天啓
赤い夕日がビルの後ろをぬけて、瓦屋根のみねの向こうへ沈んでいく。
生暖かい風が街路樹の枝を揺らしている。
駅前の大通りには、夕飯の買い物をすませた主婦達や家路を急ぐ学生、仕事終わりのサラリーマンなど雑多な人が行き来している。
その雑踏の中を一人の男が歩いていた。
長身に紺のスーツを身に着けている。残暑が厳しいというのに、ジャケットの前ボタンはきちんと留められ、ストライプのネクタイは几帳面に襟元で結ばれている。
細身の身体にスッキリと着こなしている姿は、むしろ涼しげにさえ見える。
男の歩みは穏やかで、どこか周りの喧噪とは一線を画す雰囲気がその男をつつんでいた。
周囲の人波を裂くでもなく、かといってそれに呑まれるでもなく、男の脚は淡々と主人を駅とは反対の方角へと運んでいく。
そんな男の眉間には、数本の深い溝が刻まれている。
端正な細面が幾本かの皺によって、一見すると不機嫌なようであったが、どうやら男は怒っているわけではないようだ。
たまに、思い出したように顔を上げてあたりを見回すと、また頭を垂れて歩いて行く。
アーケード街のなかほど、とある金物屋の前で男の脚は止まった。
既に金物屋はシャッターを降ろした後だったが、店先には錆びたベンチと珍妙な黄色いオブジェが置かれていた。
男はそのベンチにおもむろに腰を下ろすと、ジャケットの内ポケットに右手を入れて革製のシガーケースを取り出した。
そこから、タバコを一本とライターを取り出す。
シガーケースをジャケットのポケットに無造作に入れると、男は出した煙草をくわえて火を付けた。
深く吸うと煙が喉奥を通り、一気に肺に入り込む。肺胞の一つ一つが煙で満たされていき、一拍おいてからその煙が来た道を戻って、排出される。
一服した男は右足を左足に重ねて組むと、さらに何度か煙をくゆらせた。
吸い終わると、短くなった煙草を横に立つ黄色い灰皿のオブジェに捨て、何気なく視線を宙に泳がせる。
既に大通りでは店々の電飾が光りはじめ、横丁の赤提灯に火が入る時間になっている。
もう一服しようと思ったのか、男は内ポケットに手を差し込んだが、そこにシガーケースは入っていなかった。
別の場所にしまったのかと、ジャケットの表ポケットに手を入れると、手に馴染む湿った革の感触と、乾いた軽い感触が指先に感じられた。
その感触にかまうことなく手を引き出してみると、黒いシガーケースが姿を現した。
そして、シガーケースと一緒に出てきたのは一枚のチラシであった。男が駅前で受け取ったもので、端に割引券がついている。
一瞬、男は雷にでも打たれたように硬直した。直後、見る間に男の眉間から、皺が消えていった。
男は、急に立ち上がると早足で駅の方へと歩き出した。
そして、つぶやく。
「今夜は肉だな」