第十四話 お前こそいろいろあったもんな
新幹線が目的の駅に到着したのは、日がやや傾きかけた頃。
あちこち動き回る予定なので、現地で車を借りた。まずは俺の運転で、高山田の姪の家を目指すことにした。
「お前は甥っ子、俺は姪っ子か」
助手席から漏れる声。俺の脳裏に浮かぶのは寿基の顔。
「俺たち、独り身のまま死んだからな。隠し子だのなんだのいなければそうなるよな」
少なくとも俺にはいないはずだ。……おそらく。
「俺にも親族が残っていたんだな」
高山田家はもうない。その言葉の重さを、俺が完全に理解できる日はきっと訪れないだろう。俺は何も言わず、カーナビに住所を入力した。
たどり着いた先は、高山田の故郷からそう離れていない、こぢんまりとした民家だった。チャイムを鳴らすと、すぐに一人の女性――俺の両親よりも少しだけ年上だろうか――が出迎えてくれた。
「前原さんのご紹介で参りました、松井と申します」
「菊川と申します」
そう名乗る声は掠れていた。
「浴野です。ようこそ、こんな遠いところまで」
小柄で丸い顔、優しそうな目元の女性。俺の知る高山田の姿とは一致しない。そんな彼女の顔を、菊川は瞬きもろくにせずに見つめていた。かつての家族の面影を探しているように。
「あなたが、高山田邦勝さんの……」
「はい、妹の娘、つまりは姪ですね」
にこりと笑った彼女は俺たちを居間にあげた。そして茶を出して一息つくと、彼女はまず自分のことについて話し始めた。
「小さい頃から伯父の存在については知っていました。革命の礎を築いた人だ、と父親から聞かされていましたから」
けれども彼女の母親は、高山田家との関わりをむやみに口外することを禁じた。不思議に思いつつも、彼女は言うとおりにした。
その意味を理解したのは小学校に上がってしばらく経ってから。この周囲に住まう年長者には、平民派や革命そのものを嫌う人が多いのだと悟った。
「このあたりは他所の土地よりも……国家に牙をむいたことを怒る、反平民派の思想が強くて」
地域によって平民派への感情は異なる。彼女の言うように、この地の歴史を思えばそうなるのも無理はない。別の地方では、むしろ反平民派が息をひそめて暮らさなければならない例も存在した。
そうした事情で、浴野さんは自ら伯父の存在を明かすことなく育った。時折、彼女の母親の素性を知る人間からとやかく言われることもあったようだが、辛いというほどではなかったと語る。
「私にとって、革命は生まれる前の出来事。伯父が死んだのも、それよりずっと昔のことと思っていましたから、言ってくる人がいても実感が薄かったのですね」
「ひどいこと、言われたりは」
菊川の心配するような声色は、伯父としてのものだろうか。浴野さんはにこりとしたまま否定する。
「そもそも、今よりも傷跡が生々しいというか……あえて触れようとする人のほうが少なかったですよ。周囲に恵まれていた、というのもあったかも」
そう苦笑する彼女は、カクハナが人気を博しても母親の言いつけを守り続けた。両親と周囲の人間で墓の世話はしていた。それまではクーデター隊を評価する、限られた人間しか訪れなかったというそこに、若者の姿が目立つようになったという。
「そういう場でも、私は身内ですって言いにくかったんですねえ。不便なところに移してしまったというのにわざわざ来てもらっておきながら、と思いますが」
初めて万葉子ちゃんと会ったときのことを思い出す。こちらの墓でもいろいろあったかもしれない。
彼女は二十代半ばで同県出身の男性と結婚し、夫の転勤についていって長い間東京暮らしをしており、数年前に帰ってきたという。その間に、彼女の母親は亡くなった。
母親自身が嫁いだ人間、浴野さん自身も苗字が変わったことで高山田家との縁は遠くなってしまったが、母親の遺言で今も高山田家の墓を守っているのだという。
