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第六話 命の隙間を埋めるモノ



 次の日曜日、俺はあのカタログに載っていた店を目当てに、銀座を訪れた。

 この街は昔から華やかで、元号が永喜に変わった今もなお栄えている。一時期は他の街に押されていたようだが、今もなお上級繁華街としての地位を維持している。

 本当に、昔はよく来たなあ。亮様のお忍びに同行させられたことも何度かあった。他の人はともかく、俺は無理に引っ張られただけなのに、亮様の周囲からさんざん怒られた。あれは理不尽だった。

 そんな思い出に浸りながらやってきた建物は、時代を感じさせるものだった。いつからか自らの時を止めているかのように。

 一瞬立ち止まってしまったのは何故だろう。やや躊躇してから、俺は足を踏み入れた。

「いらっしゃいませ」

 店主らしき人が挨拶する。俺は会釈をしながら、陳列棚を覗いた。

 さすがは専門店。店内には万年筆が所狭しと並んでいる。見たことあるものも、ないものも。さすがに、この風景は正寧時代には出会わなかった。少々雑然としているところがまた楽しい。

 欲しいな、と思うものはやっぱり高い。

 中学生の小遣いじゃたかが知れてるか。こんなことなら本代を節約しておけばよかった。

 ああ、働きたいな。そうすれば、父さん母さんに負担をかけることも遠慮することもなくいられるのに。

 不思議だ。一本買うのにこんなに悩むなんて。

 かつて、彰寿にこんなことを言った人間が二人いた。誰もがお前のように何でもかんでも気楽に手に入れられるわけではない、と。

 こういうことを思うのは、松井の父さん母さんに失礼だとわかっている。それでも、彰寿の人生が時折惜しくてたまらなくなる。

 最低だな、俺。

 店主といくらか会話するに留めて、店を出た。

 分相応って言葉がある。今の俺では買ったところで逆に持て余しそうだ。欲しいのを我慢する点では同じなら、今無理して他のものを手に入れることはない。

 ……彼女はどうだったかな。

 心の奥に引っ掛かっていた棘のような記憶に触れ、溜め息をつきながら外に出た。

 せっかく来たんだ、家族に土産くらい買っていくか。でも、今の名物って――。

 そう思いながら空を仰いだ瞬間、身体が硬直した。

 こんなにも綺麗な青空と鰯雲が広がっているのに、俺の視界をあの薄鈍色が侵蝕する。

 智樹になった今でも、冬は嫌いだ。むしろ、彰寿の頃よりもずっと。

 胸がやけに痛い。この身体が傷ついたわけじゃないのに。

 俺は無意識に、足を進めていた。

 四丁目交差点を起点に、そこから俺は碁盤の目状になった道を歩く。あの日の景色を重ねながらゆっくりと。

 ――ここだ。

 中央通りからふたつほどずれた路地。ここで銃撃にあった。

 気取った店が並ぶ今の風景に、あの陰鬱な日の面影はどこにもない。それでも、微かに震えている自分がいた。

 現在は建て替えられて商業施設になっているが、そこから見て右手奥に、かつて央都新聞の社屋があった。俺が伏した場所から、ほんの少しの距離だった。

 せめて、あそこで撃ち合って倒れたら未練はなかったかな。そうしたら、ちょっとは軍のため、国のためになったかもしれないのに。もしかしたら父母に情けない思いをさせることもなかったかな。

