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第五話 死者の棘は抜けにくい


 ある秋の、学校の帰り道。寄った本屋に平積みされていたそれに、たまたま目を留めた。現代の各メーカーの万年筆を集めたカタログだ。

 文具は、彰寿が好んで収集していたものだった。

 この永喜時代では、正寧以上に万年筆を所持している人間が少ない印象を受け、不思議に思っていた。けれども、やっぱりまだ根強い人気があるというなら嬉しい。

 そのため、つい、革前時代の資料本と一緒にレジに持って行ってしまった。

 本自体はよく買う。学費も浮いたし私立は人付き合いもお金がかかるからと、小遣いは多めにもらってしまっている。

 ただ、友達はさほど多くない。正直、一人のほうが落ちつく。

 まあ、面倒見がいい三崎などが気にかけてくれるし、団体行動に不自由を感じることもない。話の流れで委員など引き受けてしまっているが、問題なくやれている。

 ただ、松井智樹は永喜に生まれた人間だが、正寧時代の若者だった彰寿の感覚がまだ残っている。

 正寧時代は、戦も軍も今よりも身近な存在で、緊張感があった。国に忠誠を誓うのは当たり前だった。まだ欧州や米国に遅れている面はあり、彼らを目標にして人々は日夜発展のための努力をしていた。

 その後、革命で帝と帝に近い方々以外の身分は平等となり、軍は解体された。戦うな、国に過剰な思いを抱くな、と熱心に唱える教師や評論家も目立つ。そのうえ、永喜の世は文明も正寧時代には想像もできなかったほど発達して、とても豊かだ。

 どちらが優れているとかではない、時代そのものが違うのだ。彰寿の記憶を取り戻した当初は、「今どきの者は」などと鼻息荒く思ってもいたが、今はそう思わない。時が流れて、正寧初期と永喜の事情が変化したのだと理解した。

 とは言え、やはりどうも周囲とのギャップを感じてしまい、深く付き合うのにまだ気が引けてしまう。誰かと遊ぶよりも、彰寿がかつて生きた正寧初期の本を一人で眺めるほうがずっと気楽だった。

 そうして歴史本を買い漁ってばかりいたから、こういった現代の趣味本を手に取ることもほとんどなかった。

 家に帰ってめくってみれば、さまざまな品の写真や紹介文に心が躍った。

 不思議だ。生まれ変わっても、こうして好きだという感情が残っているのだから。

「お兄ちゃん、そんなの読んで何が楽しいの?」

 プチケーキを食べ終わり、残りの茶を飲みながらリビングでカタログを広げていると、芹花は呆れた声を出す。

 松井家では、夕食後にお茶会が行われるのが常だ。俺たちは、母さんの手作りお菓子をありがたく食さなければならない。その多くが母さんの勤め先で作った余りものだが、商売用なのでなかなか美味い。

 文具と同じく、甘いものも昔から好きだった。幼い時分は、鈴森の母にたびたび食べさせてもらっていた。義姉にあたる里津子さんが嫁いできてからは、学校で習ったという西洋菓子をよく出された。常に感想を求められて、お世辞を言うと怒られた。

 松井の母さんの作る菓子も洋菓子ばかりだが、里津子さんの作るものと時代の差を感じる。「美味しい」の一言で、鼻歌まじりにくるくる踊り出すほど上機嫌になるのは、こちらとしても嬉しい。

