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第七話 望郷の念を封ず



 弟の俺から見ても、次兄は見目好い人であった。兄弟でも特に美貌だの何だの言われる俺は完全に母親似で女性に近い顔立ち。対して、この洒落者には男性的な美しさがあった。己も同じように生まれたかったと羨むほどに。

「本当に誰も来ないのか? 今日も、もし遭遇してしまったらと心配していたのだが」

 軍学校では、条件を満たせば家族の面会が許可される。とりわけあの過保護な母が末息子に会いに来ぬなど想像もつかなかったのだろう。父に固く禁じられていると告げると、寿史兄は眉を動かしつつ笑う。

「親父殿らしい」

 その言葉の裏にある感情の推測は止しておこう。

「お前は寂しくないのかい?」

「どなた譲りの無鉄砲なのかは判らぬ兄上がこうして会いにきてくれましたからね」

 感情を込めずに告げる俺の短く刈った頭を、形のよい手が風のごとく一度だけ撫ぜた。

「母上がご覧になれば、きっと失神してしまうにちがいない。お前には似合わぬ頭だ」

「規則でありますゆえ」

 華族どころか高貴な方々さえもここでは一様に頭を丸くしなければならぬ。

 もしもこの兄が父の意に沿うていたならば、同じ頭をしていただろう。まったく想像つかぬものだが。

 恐らく、男ばかり何百人もの人間が同じ規律のもと同じ生活をするこの学び舎においても、彼は目立ったのではあるまいか。無駄な仮定ではあるが、髪を刈った次兄の姿を想像するとつい笑いが唇をつく。

「なんだ」

「いいえ。まさか、こちらに入って最初に対面する家族があなただとは夢にも思わずにおりましたよ」

 鈴森の家を出て学校の寮に移り早数月。父とも母とも長兄ともまったく顔を合わせていない。末子で母に溺愛されて育った俺に里心をつかせぬようにとの父の考えゆえに。

 母はやはり気にかかるのだろう、しきりに父に訴えていたようだが、夫には逆らえぬ人だ。しかも実父の伯爵にまで釘をさされてしまったのだから、従うほかない。

 俺としては、信用ならぬと言われているようで、いささか不満だった。甘やかされて育ったとはいえ、己の負った役目に忠実に生きると心に決めている。父母や兄の顔を見ただけで家を恋しく思うわけがない。

 現に、と俺は寿史兄を見て、思考をやめる。この人はもう鈴森の人間ではなかった。

 しばらく欧州にいたという、少々日に焼けた肌の次兄は、船旅の楽しさを語ってくれた。

 いかなる用件であったかは掴めぬまま、寿史兄は去って行った。互いに息災であることを確かめ合ったあとは、他愛もない話ばかりしただけであった。しかし、そのようなところがあの人らしいと思った。

