第十五話 お子様への思いやりはほどほどに
狭いツインに入るなり、菊川は荷物をそのまま床に投げ捨て、窓際のベッドに倒れこんだ。
「飯、どうする?」
気を遣っていると思わせたくない。不愛想に声をかけると、顔を動かさずに彼は答える。
「食欲ないから、一人で食べてきてもいいよ」
機械的に名物を挙げる菊川。
「そんな食べられんって」
「実を言うと、俺も食べたことない」
お前も来ればいい。その一言を飲み込む。
こういうときは一人にさせたい。俺ならそのほうがありがたい。
「適当に食べてこようと思うけど、ついでにどっかで何か買ってこようか?」
「……いい」
「そうか」
時計を確認する。夕食にはまだ早いか。どう時間を使おうか考えていると、引き止めるように声をかけられる。
「お前、俺の妹は不幸だったと思うか? 彼女の話を聞いてて」
振り向くと、菊川は仰向けのままで、やはりこちらを見ようともしない。
「妹たちと仲違いしてしまったという俺の弟は、不幸に見える?」
俺は無言で目をそらす。笑うような息遣いが室内に響いた。
「あのときもそうだったな。お前は最初、何も言わなかった」
昨年夢にみた、あの冬の日のことを指しているのだろうか。己の祖父と重ねたか、と問う声が耳元で旋回する。
「俺が今罵ってくれと頼んだら、お前はあの日みたいに言ってくれるか?」
ここにいるのは、永喜の世を生きる優男のはずだ。いつもにこにこと人当たりが良く、穏やかで、自分の考えはあまり語らず、一歩先に進んでいるかのような態度をとって、あの夏の日も俺に対して諭すように語りかけてきた――。けれども、今俺の前で寝転がっている男はまさしく、心底憎く思った長身の爬虫類顔の男だった。
「不愉快な思いさせられるのは、あの日で十分だ。お前だってそう思うだろ」
彰寿の声色で返すと、わずかに身じろぎをする。
「今は奉仕精神を持っていないか」
慰霊碑の前でこいつが言ったことを思い出す。
――俺が高山田邦勝のままでも、たぶん言わなかった。前世のお前は嫌いだ。でも、今の俺、菊川咲哉は……今のお前、松井智樹のことそんなに嫌いになれないんだよ。
「今は松井智樹だからな。でも、鈴森彰寿になってやってもいい。お前はどうされたいんだ?」
答えない。俺は空いているほうのベッドに腰掛けた。
「……菊川は、俺よりもずっと未練なく生きていたかと思ってた」
「俺だって、そっちよりはないと思っているよ」
説得力が感じられない。
「さっきの答えだが、妹さんは……」
これで兄弟をすべて失ってしまった。その嘆きは、先端の鈍った針のように俺の心をつつく。
「不幸、ではなかったと思いたい。結婚して子宝にも恵まれて。親兄弟は亡くなって、もしかすると浴野さんにもわからない苦労だってあったかもしれない。けれども、不幸だと断じることは俺にはできない」
彼の弟についてはどうだろう。絶縁してしまったほうの人は、自分の考えを最後まで貫いた。もう一人は……。
「お前が気にしているのは、亡くなった人たちのことか?」
否定はしなかった。
赤く染まった日差しが窓から彼をめがけて降り注ぐ。
「……俺は、国を良くしたい、そうすればみんなを救えるとそう思っていた」
それは、あの銀座で志を折られた平民派の者たちの多くが考えたことだろう。
「俺たちの行動は日本を変えた」
菊川はいつぞやの言葉を持ち出す。革命については半分肯定、半分否定。
「革命のせいで失われたものの存在についてはよく認識している。日本人同士傷つけあって、殺しあって。けれども、革命のおかげで良き変化を遂げたもののほうが、俺は多いと思っている。だから……前に言ったとおり、クーデター隊に加わったことを後悔はしていないんだ。それだけははっきり言っておく」
お前の前でも、と念を押すようにしながら、唇の端が上がる。
「もしもそれを否定すれば、俺は卑怯で、軽薄で、どうしようもない人間になってしまう」
その言葉は、彼なりに「高山田邦勝」という男を守りたいように聞こえた。
後悔しない。確かにそれは高山田らしいと言える。俺の知る高山田邦勝は……きっと、そういう男だ。
「後悔はしないし、何かに流されてそうしてしまう自分がいたら、許せないだろう。ただ、父の自殺と家族の平穏を奪ったことについては、申し訳なく思っている。それは、俺の行動のせいで失われたものだから。妹は……もっと俺を憎むべきだったんだ。鈴森のように」
わずかに言葉に詰まる。
「きっと父は俺に失望する。覚悟はしていた。けれども、あの事実を聞くと苦しくなるものだな。自ら死を……か」
