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第八話 懐かしき母の記憶とともに



 その日は母方の祖父に連れられて、観劇に出かけた。まだ幼い俺は、特等席で見る舞台の素晴らしさを理解しきれないでいた。

 劇場は社交場のようなものだった。さまざまな人に出会う。何度も会っていると、あの人がどこの伯爵夫人で、この人が男爵で、とぼんやり把握できるようになった。

 誰もが俺を見て溜め息をつく。

「本当に綺麗なお顔だこと」

 男児にしておくのはもったいない。その言葉にももう慣れた。父でさえ、女に生まれしものならば、と時折悔やむのだから。

 男で問題はあるか、などとは口に出さない。そういうときはただ微笑んで礼をすればよい。

 ちやほやされるのは、俺自身が素晴らしい人間だからではないと、もう察していた。

 どこに行っても必ず相手が褒めてくれるのは容姿のことばかり。祖父を見かけた人は真っ先に寄ってきてやたら丁寧に挨拶する。

 もしも伯爵である祖父と一緒でなくて、俺がお世辞も言えないような醜悪な外見だったら、きっと彼らの態度も違っていただろう。子供ながらにそんな考えを内に秘めていた。

 もてはやされるのは嫌いではない。しかし、大人ばかりの世界は疲れる。

「おかえりなさい、彰寿さん」

 どれだけ祖父が俺をいろんな場に連れて出そうとも、最も安らぐのはやはり自宅だった。母が出迎えてくれると、それだけで安堵した。

「お祖父様と何か食べてきたのかしら?」

 ふるふると首を横に振ると、母がにっこりとしながら囁いた。

「今日はね、彰寿さんの好きなものがあるのよ。先刻、頂いたの」

 母の言うそれが何なのか、すぐにわかった。目を輝かせると、母は目を細めた。

「お夕食前だから少しだけね」

 父は忙しく、兄たちも学校やそれぞれの都合がある。日中は、母と二人きりでいることが多かった。

 鈴森家は三人兄弟だった。本当は俺の上にもう一人子がいたそうだ。しかし、無事に生まれることは叶わず、母は大いに嘆いたという。

 そのせいだろうか。もう次の子を諦めていたところに生まれた俺に、母はいっそう愛情を注いだ。父からたびたび窘められるほどに。

 鈴森の家は、屋敷こそ客を迎えるために贅沢な造りをしていたものの、平時の食事は質素なものだった。しかし、俺が好きだからと、母は時折父に内緒で菓子などを用意してくれた。

 父も兄たちも好きだが、俺は母が一番好きだった。母といる時間が、最も子供らしくいられるように思えた。

 ケーキを少しずつ頬張っていて、ふと目が合う。

「彰寿さん、美味しい?」

 そうふわりと笑う彼女は、本当に美しかった。愛しい我が子を見つめる瞳が優しくて、俺も自然と表情がやわらいだ。



 携帯の鳴る音で目覚める。

 ぼんやりとした頭で携帯を開き、音を止める。ついでに確認した時間は、起きる予定の時刻より一時間近くも過ぎていた。休日の起床時間に設定してしまっていたようだ。

 制服を着て慌てて階段を下りると、ダイニングから出てくる父さんと遭遇する。

「おはよう、智樹がこんな時間に起きるなんて珍しいな。じゃあ、行ってきます」

「はあい、行ってらっしゃい。あれ、智くん起きた?」

 ついでに母さんも出てきた。

「おはよう。ごめん、五十分の電車に乗るから、朝飯いらない」

「智樹、ちゃんと食べなきゃだめだよ。母さんがせっかく作ってくれたんだから」

「お父さんの言うとおり。じゃあ、気をつけてね。今夜はハンバーグだから、楽しみにしてて!」

 父さんはいい笑顔になる。俺より少年っぽいところがある人だな、とこういうとき思う。

 俺はしぶしぶ食卓についた。

「芹花はまだ寝てるの?」

「最近、夜遅くまでお勉強してるみたい。ふふ、ああやって頑張ってる姿見るとさ、応援するこっちも気合いが入るよね」

 あいつの中学は近いから、あと三十分は起きないな。

 出されたパンをかじりながら、俺は夢の余韻に浸りつつ、現実をかみしめる。

 今朝の夢は懐かしいものだったな。彰寿にとっては何でもない平凡な一日だったはずなのに、今となっては取り戻せない貴重な一時となってしまった。

 幼年学校に入ってからは、あんな風に親子で過ごす時間はなくなってしまったな。ああ、不義理ばかり重ねていた。

 母上の顔が何度も浮かんでは消える。せっかくだから、父上や兄上たちも出てくればよかったのに。

「智くん、もうそろそろ出る?」

 母さんに肩を叩かれる。時計を見ると、乗るはずだった電車の出発時刻が迫っていた。

「しまった」

 急いで身支度して出る。

「行ってらっしゃい! 慌てて事故らないようにね」

 飛び跳ねるようにしながら母さんが手を振るものだから、反射的に振り返す。

 もう十七歳になってしまったせいか、だいぶ永喜の時代に慣れた。それでも、いまだ松井家でも他所者気分が抜けない。

 遠慮と甘えの狭間で、俺は今日も松井智樹という人生を送っている。

 目下の悩みは、そろそろ大学受験に本腰を入れなければならないことだった。

 俺のような奨学生に限らず、中学生のときから熱心に受験勉強に取り組んでいる同級生は多い。対する俺はというと、考え中だった。面談では聞こえのいい学校名や学科名を挙げてみたものの、どうしてもそこに入りたいかというとそうでもない。

