第八話 すみませんがお邪魔します
寝不足を自覚しながら、祝日の晴天を仰ぐ。
「ね、何回溜め息つけば気が済むの?」
芹花の呆れた声も何度目だろうか。
「行くのは万葉子さんちだよ? あの彰寿の実家だよ? もっと嬉しそうにしなよ」
万葉子ちゃんから招待を受けたのは数日前のこと。寿貞兄上が亡くなった鈴森家もやや落ち着いたとのことで、ぜひ一度来てくれと誘われたのだ。
芹花一人ならともかく、俺が行くなんて不自然ではないか。
遠慮したものの、この数ヶ月で彼女とかなり仲良くなってしまった芹花が朝から晩まで騒ぐ。とうとう耐え切れずに了承してしまい、今に至る。
現在の鈴森邸は、高輪からずいぶん離れたところにある。革後に移ったという情報しか知らない。……もうそこは俺にとっての実家ではないのだ。
軍学校に入って以来、帰るたびに何かしらの変化があった鈴森の家。それをどこか微笑ましく思っていたあの日ももう遠い。
もはや彰寿を直接知る人はほとんどいない。本当に、他所の家も同然なのだ。
今は正寧のものなど何も残っていないかもしれない。すべてが変わってしまった現実を目の当たりにして動揺せずにいられるか悩んでしまう。
いや、きっと大丈夫。未練を抱かないでおこう、とあの葬儀で決意したじゃないか。
妹の友達の家に招かれただけ。そう自分に言い聞かせながら、芹花に引きずられるままに歩いた。
「はぁ~、菊川さんもいればなあ」
残念ながら、やつは故郷で催されている式典に出席中だ。明後日まで帰ってこないから、レポートを代理で提出しておくよう頼まれている。
指定された場所に到着すると、既に万葉子ちゃんを乗せた車が待機していた。彼女が我が家に来るときはタクシーや電車を利用しているが、やはり運転手を雇っているらしい。
「うちの学校は車通学禁止ですからね」
基本的には彼女も一般人と同様に通学しており、彼女たちの学校に在籍しているお嬢様方も公共交通機関に慣れている人は多いようだ。
「人がついていなくて大丈夫なんですか?」
「ええ。駅とかある程度のところまでは送ってもらっていますし、日によってはこっそり迎えにきてもらうこともありますけど」
ふと浮かんだ疑問が、考える間もなくそのまま出てしまう。
「槙村さんのお宅も?」
万葉子ちゃんの表情に光が加わる。俺が映果さんに興味を示したのが嬉しいと言わんばかりに。
「はい、私とほぼ同じですね。中学までは習い事が多くて、あの子のほうが車使うこと多かったかも。そのせいか、高校に入ってからは電車でお出かけするのが好きになっちゃって」
一番の趣味であるお散歩は意外にも最近、自由な時間が増えてからのものらしい。亮様の記憶を取り戻したのも中学二年かそこらだったし、そんなものかもしれない。
俺から映果さんの話を振られたのが嬉しかったのか、万葉子ちゃんは上機嫌だ。
「映果はもう着いていると思います。母も私よりあの子のこと信頼していて、半分家族のようなものなんです」
実は彼女の前世、君の遠い親戚だよ。一応。
芹花と万葉子ちゃんの二人は、映果さんの部活の話などを始める。かっこいいから一度発表会を見てほしいとか。さすがにそこは俺にはハードルが高すぎる。そこにいるのってたいてい女子高生とその身内だろ?