そこまで喋るとわずかに休みを挟み、本題に入る。
「邦勝さんが軍学校に上がったとき、母はまだ幼くて、最初は離れるのを嫌がってとても泣いたそうです。周囲がお祝いしてくれている様子を見て、どれだけ名誉なことかわかったと言っていました」
一般に指折りの難関と言われた軍学校。家族は元より故郷の人間さえも彼のことを誇らしく思っていたらしい。
高山田はこの地方の聯隊に属していた。卒業後は、時に家族とも顔を合わせており、彼の弟妹は兄を尊敬していたという。
「そのときは何も変わったことはなかったというんです。突然誰にも言わずに休暇をとって。母も、邦勝さんが東京にいると知ったのは銀座事件が起こったからだったと言っていました」
正座した膝に乗せた菊川の拳が震える。
クーデターは失敗に終わり、高山田は裁判にかけられた。その結果は無期禁固。そして彼は……自ら命を絶った。
「高山田家にもいろいろな人がやってきたそうですよ。ある人は国家に弓引く罪人を出した家は滅ぶべしと怒鳴り込み、ある人はクーデター隊の勇気に感銘を受けたとかばい。邦勝さんの死に方も、無責任だと罵る人、自らの罪を重く受け止めた結果だと称える人とさまざまで」
「ご家族の、皆さんには……多大な苦労が、あったのでしょうか」
つっかえながら問う菊川に、浴野さんは苦笑いになる。
「この近所がすべて反平民派でしたら、きっと母ももっと肩身が狭かったでしょうね。でも、幸い……と言うべきかはわかりませんが、我が家を含めた数軒は平民派寄りでしたから」
高山田の妹は婚家で大事にされた。彼女の夫――浴野さんの父親は立場上表立って平民派を支持できなかったものの、活動家をひそかに匿ったりもしたそうな。もしかすると、縁談自体、高山田家の女性だからこそのものだったかもしれない。
むしろ「大変」だったのは、他の家族だったという。
「私の祖父、つまり母や邦勝さんの父親ですね、その人は同じく自ら死を選びました」
俺の横で、姿勢の崩れる気配があった。
「自死、だったのですか?」
浴野さんは複雑そうな顔で首肯した。
「息子がとんでもないことをしてしまった、先祖にも世間にも申し訳が立たない。そう書き置きがあったそうです」
死因については濁されてしまう。
「もちろん、そんな祖父の死についても他所の方々の意見は大きく割れてしまって。うちの父も、むしろ祖父は愚かだと当時は思っていたそうです」
高山田家は平民として暮らしていた。日本国民が二つの思想に分かれ、混乱極まった世情では、華族の身分を脅かされた鈴森家とはまた異なる、苦しい状況にあったのだろう。
「祖母は病死と聞いております。私が生まれたかどうかの話です」
俺は口を挟む。
「邦勝さんには」
高山田のことをこう呼ぶのは初めてのことだ。
「弟さんが二人いた、と」
穏やかな目がゆっくりと細まる。
「ええ、次男は養子に。ただ、もともとその人は平民派を嫌っていたそうで、我が家とは合わなくて……革中に絶縁したと聞いています」
あそこは平民派に肩入れしていると、彼が周囲の家に漏らすことはなかった。しかし、代わりに自分が別の土地へと移ったのだという。浴野さんの両親には何も知らせずに。
そして数十年後、亡くなったとだけ彼の妻から連絡が来た。葬儀はとうに済ませ、墓の場所も教えられなかったという。浴野さんとしては馴染みのない親戚、彼女の父としてもあまり関心を持ちたがるような話ではなかった。
「母は少し寂しそうで、隠れて泣いているのを見ました。これで兄弟はすべていなくなってしまった、と」
「もう一人、もう一人は」
すがるように菊川。浴野さんは首を傾げながらも、変わらぬ調子で答えてくれる。
「そちらは……革中に亡くなったとだけ。もともと身体が弱くて、邦勝さんが仕送りをしてくれた期間だけはいくらか元気だったそうですけれども」