 己の身代わりになってしまったとも言える弟を気がかりに思っていたかもしれない。そう思い至ったのは、その背が大分小さくなってしまってからであった。

 その後もあの人は時折俺を訪ねてきた。仕事で渡航することも多かったため頻繁ではなかったけれども、俺にとって最も顔を合わせる機会の多い身内となった。

 あの日も寿史兄は俺のもとへとやってきた。

「土産をやれないのは残念だな」

 次兄は四半世紀を生きたと思えぬほど幼い不満を頬に表す。誰かへ贈る品を選ぶことがこの人の楽しみのひとつなのだ。

「規則でありますゆえ」

 お決まりの口上を述べてやると破願する。

「お前は、その言葉を放つときが最も嬉しそうだ」

「私に構わずともよろしいのですよ。贈り物に頭を悩ませ、帰国のたびに足しげく通っている先が弟の学び舎など、虚しゅうございますからね」

 こいつ、と拳を頭に当てられる。短い髪がざらりと音を立てた。

「先日父上が珍しくおいでになりました。そのうち鉢合わせるやもしれませぬ。これからは女人のもとにお通いくださいまし」

「もう、とうに行っている。お前はおまけだ、不肖の愚弟よ」

 生意気な言葉遣いは誰に似たのやら。そう嘆く次兄に、あなたに似たのだと返すと、大げさに肩を落としてみせる。

「俺がお前と同じ年だった頃はもう少し可愛げがあったぞ」

 その時期にはとっくに鈴森の家を出ていたというのに、よくもまあ抜け抜けと。

「性根の分、容貌に可愛げが回ったようでありますね」

 整った顔が愉快そうに歪む。

「困った弟だ。母上の胎には思いやりが残っていなかったらしい。俺は二番目でよかったと心底思うよ」

「残っていたのがこの容姿とこの才ならば、三番目に生まれた我が幸運に感謝しますね、俺は」

 本性を晒しながら告げると、苦笑されるばかりであった。

「卒業したら多少は自由になるのだろう。その暁にはいろいろと世間のことを教えてやる」

「上官方が世話してくださいますからお構いなく」

「お堅い軍人さんにはわからぬことだよ」

 西洋人のように片目を瞑り、次兄はいつものように颯爽と去って行った。

 見送りを終えて踵を返すと、爬虫類のような顔が目に入る。

 高山田邦勝。どうも彼が側にいると落ち着かない。

 はじめは同期として親しく言葉を交わせていたはずだ。けれども、そのうち彼の視線に敵意が混じるようになり、俺との間に溝ができてしまった。

「今のは」

「ああ、下の兄だ」

 彼は兄の向かった方角を見やる。

「頻繁にやってくるのか」

 彼が俺自身について尋ねてくることが珍しく思えた。まださほど関係が悪くなかったときならばともかく、こうして反りが合わぬと感ずるようになってからは、自分のことを直接語る機会も殆どなかった。

「いや、あの人は欧州との行き来が盛んで、日本にいる時間のほうが少ない。東京に帰ってきたときに、気まぐれに会いにくるだけさ」

「そうか」

 そういえば、彼の郷里は遠いのだったか。

「そちらの――」

 言い終えるより先に後悔が生じた。同時に、彼のぎょろついた目が視線を刃に転じさせて俺に切りかかってくる。

「俺の家の者は年中国内にいるが、あいにく遠くてな」

 それ以上語る必要はなかった。俺も彼の言葉の意味を察したから。

 高山田は静かに遠ざかっていく――寿史兄とは真逆の方角へと。二人の間に立つ形になった俺は、ほうと息を吐いた。


 

 それが俺の初夢だった。久しぶりに正寧の夢を見たのが一月一日から二日にかけてっていうのは縁起がいいのだか悪いのだか。

 さまざまな感情に浸ろうと、時間が止まってくれるわけではない。あっという間に年は明けてしまった。

 去年は本当に濃い一年だった。受験が終わって、入った大学で菊川と出会い、彼が高山田の生まれ変わりだと知って衝撃を受けた。これぞ俺の転生の理由だと信じて殺そうとしたが未遂に終わり、妙な友情が今も続いてしまっている。

 秋には、万葉子ちゃんとの再会も大きかったが、なんといっても映果さんが亮様の生まれ変わりという高山田並みの爆弾が投下された。しかも、その亮様が、俺がまったく想像していなかった感情を抱えていたと知らされて。

 そして、彼女たちのおかげで、ずっと会いたかった鈴森の家族――寿貞兄上と対面し、僅かながらも最期に言葉を交わすことができた。

 たった一年でこんなに自分を取り巻く環境が変わるなんて思わなかった。ひたすら受験勉強に励んでいた一年前の俺に教えてやりたいくらいだ。

 今年はいったい何があるというのだろう。

 俺としてはかつての長兄の喪に服したいところだが、もちろんそれは誰にも理解されないため、例年どおりの正月を過ごした。

 もちろん万葉子ちゃんからの年賀状はなかったわけだが、映果さんからは葉書が送られてきた。そこには達者な字で一首添えられていた。


 ながらへば またこのごろや しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき


 こういうときに限って自分の歌ではないんだな。

 彼女にとって「憂しと見し世」は、いつを指した言葉なのだろう。正寧か、それとも今生きるこの永喜のどこかのことか。

 そういえば、去年は亮様との迷惑な思い出すら懐かしく思ったなあ。あれはちょうど桜の時期だった。

 俺は苦笑しながらその文字をなぞる。やけに郷愁にかられるような気分になるのは、きっと前世のあの人のものとよく似ているせいだろう。

 亮様。死の瞬間が幸せだったというあなたも、あの日々を恋しく思うことがあるのでしょうか。

 智樹の人生も、前世との差や自分が関われなかった歴史におおいに憂いてばかりだ。けれども、中高生の頃に抱いていた悲哀もだいぶ薄れてしまった。

 いつか、あの日々も懐かしく、愛おしく思う日がくるのだろうか。

「お兄ちゃん、そろそろ行くよ」

 芹花が乱暴にノックしてくる。今日はこれから両親の実家参りだ。

「わかってる。すぐ下りるから」

 俺は映果さんの葉書を机の上に置く。ふと、香のような匂いが鼻腔をくすぐった。




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