第二十三話 もう一度会いたかったのは
呼ばれた気がする――彰寿さん、と。
振り向くと、薄靄を背にした母が立っていた。いつもそうだったように、美しく微笑んでいた。
胸が喜びに染まっていく。もう二十、母に甘える歳ではないとわかっていても、嬉しくてたまらなかった。
「母上」
俺の呼びかけに目を細める。
ああ、ずっとお会いしたかった。もう一度、話がしたかった。
その向こうに数人の影。鈴森の家族だ。顔は見えないのにそう思った。
彰寿、とまた呼ぶ声。記憶にある父の声そのままだ。
なんだかとても懐かしい気がする。それなのにどうしてだろう、返事ができない。
唇が乾く。
恋しく思っていた鈴森の家族がすぐそばにいるのに。長い間、俺はこの人たちにこの名で呼ばれたかったのではないか。
駆け寄ってきた母は涙を流しながら無言で俺に抱きつく。
「申し訳なく思っておりました。何も成せずに先立ってしまいましたことを」
母は俺の胴に顔を埋めたまま首を横に振る。見下ろした俺は、宥めるようにその背に触れようとして、違和感に気づく。
母は、こんなに小さい人だったろうか。
小柄だと言われ続けてきた俺よりもずっと華奢な人だった。しかし、これほどまでに身長差はなかったはずだ。
そういえば、向こうにいるはずの父たちも、俺よりも背が低いような気がする。
自分の姿を見れば、来ているのは軍服でも正寧の格好でもない――シャツとジーンズだった。
そこで、ようやく気づいた。これは、いつもの夢ではない。
だって、俺は――。
「今はもう彰寿ではございません」
放った言葉は、風のような質感。
「俺は、智樹という名で生きております」
松井の両親がつけてくれた名。それはもはや彰寿よりもずっと口に馴染んでいた。
しかし、彰寿でもあるだろう。苦笑するような次兄の声とともに、影がひとつ首を傾げてみせる。その仕草がまた懐かしくて、涙が出そうになる。
自分は鈴森彰寿。それに偽りはない。なのに、どうしてこんなに切なく苦しい気分になるのだろう。
この人たちといれば、俺は鈴森彰寿に戻れる。正寧時代に帰ってきたも同然。けれども、それを喜べない自分がいる。
ああ、そうだ。俺にとって大切なのは、この人たちだけではなくなってしまった。智樹としてだってまだ何も成していない。
心より再会を望んでいた鈴森の家族を前にしても思うのだ。このままではいけない。永喜に帰らなければ、帰りたい、と。
父や兄たちの方へ歩いていけない。
「俺はもう……彰寿ではないのです」
何度も自分に言い聞かせるように口にしてきたはずの言葉は、今までのどのときよりもずっと、真実のものとなって唇からこぼれる。
いいのよ、と母が背伸びをして、俺の頬に指先で触れる。
――いきなさい。
その瞬間、視界が明るくなった。
眩しさに目を眇める。
「気づかれましたか?」
覗き込んでくるふたつの顔。片方は知らない女性、もう片方は……。
「映果さん?」
「医師を呼びますね」
見知らぬ女性のほうは、胸元から何かを取り出しながら部屋を出ていく。
映果さんの化粧の落ち切った顔が歪む。なんだかずいぶん久々に会った気がする。
もう泣かないでくれ、と手を伸ばそうとするがうまくいかない。見ると、数本の管が俺の身体を取り巻いていた。
「あれ?」
まだうまく状況を認識できない。
「階段から落ちたのは、覚えてる?」
抑揚のない映果さんの問いかけに首肯する。
そうだ、てっきり死ぬかと思ったのに生きていたか。間抜けさに拍車がかかるな。
さっきのは……臨死体験というものだったのだろうか。それとも、自分で都合のいい夢を作り出しただけなのか。
「俺、どれくらい眠ってたんですか」
「……丸一日」
「はあ? たった一日?」
松井の両親に先立つ不孝を懺悔したのがよけいに恥ずかしくなる。死を受け入れようとした自分の滑稽さに顔が熱くなるのを感じる。
「なんだ」
「なんだって何?」
叩かれる。痛い。
「こっちはずっと、ずっと心配してたのに!」
「やめてくださいよ、けが人に」
映果さんは唇を引き結んだまま、涙を流す。
「よかった。私のせいで……」
「え、どこがあなたのせいなんですか?」
突き飛ばしたならともかく、帽子を取ろうとした俺が勝手に落ちただけなのに。ああ、かっこ悪い姿ばかり見せてしまっているな。
俺の言葉に反論する元気もない様子で彼女は俯く。
「また、置いて行かれるかと思った」
絞り出すような声。ずっと泣かせてばかりだな。
また、か。そうだ、前世で俺はこの人よりも先に死んだのだった。
「泣かなくてもいいじゃないですか」
自分だって階段から落ちたことがあって、今ぴんぴんしてるのに。
「泣くに決まってるよ。好きな人が死にかけて、泣かない人がいるわけないでしょ」
好きな人。その言葉を受け、俺は彼女を見つめる。
「亮様だったときも、そんなに俺の死を悲しんでくれたんですか」
「……多少」
鼻をすする姿に美少女らしさはみじんもない。
「それはどうも」
でも、と彼女は体に力を入れる。
「今はあのときなんか比べものにならないくらい辛かったの、悲しかったの、これで終わりだったらどうしようって」
「そんなに愛されてたんですね、俺」
この期に及んで。そんな表情になる。
亮様よりも映果さんのほうが感情を読みやすい気がする。でも、俺の思い込みのせいで、今までちゃんと見ているつもりでいながら彼女のいろんな顔を見逃していたのだろう。惜しいな。
「もう俺は彰寿じゃない。あなたの大好きな綺麗な顔も、もう持っていません」
本当に、それでもいいんですか?