彼女はそっと溜め息をつく。
「そうですね、もしも邦勝さんが銀座事件に関わらなかったら生きていたかもしれないのに、と言う人もいたようです。でも、私は革後の人間だからかな、それについては邦勝さんが全部の責任を負わなくてもって思いました」
菊川はしばらく黙っていた。姿勢を正し、じっと畳を見つめていた。
「お……お母様は、お兄さんについてなんと仰っていたでしょうか」
そうですね、と浴野さんはわずかに目を伏せる。
「純粋な人じゃったけぇ、思いつめちょったかもしれんね……と言うことならありましたね」
菊川は瞬きをしない。俺は何も言わなかった。
「写真は、何かありますか。銀座以前のものでも、それ以降のものでも」
不意に出た菊川の言葉に、浴野さんは目を丸くする。
「母の遺品整理のときに見ましたが、お見せできるようなものはそんなになかったと思いますよ。探してみますが」
彼女は奥へと引っ込み、しばらく物音を響かせた。そして、古びた箱を携えて戻ってきた。
「ものぐさでごめんなさいね。まとめて持ってきちゃったわ」
蓋を開けると、一人の女性が目に入った。ああ、と菊川は嘆くような声をこぼす。その様子で、この人がかつての彼の妹なのだとわかった。
浴野さんはひょいと分厚い写真の束を持ち上げる。
「叔父の写真ってあんまりないんですよね。まあ、あの時代、今ほどカメラも日常的なものではありませんでしたから」
一枚一枚めくっていく。どれも革後のものらしいが、浴野さん一家の様子はよく窺えた。どうやら彼女自身は父親似らしい。
高山田自身とも似ていない彼の妹は、写真によって老いたり若返ったりしているが、いつも微笑んでいた。
「ああ、これがあったわ」
端がぼろぼろになった一枚を取り出す。
「正装した姿のものを祖父母が望んだらしくて。こんなことに使う金があったら家族の暮らしの足しにしたい、と本人は渋っていたそうですが。写真自体、好きではなかったようです」
軍服の男が一人で写っているものだった。
「母が大事に取ってありました。これが一番男前に見えると私は思うんですけど、母はずっと出そうとしませんでしたね。実は、出回っている伯父の写真、私はあまり好きじゃないんですよ」
大事に取っていた――その言葉に、兄を思い出す。あの病室で、俺もかつての自分の写真を目にした。
彼の妹もあの人と同じだったのだろうか。
懐かしい、と呟いた菊川の声は、卓を挟んで向こうにいた浴野さんまでは届かなかったようだ。
彼女は、きっと自分の子供には高山田家の墓の世話を託さない、と言った。それでよいと返すように、菊川はわずかに頷いた。
そして彼女の案内で、俺たちは高山田家の墓を訪れた。人目を避けるように木々に囲まれた墓地の隅にそれはあった。数日前に誰かが訪れたと思しき跡が見られたが、浴野さんは何も言わなかった。
俺たちは墓前に手を合わせる。高山田の魂はすぐ横に存在する。念じるのは、彼の家族のことだけ。
礼を十分に言って、俺たちは浴野さんと別れた。帰りも俺の運転で、予約してあったホテルを目指す。
会話はなく空気は重かったが、俺は静かな心でハンドルを握った。
同じ姓を持つ家は残っているようだが、彼にとっての高山田家はなくなってしまった。血はこうして受け継がれていっているだけで。
そんな彼と、自分を比べてしまう。
いつか、帰る家がなくなってしまったと嘆いたことがあった。もうあの家には戻れないと。他人の家になってしまったと。
どちらの悲しみが大きいかなど、馬鹿らしいことだ。俺の悲しみは俺だけのもの、彼の悲しみは彼だけのものだ。
お前のほうが吹っ切れていない。前原はそう言った。
高山田、お前はこれもすべて覚悟のうえだったのか。
何も尋ねることができないまま、まだ冷たい空気を切り裂くようにして鉄の塊を走らせた。