映果さん情報を聞き流しているうちに車は停まる。どうやら到着したようで、立派な門が窓の外にあった。
降りて眺める鈴森の屋敷は、現代的なものだった。高輪の家よりもやや小さく、庭も狭い。
万葉子ちゃんに続いて門を通り抜けたところで、立ち止まってしまう。
そこに植わっていたのは柿の木。いつか登ったものよりもずっと細い。
「柿……」
俺の呟きに万葉子ちゃんは目を瞠る。
「そういえば、あの日もお兄さん仰ってましたね」
「あ、まあ……」
「我が家にとって大事な木なんです。でも、どこの資料にも書いてないようなことだから……あの日は、驚きました」
どうしてそんなことまで。そう呟いた彼女を思い出す。自分の家の、多くの他人にはどうでもいいような些細な情報を知っている俺は、さぞや不気味な存在に見えただろう。
「ああ、例の? お兄ちゃん、どこで知ったの? ストーカーっぽいよ」
「……忘れたよ」
万葉子ちゃんは一瞬首を傾げながらも、俺たちを奥へと導いた。
高輪の家と比べると控えめになっただけで、個人の住宅としては広くて大きい。玄関だって松井の家の何倍もある。
「どうぞおあがりになって」
上品に微笑むのは、病院で顔を合わせた万葉子ちゃんの母親だ。
「お邪魔します」
会釈して靴を脱いだ。
廊下を歩きながら、寿貞兄上の話になった。今でもその死を悼んだ客が時折やってくるのだという。
万葉子ちゃんの言った通り、映果さんは先に到着していて、既に応接間にて寛いでいた。
「こんにちは、槙村さん」
名字で呼びかけるほうがなんだか不自然に思えるのだから、慣れとは恐ろしいものである。最初に三人でのお茶会を催したときは妙な気分になって仕方なかったというのに。
「こんにちは」
本性などまるで見せずに優雅に微笑むお嬢様。中身が亮様であるのが惜しいところだ。
万葉子ちゃんは嬉しそうな表情を浮かべる。
「いつもそちらのお宅にお邪魔してばかりだったから、今日はお招きできてよかったです」
室内の調度品には新しいものが多かったが、正寧時代の頃と趣はさほど離れていない。
自分の記憶と重なるものを探しながらお茶を頂いたあとは、書斎に案内された。俺と芹花の部屋を合わせたくらいの面積の部屋の壁にはさまざまな書籍が並ぶ。きちんと管理されているようで、古い本も傷みが少ない。
「お兄さん、もしも持ち帰って読みたいものがあったら仰ってくださいね。お貸ししますから」
「そんな、悪いし」
「遠慮なさらないでください!」
そんなに映果さんを応援したいのか。この誤解、今後どうすればよいのやら。寿貞兄上のときに利用してしまったからなあ。
苦笑いを浮かべながら棚を眺めていると、隅に俺が彰寿として存命だった時代に所有していた本を見つけた。呼吸を止めて凝視する。
そうだ、小さい頃に好きな本を尋ねられてこの題名を挙げたら、不思議な顔をされた。永喜生まれの小学生が読むものではない。
懐かしさが俺の腕を押し上げ、指を伸ばさせる。
「あ!」
それを見事に壊してくれたのは芹花の叫び。
「ま、まままま、万葉子さん……これ……」
その手にあったのは、カクハナの一巻。表紙をめくったところに、行書で作者名が記されている。サイン本か。
「そうなの。献本で頂いたみたい」
万葉子ちゃんは別の巻を取り出す。その表紙には、彰寿――じゃない、彰臣の姿も描かれていた。
「今でも根強い人気で……」
見つめる万葉子ちゃんの瞳が、黒く染まっていくように見えた。芹花、今すぐ戻せ。
だがしかし、俺の念は届かないようで、今までカクハナのカの字も出さなかったはずの芹花は、動揺を露わにしてそれを見つめている。
「初版だぁ……」
ああ、なるほど。芹花がカクハナにはまったのはここ数年のこと。生まれる前に連載が始まったこの作品の第一巻初版に遭遇した経験はないのだろう。
「芹花さん、それ好きなの? 全然知らなかった」
万葉子ちゃんの問いに、さすがの我が妹も夢の世界から返ってきた。
「あ、うん、や、えっと、ね、お兄ちゃんの、その……私、難しい本わからなくて、えーっと、うーん」
完全に固まる。
「鈴森彰寿目当てだって周りから思われるのが嫌だったんだよな? 万葉子さんと仲いいだけなのに」
