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第十六話 今が良ければすべて良し?


 夜が明け、朝のうちに俺たちはホテルを出た。今日は菊川の運転で始まった。

 県境を越えて山奥へと進む。民家の数は徐々に減り、田畑が目立つようになる。春の花は美しいとのことだが、今はまだ冬。目覚めの時期は当分先だ。

 車が停まる。駐車場の端にはまっすぐ山の頂に向かうように伸びる石段。上がりきると、古く小さいながらも立派な寺と小規模な墓地があった。

 目当ての人物はその中央付近に眠っている。

「いろいろと心配してくれてありがとうな」

 かつての友の名が刻まれた石に向かい、菊川は呼びかける。

 浴野さんの話だと、直線距離は短いもののそれほど行き来しやすいわけでないこの地から、藤堂は何度もやってきてくれたらしい。そういうところは歳をとっても変わらなかったんだな、と他人事のように思う。

 俺は手短に済ませ、石段に座って待っていた。菊川はしばらく墓前から離れなかったが、やがてゆっくりとこちらへ歩いてきて、俺の隣に腰を下ろした。

 春を待つ山はとても静かだった。眼下に広がるのは芽吹く時を待つ大地。その向こうに、くすんだ色をした林が見える。

「……平和だな」

 菊川が呟く。

「ああ」

 一羽の鳥が俺たちの頭上で弧を描き、一声鳴いた。

 残りの時間は、ホテル近くに戻って歴史にまつわる場所を回った。菊川は土地勘があるからと案内してくれたが、革前とは風景が変わっていたりして一度道に迷い、気まずそうに苦笑していた。

 前世で、この地をあえて訪れようと思ったことはない。もちろん、高山田に案内を頼むわけもなく。俺が知るのはあくまでも永喜時代の風景だけ。

 観光らしい観光とは言えないかもしれないが、いい写真はたくさん撮れた。

 全行程を終わらせて乗った帰りの新幹線で、菊川は熟睡していた。何年も寝られなかった分を取り戻そうとするかのような様子で。

 俺は前世絡みの問題が発生したとき、こいつや映果さん……他の人の力が必要だった。でも、今回、俺はただついてきただけだ。菊川は、一人で前世との決別を済ませたようなものではないか。

 俺は自分の未熟さを意識してばかりである。前世の未練を断ち切る儀式を、何度も経てきたはずなのに。

 富士山も過ぎたあたりになって、菊川は目を覚ました。

「鈴森」

 第一声がそれで驚いていると、彼は首を左右に一度ずつ傾けて妙な声を出す。

「なんだ、松井か」

「両方俺だよ」

「鈴森と列車で二人並んで座ってるなんて、罰ゲーム以下だよ。だからお前は松井なんだって」

 何言ってるんだ、こいつ。

「変な夢でもみたのか」

「……秘密」

 彼は携帯を取り出し、いくらかいじったあと乱暴に鞄に放り込む。

「ありがとうな」

「何が」

「もういい」

 意味がわからない。ただ、妙なことを言われても気に障るほどでもないから、やっぱりこいつは菊川なのだろう。俺もそんな訳のわからぬことを思いながら、読んでいた小説に視線を戻そうとしたとき、横から静かな呟きが聞こえてきた。

「前原がさ、この前言ってたんだよ。鈴森が高山田のことを恨んでおきながらそれを許すなんて、信じられなかったって」

 俺は何も言わずに本を閉じる。

 こいつに復讐を考えた夏、確かに俺は鈴森彰寿だった。そんな文言が出る時点で、俺はもう彰寿とは言えないのかもしれない。

 今では、あのときの自分が別人であったように感じる。そんな思いが俺の心の底で、ちりちりと音をたてる。

「結構動揺してたみたいだよ。お前には隠してたようだけど」

 そうだよな、あいつの知る鈴森彰寿はそんな男ではない。生まれ変わった今でもひたすら侮蔑し、恨みつづけたほうが自分でもしっくりくる。

「……それを俺に暴露しちゃいかんだろ」

「あれこれ言われたのは俺も同じだからね。これくらいいいだろう」

 悪戯っぽく笑う彼は、やっぱり俺のよく知る菊川に見えた。

 東京に着くと、あちらの地方とは空気の質がちがうことに気づいた。前世も今も、東京にばかりいるせいであまり意識しなかったが、たいして綺麗でもない故郷の空気に何故か心が安らいだ。

 長い春休み、お互いバイトがあるし、菊川はサークルにも所属している。しばらくは顔を合わせないかもしれない。けれども、感傷的な旅の余韻すらも味わわないような軽さで、俺たちはそれぞれの帰路についた。

 家に帰ると、すぐさま芹花が寄ってきた。こいつがわざわざ出迎えてくれるなんて、生まれて初めてかもしれない。

「菊川さん、どうだった?」

 なるほど。

 そうだ、アピールするとかいう話をすっかり忘れていた。

「まあ、さりげなくしといた。あとは自分でどうにかしなさい」

 今度会ったときに辻褄を合わせておこう。

 本音を言えば、芹花と菊川は……なんというかできれば避けたい組み合わせである。今のままでいい。これ以上濃くしたくない。

 そんな俺の胸の内が伝わったのか、芹花は不満げだ。

「頼むよ? 私じゃそっちの大学入れないし、お兄ちゃんだけが頼りなんだから」

「勉強しなさい、勉強」

 本音を言えば、こいつまで同じ大学なんて勘弁してほしい。

 菊川に選ばせた小物を渡すと、芹花は気持ち悪いほど愛想がよくなった。実はあいつの妹とお揃いなのだが、それは黙っておこう。

「そうだ。お兄ちゃん、軍学校で学園祭みたいなイベントがあったかどうか知ってる? なかなか調べられなくて」

「イベント?」

 芹花が俺に軍学校のことを尋ねてくる理由は、ひとつしか考えられなかった。

「……芹花。どういうつもりで聞いているのかちゃんと説明しなさい」

 ほら、とたんに狼狽えてみせる。

「べべ、別にいいじゃん。お祭りっぽいことが許される行事があるかってことだけわかれば……。えっと、演劇とか……仮装、とか……」

 俺は無言で愚かな妹を見下ろす。兄はお見通しだぞ。

 睨み合いは数分間続いた。観念したのか、芹花は目を合わせずに口をひらいた。

「彰臣が女装して、邦輔がそれにうっかりときめく話をかきたいです」

 俺は無言でその髪を盛大にかき回してやった。

「ちょ、やめてよ!」

「お前は、お前は……!」

「だから言いたくなかったんだよ! バカ!」

 弁慶の泣き所を容赦なく蹴られた。

 こうして兄妹に生まれたのも何かの縁。俺だって、できればこいつに幸せになってもらいたいさ。しかし、そのためには菊川云々でなくまずは腐女子から脱却させなければ。こいつの未来のためにも。



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