 俺と同じく甘いもの好きの芹花も、綺麗に平らげていた。そして、席を立って俺の背後から覗きこみ、眉をひそめる。

「おじさんっぽいね。ま、革オタだし」

 この良さがわからないとは、可哀想なやつだ。現代の女の子なら、こんなもんかもしれないけれど。

 ふと、彰寿だった頃の記憶が蘇り、胸が痛んだ。かつて、たった一人、女性で同じ趣味を語れる相手がいた。

「芹ちゃん、智くん困ってるよ」

 母さんの言葉に、芹花は口をとがらす。俺はなるべく平坦な声で口を挟んだ。

「別に、困ってないよ」

 ちょっと昔を思い出しただけだ。

「ただいまー」

「あ、お父さんだ!」

 母さんが嬉しそうな顔でパタパタと玄関まで走っていく。この人は子供だけでなく夫も大好きなのだ。犬の尻尾が似合いそうだな、といつも思う。

「お帰りなさい、ご飯よそうから待っててね」

「うん、お願い」

 しばらくして父さんがリビングに入ってきた。芹花に迎えられると、嬉しそうに目を細めた。

「おかえりなさい」

 俺が雑誌から顔を上げると、父さんは不思議そうな顔をした。

「ん、智樹。そういう本読んでるの珍しいな」

「まあね」

 父さんはダイニングに行かず、こっちに寄ってくる。

「万年筆、好きなのか?」

 好き……というか、好きだった。

「いつも頑張ってるからな、欲しいのがあったら一本買ってやるぞ」

「えー、お兄ちゃんばっかり」

 芹花が頬をふくらませる。

 俺はとっさに首を横に振った。

「いいよ、別に」

「そんなこと言わずにさ」

 現代にもいろんな種類の商品がある。欲しいものがまったくないと言ったら嘘になる。

 けれども、そういうのはとにかく値段が高い。中学生どころか社会人になっても手を出しにくいものもごろごろある。

 ああ、彰寿はこんなこと考えなかったな。金銭には余裕があったし、人からもらうことも多かった。

 でも、それは松井智樹の環境ではない。

「見てるだけでいいんだ。ちょっと革前の話が載ってただけだし」

「そうか」

 父さんはダイニングの席についた。母さんは大げさな擬音を口にしながら、キッチンから料理を運んでくる。楽しそうで何よりだ。

 俺と一緒にリビングに残った芹花は、ふてくされながら俺の耳元で囁くように言う。

「あーあ、いいな、お兄ちゃんは。お勉強頑張ってるもんね」

 中学に上がった芹花は、ますます生意気になった。俺のことを知っている小学校の教師からいろいろ言われたようで、小学校高学年あたりから態度が悪くなる一方だった。それに関しては若干申し訳ないとは思っているけれども。

 加えて、中学での成績が本人にとって納得のいかないものだったらしく、すっかり拗ねてしまっていた。松井の両親は子供の成績が良ければ喜ぶだけで、悪かったとしてもまったく怒らないのだが、芹花本人が自分に腹を立てているようだ。

「勉強ならまた教えるけど」

「いい。私、頭悪いし。お兄ちゃんがいれば、お父さんとお母さんはそれで満足でしょ」

 あ、妬いているのか。そんなこと思う必要なんてないというのに。

「いいじゃん、ちょっとくらい成績悪くても。お前は父さんと母さんの子なんだから」

 芹花は面食らったように、何度か瞬きをする。しまった、まるでこれじゃ俺が養子みたいに聞こえはしないか。

 どう取り繕うか考える間もなく、芹花は俺の隣に腰掛けて、再び本を見やる。

「革前ってそんなにいいの?」

 正寧という言葉が、俺をどれだけ感傷的にさせるのか、こいつは知らない。

「ああ、いいよ」

 夢のような時代だった。ずっとあの時代にいたかった。

 芹花のその後の反応なんて無視して、俺はカタログに視線を戻す。

 そこには、銀座の万年筆専門店が紹介されていた。

 銀座――。

 彰寿の生前は、よくあのあたりに足を運んでいた。常連となった店もあった。

 そして、彰寿が最期を迎えた土地でもある。

 ふと、あの日撃たれたあたりが疼く気がした。

 智樹としてあそこに赴いたことはない。心の隅に追いやって、その存在を忘れようとした。

 俺は乱暴に本を閉じる。その音にびっくりして、父さんと芹花が一瞬飛び跳ねた。

「ごめん、もう上に行く。母さん、ごちそうさま」

 駆け足で階段を上り、自分の部屋に戻った俺は、本棚を見る。

 その中身のほとんどが、革命前に関する書籍ばかりだ。革命以後のものはほとんどない。

 革オタって言われても、革命のど真ん中はむしろ、俺の知識からぽっかりと抜けている。授業でやった範囲のことしかまともに知らない。

 いまだに俺は、自分が関われなかった激動の時代や、そのあとの歴史研究書をまともに直視できないでいた。

 避けているのだ。臆病だと自分でも思う。

 何の名誉も得られぬまま、何の貢献もできぬまま死んだ事実から目を逸らしたい。

 彰寿は自分を取り巻くあらゆるものが好きだった。他人になってみて、それがよくわかる。

 厳しい父に優しい母、人格者の長兄とその妻子、洒落者の次兄。

 従兄のあきら様は、大っぴらに言えなかったが、少々苦手だった。こちらが立場上逆らえないのを承知でからかってきたから。けれども、あの人と繋がりがあること自体は誇らしく思っていた。本当に、迷惑かけられたゆえに苦手だっただけで。

 女寄りとはいえ誰もが感嘆した容姿、勝ち取った地位、結果を出せる能力。

 小柄な体躯と高山田と同期であったこと以外のすべてが愛おしいものだった。不遜で傲慢な己の性格すらも。

 だからこそ、あの終わり方を許せないでいる。

 歴史家にとって、自分はどれほどの価値を持っているのか。愚かしい人間だと嘲笑していないか、見下げていないか。

 鈴森彰寿という男は自信に充ち溢れていた。生まれ変わってこんな思いをすることになるなんて想像もせずに。

 本の中でかつての同期を名を見つけると妬ましかった。あのとき死ななかったら、鈴森彰寿という男はあの聯隊でどれだけの功績をあげられたのか、と想像した。

 そして、そんな自分が惨めなのだ。

 ――都合のいいものしか見ぬこいつが何に苦しんでいるという。

 静かな室内に、高山田の言葉が響くようだった。

 うるさい、うるさい、うるさい、うるさい。

 あのときはどうとも思わなかった言葉に、何故今さら傷つかねばならない。

 けれども、俺は現実から目を逸らしつづけているのは事実だ。不甲斐ない己を厭うなら、下らない意地や自尊心を捨てるべきだ。

 逃げない、逃げてはいけない。

 それはわかってる。けれども、どうしてこんなにも弱気になってしまうのだろう。

 あの頃、どんな風に生きていたんだっけ。彰寿は、どう自分を保っていただろうか。

 彰寿の意識が、輪郭をどんどんぼかしていきながら、俺の心の中をさまよった。




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