フォローとしては安直すぎただろうか。自分でも心配になったが、万葉子ちゃんは目を輝かせた。
「そうなの? 早く言ってくれてもよかったのに。この漫画自体はね、私も……嫌いじゃないの」
芹花の身体から少し力が抜ける。
どうやらこの腐女子にひとつ恩を売れたらしい。万葉子ちゃんが素直な性格で本当によかった。前世の俺と同じ気質ならば、きっと言葉の裏を推測しつつ鼻で笑っていたことだろう。
万葉子ちゃんは芹花のためにカクハナ知識をいろいろと提供してくれた。
俺が偏見の目で見ていたこの漫画の作者は大変真面目な人物のようだ。自分で研究するのはもちろん、編集を通して前原に監修を依頼し、さらに彼の助けを借りて登場人物のモデルになっている各人関係者へ伺いを立てたうえで執筆したのだという。
鈴森家にも、前原に伴われて挨拶しにきたようだ。もちろん万葉子ちゃんも生まれていない頃の話なので伝聞だが。
「なかには、ご本人も亡くなってご家族ともなかなか連絡がとれなくて苦労した方もいると聞いてます」
高山田のことを言っているのだろうか。
人気の漫画雑誌に掲載されたそれが意外にも若い女子たちに人気を博し、一部で革命ジャンルというものが築かれることになるとは、作者側も予想外だったそうだ。
そこから先は万葉子ちゃんの表情を見るに聞いてはいけないような気がして、適当に別の話題を振って切り抜けた。
前原は自分の著書をすべて献本しているらしく、発行部数が少なくて手に入りにくいものも鈴森家は所有している。また、個人で革命時代を研究している人間による、俺の名が出てくる自費出版本もいくつかあった。軍博が所蔵していない書籍については、借りられるなら確かにありがたい。後世の人間による鈴森彰寿考察に関しては、複雑な思いがまだ存在するが。
万葉子ちゃんは前原に可愛がられているようで、こちらが思ったよりも革命関連の知識を持っている。彰寿の話はなるべく避けつつ、いろいろ聞くことができた。
「前原の小父様ってお呼びしているのですが、あの方のお話は面白くて、つい聞いてしまうんです」
「あ、わかる。聞く相手のことを考えて話してくれるって感じだよね」
腐女子であること以外はかなりオープンになってしまった芹花が頷く横で、俺は前原がこの素直な女の子に妙なことを吹き込んでいたらと冷や汗をかいた。
そのとき、突然ノック音が響いた。
「こんにちは、いらっしゃい」
扉から顔を覗かせてきたのは寿基だった。
彼の自宅でもあるのだから意外でもなんでもないのだが、ここでやってくると思わなかったのでつい固まってしまう。
「お邪魔してます」
映果さんの言葉を聞き、兄妹そろって立ち上がって頭を下げる。
「初めていらっしゃるお友達と聞いて、親馬鹿ですがご挨拶に」
照れるような表情。彼にとって万葉子ちゃんは四十半ばになってから生まれた娘だ。可愛くてしかたがないのだろう。
「万葉子さんと同じクラスの松井芹花です。今日は兄も連れて押し掛けてしまいました」
そこで寿基の視線が俺に向く。続いて挨拶しようとする前に、万葉子ちゃんが口を開く。
「お父様、こちらが前にお話しした芹花さんのお兄さん。昔、霊園でお会いした……」
娘の言葉に、彼は首を傾げながら俺の顔を見上げる。全体の容姿は兄寄りなのに、里津子さんの面差しが一瞬だけ重なる。
「ああ、そうか。本当に大きくなりましたね」
「その節は……ありがとうございました」
「妹さんが万葉子と友達になるなんてね。不思議な縁だ」
万葉子ちゃんから、俺が革命時代を学びに史学科に進んだこと、当時の鈴森家の話を聞こうとあの日病室を訪れていたことは伝わっているらしい。
「ずいぶん気を遣ってくれたようで、私からもお礼を言います。葬儀にも来てくださったのに何もご挨拶できずに失礼しました」
「いえ、むしろ大変なときに訪ねてしまって、こちらこそお詫びします」
寿基が自分より年上で、俺がこの子に他人行儀な言葉を使ってるなんて、やっぱり違和感があるな。
「とんでもない、偶然なのですから。父とは、何か話ができましたでしょうか」
躊躇いもあったが、頷いてしまう。
「……はい」
「そうでしたか。父は、昔の話をするのが好きだったので」
一度言葉を切った寿基は目を細める。