 まあ、どんな道に進んでもいいように、調子に乗ってサボらずにコツコツやるしかないか。特待生という身分はこういうとき助かる。明確な志望先が決まっていなくても、勉強する目的があるから。しかも、学校自体、受験対策にはかなり力入れているし。

 彰寿の頃は、こんなに将来に対して曖昧な意識でいたことはなかった。

 鈴森の父の希望で、彰寿は幼年学校から予科を経て、軍学校本科へと進んだ。母や親戚筋はしきりに軍人以外の道を勧めたらしいが、これだけは父も譲らなかったようだ。他家への養子の話が出ようとすべて固辞した。

 当時、家長の言葉は現代とは比べものにならないくらい強かったし、俺も納得していた。

 たとえ、それが父の望んだ道筋であっても、軍人になるのだと幼い頃から言い聞かされたとしても、俺は俺の意志でその人生を選んだ。

 軍学校では、ひたすら文武に励む日々を送った。己の能力で進んでいくのだという思いと、負けたくない相手の存在もあり、いくらかの不利も押しのけることができた。

 彰寿でいたときは、国のために身を捧げるのだと本気で思っていた。この国が好きで、国を守るために存在する軍人を誇らしく思っていたから。

 さて、今はどうしようか。

 生まれ変わって、この国への愛情がなくなったわけではない。ただ……この現代、この人生で自分は何をしたいと願うのか。それがどうもわからなくなってしまった。

 彰寿の無念を晴らすならまた同じように……と思った。けれども、寿基の言葉を思い出してしまった。鈴森の母は彰寿の死を嘆き、後を追うようにして亡くなった、と。それを思うと、動けなかった。

 そもそも、智樹になってから、自分が何をしたいのかもわからなくなっていた。

 かといって、他の職業も特に思いつかない。会社員も自営業も公務員も、どれもイメージができない。強いて言えば、松井家の両親に孝行できるようなものがいい、くらいか。こんな俺を大学にまで行かせてくれるのだし。

 というわけで、就職に有利で希望職種を途中で変更してもつぶしが利きそうな学科ならどこでもいい。

 そんな半端な精神で進学先を選んでいる自分にやや失望していた。彰寿では絶対にありえないことだったから。

 そのせいか、逃避で革前時代に浸る時間が増えた。おかげで、本のコレクションも増えていってしまう。

 革前時代といえば、不思議なことに、いつの間にか妹の芹花も愛好家になっていた。

 芹花は英喜十二年生まれ。俺より二歳下で現在は中学三年生だ。

 一応勉強は見てやってるけれども、芹花との距離感はこの歳になってもまだあまり掴めない。

 彰寿は男ばかりの兄弟の末っ子で、家族からいつまでも年少者としての扱いを受けていた。頻繁に接した年下の子供なんて、せいぜい甥の寿基か、亮様の弟にあたるやすし様くらいだ。

 そんな俺が、今では年下の女の子と兄妹をやっている。勝手が違いすぎた。

 妹というのはようわからん。昔は慕ってくれていたのに、あるときを境に急激に離れていった。そして、お互いが成長するとまた距離が縮まった。

 今年に入ってから急に、芹花は俺に革命直前のことをたくさん聞きにくるようになった。かつてのあいつとはえらい違いだ。一瞬、どこか頭でも打ったのかと思った。

 革前については実体験で話せるから、資料を交えていろいろ語れば、熱心にメモを取ったり本を借りて行ったりする。

 また、当時の有名人のことも尋ねてきたりした。その中に彰寿や高山田のことも含まれていて緊張した。極力客観的に話せたはずだが、歪んだ知識を植えこんでしまったらどうしようと、内心ひやりとしたこともあった。

 俺が言うのもなんだが、現代の女の子なら革命あたりの時代はむしろ敬遠するものだろう。

 革命そのものは暗く、憂鬱になる出来事も多い。そこが逆に魅力だと、コアな革命時代ファンは言うらしいが。

 それよりもちょっと昔にずれて、維新以降の陽慶・奉佳・正寧初頭くらいの時代は、サブカルチャー好きな人種に受けているらしい。

 和洋折衷の服装。レトロな機械。西洋の影響を受けた建築。

 芹花もきっとそういうのが好きなんだろうと思った。気持ちはわかるから。

 話せる相手が増えるのはいいことだ。俺の周囲でも、革命時代ファンはなかなかいなかったから、単純に嬉しい。

 図らずとも縁あって兄妹となったんだ。前みたいに嫌われるよりはずっといいし、妹に頼られるのもそんなに悪くない。そう思っていた。



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