自分は家族を滅ぼしたのだと語るその声はかすかに震えていた。
平民派に与する者と抗う者。高山田家はそのせめぎ合いに押しつぶされた、とも言えるかもしれない。
高山田にとって弱きものとはまず、己の家族ではなかったのだろうか。
革命で……他の多くの弱者が救われた、とは言えるかもしれない。けれども、彼の家族を救っただろうか。
確かに、革命が起きなければ、高山田がクーデター隊に加わらなければ、彼らにはまた別の人生があったかもしれない。
それでも――。
「妹さんと俺を一緒にするなよ」
大事にしていたという写真。純粋な人だった、という言葉。
憎むべきとか、そんなのは彼女に対しても俺に対しても思いやりがない。ただし、高山田という男が俺に対して失礼なのは、今に始まった話ではないが。
苛立ちに似た感情を抑えながら、俺はかつて抱いた疑問をぶつける。
「前に聞いただろうか、何故お前は自ら命を絶った」
「自分なりの正義があった」
「もっと具体的に言え」
「少なくとも、お前を殺した罪の意識に耐えられなかったわけではない、とだけ答えておく」
話していると、世界が歪んでいくような気分になる。まるで、自分が完全に復讐心に縛められた……高山田である彼に殺意を抱いたときに似ている。
今の菊川は、俺の思う菊川ではない。でも、あのときの俺が彰寿であったのとはちがい、彼は高山田でもないように見える。
「なあ、菊川」
無意識に躊躇いを排除して問う。
「お前は、菊川か?」
むくりと起きあがって彼は俺を見つめる。暗い色の瞳が俺を見据えた。そして、悲しげな微笑みが現れる。
「そうだよ」
肯定されてもどこか釈然としない思いが心に渦巻く。
「お前だって、前世の……鈴森の家族のことを引きずっていただろう。俺だって、忘れようと思ったわけではないさ」
彼は彼で、元の家族に愛情を持っていた。それは、以前の会話で理解していた。
「俺は、今の人生を大切にしようと思っている。高山田邦勝の欠点や過ちは自分なりにわかっているさ。かつて自分の犯した失敗の分、この生を大切にしたい。そのために……高山田の家族のことはずっと覚えていようと決めた」
今回の旅で知った事実は、自分を苦しめるものでしかないかもしれない。けれども必要な旅だったと彼は語る。知らなければ己を許せないだろうから、と。
今のお前は自分を……高山田邦勝を許せるか? その答えは既に出ている。だから俺はもう何も言わなかった。
「松井、ありがとうな」
唐突に出た台詞に面食らう。
「何が」
「やっぱり一人じゃなくてよかった」
あの夏の晩、俺は菊川の言葉で彰寿の意識から元に戻れた。けれども、俺はこいつに何ができたのだろう。あの日の彼のように、現世に引き戻す言葉をかけたわけでもない。そんな俺の心理を見透かしたように彼は言う。
「こういうこと吐き出せる相手がいるって大事だよ。たとえそれが、鈴森の生まれ変わりでもな」
俺は瞬きをする。
ああ、やはりこいつのほうが一歩先にいるのだ。理由はないが、そう思った。
「感情のゴミ箱役、ご苦労様」
あえて嫌な言い方をしてくれる。
「なあ、菊川……。もしも前世の記憶がなかったとしたら、お前は今の家族にどう接してた?」
「そうだなあ、もっと姉さんに強気で、妹には素っ気なくて、両親に甘えてたかもな」
俺は、どうだったかな。学校についてはもうすこし自分の好きにしていて……。ああ、でも芹花とどういう関係になったかまったく想像できないや。前世がなければ変人と言われることもなかったかもしれない。芹花も……あんな趣味を持たなかっただろうか。そう思った瞬間、親不孝をしたという罪の意識が急に重くのしかかる。ああ、不孝はせめて鈴森の親で留めておきたい。
そんなことを考えていると、菊川は体勢を変える。
「さっきはあんなこと言ったけど、高山田の家族を悲しませた分とかそういうことは思わないで、ただ菊川咲哉としてあの人たちのことを大切にしたいな」
彼は今の家族について語り出した。姉妹とのちょっとした軋轢、両親が自慢できるような息子でいなくてはという思いなども。
俺と似ているようで違う、彼の人生があった。
相槌を挟む隙もないほど語るだけ語ると、伸びをしながら立ち上がる。
「ああ、今、酒が飲みたくなった」
この間の前原たちとの飲みで気づいたが、こいつはザルだ。高山田のときもこんなものだったのだろうか。
「付き合うぞ」
「お前はジュースでも飲んでおけよ」
先日成人式も済ませた彼は馬鹿にするように笑った。