「最期に楽しい思いができたのなら、と思います」
あの日の笑顔は、俺が彰寿であるとわかったからこそ。そう信じたい。
「聞きたかったのは、叔父の――彰寿のことでしょう?」
「ええ、まあ……」
「あの頃か、懐かしいね。私はまだ小さかったけれども、よく覚えているよ」
彼はちょうど傍らにあった前原の著書を手に取る。
「子供ながらに綺麗な人だと思っていたなあ。私が遊んでとせがんだら、ぎこちないながらもちょっとだけ相手をしてくれたねえ。だから、世間で性格悪かったと言われていて、後で驚いたさ」
菊川がいたら、吹き出してたかな。
「私にとっては優しい叔父さんだったんだけどな」
言いながら、彼はわずかに瞳を動かす。
「……妙なことを言ってもいいでしょうか」
「え?」
「君はどこか叔父に似ていると、感じました」
万葉子ちゃんは目を丸くしながら、父親と俺を見比べる。映果さんも意外そうな様子だ。芹花に至っては、青い顔でひょっとこフェイスになっている。
似ている、とは。
俺自身、前世とは似ても似つかない、そう思いつづけてきた。それなのに、彼は何を言うんだ。
「もちろん、叔父はもっと小柄で、姿かたちはまったく違います。ただ、立ち方がそっくりなんです。君は姿勢が綺麗だから。最初にあそこで会ったとき、夕方で逆光だったでしょう。一瞬、叔父が出てきたのかと思いました」
まだ身長が伸びる前だったか。ちょうど彰寿と同じくらいの背丈だったかもしれない。
すぐに反応できずにいると、かつての甥は苦笑した。
「すみませんね。こんなこと言われてもね」
「いえ……」
「でも、叔父も美しい姿勢だったのは本当ですよ。今の時代大きな声では言えませんが、あの頃は私も軍人さんに憧れてました」
「あの、不躾でごめんなさい、もう少しだけ……当時の話を聞かせていただけないでしょうか」
我慢できなくなったのか、芹花が口を開く。寿基はいくつか小話を始めたものの、娘の友人相手に出しゃばりすぎたのが恥ずかしくなったのか、切りのいいところで終わらせて出て行った。
生の彰寿を知る人間から話を聞けた芹花はとろけそうな顔になるが、慌てて表情を引き締めて姿勢を正す。
「勉強になったわ。出しゃばってごめんね、万葉子さん」
「ううん。祖父が昔話好きだったのだけど、父もここまで喋るなんて」
万葉子ちゃんは鈴森の母そっくりの上品な仕草で苦笑する。
「芹花さんのところって本当に兄妹仲がいいのね」
思いもよらぬ言葉に、ひょっとこ第二弾が披露された。
「私も兄とは仲いいけど、兄に影響を受けて何か始めたとか、そういう経験ないから」
どうやら俺を慕って革命に興味を持ったと思っているようだ。芹花の顔が痙攣する横で、映果さんはやはりニヤリと笑ってその様子を眺めていた。
夕方になったあたりで、俺たちはお暇することにした。万葉子ちゃんは断続的な映果さん推しトークも、なんとかかわしきった。
自分の家の車を待つ映果さんを残し、送りの車も辞退して、俺たちは鈴森邸を後にした。
いつぞやと同じく一度振り返る。庭の柿の木が見送るように揺れていた。
その向こうにあるのは、俺の知る鈴森家ではない。一人もいなくなってしまった親兄弟、他人となってしまった甥とその家族。けれども悲哀はなかった。
それは、鈴森彰寿の念から解放された証だろうか。
帰る家を失ってしまったと絶望した中一の自分がやけに懐かしく思えた。
俺の口元が緩むと同時に、芹花が頭を抱える。
「まずい、まずいよ~」
「なんだよ」
「すっごく罪悪感。貴重な話聞けたけど、万葉子さんがあまりにも純粋すぎて、邦彰妄想すると胸が痛む」
……こいつは。
「これを機に足を洗え。友情をとるんだ」
「私だって漫画もアニメもいろいろ見るよ。でも、やっぱり邦彰ほど萌えるものに出会えないんだよ」
よろよろと見知らぬお宅の塀に寄って、そっと息を漏らす妹。その背だけを見れば、道ならぬ恋に苦悩する乙女に見えなくもない。
今、前世と現世の間で苦しむ俺にとって何より感動的な瞬間を、あっけなく逃した気がする。
ああ、まだ彰寿の影は俺にまとわりつくのだろう。捏造恋愛妄想に勤しむ馬鹿娘に抱くこの苛立ちは、決して他人としてのものではないのだから。




