには。
猫は魔女に惚れ込んでいた。
『だから、ハルン、なぁ。我輩を連れていってくれ。役に立ってみせる、なんでもするから!』
魔女は、流れるようなピンク色の髪が強風に煽られるのを放っていた。
彼女はにっこりと優しく微笑み、
「はぁ? あんたに一体なにができるのよ? 綺麗なだけのただの猫でしょ」
辛らつな言葉を吐き、すぐに背を向ける。猫は彼女のハイヒールに纏わり付いた。くるぶしにすり寄る。しかし突き放すように歩を早める魔女。
猫は走り出して、追い抜いた。
『知らないのか? 我輩は特別な魔法が使える。時を戻す魔法を――』
「おあいにくさま。私には戻して欲しいコトなんて、思いつかない。いつだって、今がいちばん。この時を全力で楽しんでるんだもん」
彼女は上機嫌に、ころころと笑う。こどもみたい。胸がくすぐったい。
そりゃあ、そうだ。若く美人で健康そのもの。
この魔女は、時間を戻したいなどと思わないだろう。けれど、そんな風にさっぱりと言い切れる人が、世の中にどれほどいる?
さんざん人間たちの私欲や見栄に利用されてきたネロは、魔女のまっすぐな志に、打たれた。
「ふふふ。じゃあね」
『ま……待って!』
風に揺れるストールの裾を追って、ネロは走り出した。