「知ってるよ、そんなの。お互い様でしょ。やっぱり駄目だわこの人。もう、帰る」
乱暴にバッグを持ち上げると、彼女は出ていってしまう。呼び止めても振り向きやしない。
大事なことを言いそびれた。俺も馬鹿だな、余計なことばかり口にして。
今度は追いかけることができない。彼女の去った方を見つめていると、恐ろしく良いタイミングで菊川が姿を現した。
「槙村さん、ご家族呼びにいったよ」
ついさっきまで母さんや芹花がそばにいたらしい。しかし、さすがに二人も休憩が必要だからと、映果さんが代わってくれていたのだとか。
「お前も?」
「まさか」
菊川は、さっきまで映果さんが座ってた椅子に腰掛ける。
「ごめん、話聞いてた」
目が泳いでる。思えばこいつ、俺の恋愛事情にかなり絡んでいる。
「お前は、彼女のこと今どう思ってるのかね?」
それは……。
答えようとした隙間を狙うように、慌ただしい足音とそれを軽く諌める言葉が聞こえてきた。
「お兄ちゃん、本当に起きたの?」
寝起きの芹花もまたひどい顔だ。菊川の存在に気づき一瞬硬直した姿を見て、少々同情した。
「あ、生きてる!」
母さんはへなへなと座り込んで、どうやら看護師らしい先ほどの女性に宥められてる。
「よかったあー」
そういえば、母さんが泣くって珍しい。父さんもそうだが、いつも笑っている顔ばかり浮かぶから。鈴森の母は……時折泣いてたな。
「あー、えーっと、ただいま」
この際とことん間抜けになってしまおう。菊川の失笑は聞こえなかったことにして。
母さんはよろよろと立ち上がる。もう帰るからと菊川が椅子を譲った。
「頑丈に産んでおいてよかった~。お医者さんもなんか褒めてたよ」
何をだ。
首を傾げていると、菊川が出ていくのを確認した芹花が低い声を出す。
「状況のわりに軽傷だって。こんなに早く目覚めちゃってさ。お兄ちゃんってやっぱり普通じゃなかったね」
変だ変だと子供の頃からこの妹には言われ続けてきたわけだが、今日はむしろ感慨深くなる。
当たり前だが、父さんにも心配をかけてしまったらしい。今日は最低限の仕事だけ終わらせて、早退してくる予定だったのだとか。
「うちって、平和だよな」
「お兄ちゃんのせいでぶち壊されてるんだけど。いっそのこと骨の十本くらい折っとけばよかったのに」
菊川が去ったとたん悪態がひどくなる。それでも可愛げがあるように思えてくるんだから、非常時というのは恐ろしい。
「映果さんにどれだけ心配かければ気が済むの? デート中に階段から落ちるってありえないんだけど!」
救急車を呼んだのも、家族や菊川に連絡してくれたのも、俺が落ちた状況などを医師等に説明してくれたのも、全部彼女だったという。申し訳ない。
そうだな、世話になってばかりだ。
「いい子が嫁に来てくれて、お母さんは感激ですよ。映果ちゃんが我が家の一員になれば、万葉子ちゃんも遊びにきやすいよね」
母さんの言葉につっこみを入れる気力は、まだ回復していなかった。
医師の説明によると、頭のなかも含めて特に目立った損傷はないとのこと。退院までそう時間もかからないそうだ。
入院中は、三崎や万葉子ちゃんも見舞いにきてくれた。
「すみません、映果にも声かけたんですけど……」
そう説明する彼女は気まずそうだった。
映果さんはその後、一度も姿を現さなかった。