 あんな死に方をして、家の名に泥を塗ってしまったであろうこと。こんなにも無力な自分を悔やむ要因のひとつはそれだろう。

 軍学校で首席になった俺を、鈴森の父も母もたいそう喜んでくれた。まるで、今の学校に合格したときの松井夫妻のように。

 それなのに何も目立った功績を挙げないうちにあっけなく死んだ三男に、二人はおおいに落胆したのではないか。

 展示室の遺品が鈴森家から渡ったものなら、どんな思いであの人たちはそれを託したのだろうか。

 あのとき倒れた場所に膝をつき、天を見上げる。ビルの上に広がるのは綺麗な秋の青空だ。雲の白がよく映えて美しく、陽光は静かに射す。

 もしもあの日、と何度も別の行動を空想してみた。けれども、やはりそれも無意味で虚しい行為でしかなかった。

 鈴森彰寿という男は、実に中途半端な死をここで遂げた。それだけは事実だ。

 俺は油断していたのか。悔しさで拳が震える。このままアスファルトに溶けてしまいたくなる。

 あの痛みと悲しみが再び襲ってくるようだった。周囲の景色までもが、当時のそれに戻ったように見える。

 聞こえなかったはずの上官らの呼びかけまでもが再生されそうになる。

 ふと白いものが、またぽつぽつと視界に広がる。雪が降るように。あのときのように。

 胸が、痛い。

「あの、具合悪いんですか?」

 背後の店から、店員が顔を覗かせていた。

「いえ、ちょっと落とし物を」

 数十年前、まさにお宅の目と鼻の先で死んだので感傷に浸ってました……なんて言えないな。

 芹花が「変だ変だ」と言うように、俺、端から見たらそうとう奇妙な人間なんだろう。

 もしも軍博に行って彰寿の記憶を思い出さなかったら、自分に疑問を持ちながらもまだ心荒むことなく暮らしていただろうか。

 軍博――俺は目を開く。

 あの見学の日以来、あそこに足を運ぶことはなかった。

 日比谷なら駅の反対側だ。ここからすぐ行ける。

 待ち人なんていないはずだけれども、誰かが呼んでいる気がした。

 そうだ。あの日は銀座事件のところで倒れたから、全部見ていないんだ。

 止せばいい。きっと、この小さなプライドがもっと傷つくから。

 それなのに、俺はあの場所を目指してしまうのであった。



 軍博は、正寧時代の軍の施設を利用している。内部にも当時の面影が結構残っている。

 チケットを買っていると、資料室への看板が目に入った。無意識に展示室への入口に背を向け、ついそちらへ向かってしまう。

 ここには、軍や軍人に関する文献が多数そろっている。びっしりと本が並んだ光景は、一部の人間から見たら宝の山にも見えよう。

 室内に入ると、奉佳後期から正寧初期生まれと見受けられる爺様たちが目についた。生きていれば、彰寿も彼らと同世代だ。

 軍の興り、確立、発展。それらを取り上げた本を手にとってはパラパラと眺める。地元の図書館じゃお目にかかれないような、貴重な本もたくさんある。

 そして俺の手は止まる。夢中になっているうちに、ずいぶん奥まで進んでしまった。

 目の前の棚に収められているのは……銀座事件と裁判の本。

 触れようとして伸ばした手が震える。

 ポケットの中のチケットの存在を思い出しながら、俺は何冊か取り出した・

 銀座事件について記された書籍だと、鈴森彰寿の名を確認できる。予想以上に彰寿自身のことを書いてあるものは少ない。拍子抜けするほどだ。

 人物評として、「各課目の成績だけを見れば確かに優秀だが、他人から反感を買うような言動が目についた」とあった。他の本でもあまり誉め言葉はない。勤務態度にも、真面目だったという言葉に「しかし」と続きが来る。それは全部亮様のせいだ。

 全部読み終わる頃には、笑いがこみあげてきた。

 なんだ、こんなものか。

 俺――彰寿は自己評価が高い人間だ。きっと、もっといろいろ言われているんじゃないかって思ってたけれども、実際は予想以上に取るに足らない人間だった。

 そりゃそうだよな。あの事件でさえ貢献するどころか、任務の途中で驚くほどあっさり死んでしまったのだから。本来なら展示で取り上げられていることのほうが不思議なのかもしれない。今の時代、軍学校の序列など、たいした意味もない。

 わかってはいるけれども、寂しい気分にさせられる。自分で思っているよりもずっとちっぽけな存在だったと突きつけられる。

 彰寿は、人物そのものよりも死について取り上げられていることのほうが多かった。

 路上で狙撃を受けた。クーデター隊の交渉の拒否の意を示してとのことだが、被告人の証言に食い違いが出ており、真相は定かではないという。

 誤射説やら高山田の私怨による単独行動説やらあるが、華族への見せしめという話もある。他の将校らとともに行動していたのに射殺されたのは俺一人だったことが、憶測を呼ぶ要因になったのだろう。

 誰が、何故、自分を殺したのか。確定的な情報が、本には何も書かれていない。隅々まで探しても、見つからなかった。

 そうしているうちに、ふと、必死に探している自分がおかしくてたまらなくなってきた。今まではむしろ目を背けていたはずなのに。

 虚無感に満たされながら、俺は本をすべて棚に戻した。

 ふと、革命激化や収束の棚も目に留まったが、顔を背けてしまう。だって、そこに「俺」はいないから。



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