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第四話 一度腐ったら元に戻せないって誰かが言ってた


 俺は嫌味を混ぜた息を吐く。

「よく信じられるな。俺たち、お互いともう一人の前世仲間以外に話したことないぞ。誰も信じないだろうから」

 自ら明かしておきながらこんなことを言うのもなんだが。

 前原は商人のような笑みを作りながら机を軽く叩いた。

「そりゃあ、書いた覚えのないことも、俺でさえ記憶が曖昧だったどうでもいい話も口にされたら」

 彼は手で目元を覆う。

「もう、君らが詐欺師だろうが嘘つきだろうがどうでもいい。面白い話を聞かせてもらったのだから、そういうことにしておこう」

 それが彼の本音なのだろう。その言葉に何故か安堵してしまう。

 前原は再度俺たちの顔を見比べる。

「ああ、おかしい。これこそ本に書きたいくらいだ」

 本といえば――。

「そうだ、よくも俺たちのないことないこと好き勝手に本に書いてくれたな、おい!」

「はて、何のことやろ」

 ここで、そのわざとらしい訛りを出してくるか。

「毛髪とともに記憶までも抜け落ちたか、貴様!」

 かつての同期は猿のように手を叩く。

「ははは、鈴森や! その喋り方はまさしく!」

 ここでまさかそう言われるとは。

 何十年も溜めていたのかというくらいに笑いつくすと、前原は水を飲んで天井を仰いだ。

「しかし、何で講演会に? そんなに俺に会いたかったのか?」

 自意識過剰だな。

「俺の妹がお前のファンなんだよ。代打で急遽来たんだ」

 妹、と前原は考え込む。

「かわいい?」

「かわいい女子高生。お兄ちゃん大好き。彼も妹大好き」

 と答えたのは、俺でなく菊川だ。おい、女子高生以外嘘まみれじゃないか、やめろ。

 しかし、事実を知らぬ前原はそれを受けておかしそうに唇を歪める。

「そうか、鈴森が今ではお兄ちゃんか。あんな、末っ子気質丸出しだった男が」

 うるさい。しようとした反論は、やけに優しい呟きに遮られた。

「冥途の土産にちょうどいい。この間、また一人見送ってきたから。俺が逝ったときはこれで盛り上がってやる」

「……また一人?」

 俺と菊川は、そろって眉をひそめる。その様子に、前原の目が細くなった。

「さすがにもうこの歳になるとな、元気に生きてる人間のほうが少ないさ」

 俺たちはかつて十代の若者だった。大人や先輩方から厳しく指導されながら、それぞれが己の輝かしい未来を思い描いた。

 しかし今は永喜の世。もういつお迎えがやってきても不思議ではない。本来ならば俺も高山田も、こうして前原と同じく老いた身で、この現代に暮らしていたかもしれない。

 以前は同期会が定期的に催されたりしたが、ここ十年ほどは立て続けに誰かが死んだり病気になったりで、すっかりご無沙汰らしい。

「しかし、佐藤と結城とは毎年のように会っている」

「彼らも健在か?」

 お馴染みの名前が改めて登場して、菊川は嬉しそうだ。

「ああ。佐藤は革後、退役して故郷に帰って商い始めて、今は悠々自適のご隠居さん。結城は残ったっちゅうか、教官になった」

 菊川の様子を見て、前原はふと呟く。

「会うか?」

「え?」

「実はな、俺の出した本の数が大台に乗るんで、二月に記念の会みたいなのやってもらうことになってな。そこにやつら来るから紹介する。ちなみに、酒飲めるか?」

「俺は成人、こっちは未成年」

 菊川の言葉に、かつての同期はニヤーっと笑った。

「そうか、そうか。未成年か。そりゃあ、不祥事起こせんわな、坊主」

「……鈴森彰寿だったときは、普通に飲んでたし」

 俺はボソッと抗議する。酒は特別好きだったわけではないが、思い出すとなんだか恋しくなる存在だ。

「今は別人の現代っ子やろ。お子様はやめとき」

 お子様という言葉の響きが気に入ったのか、前原の顔はものすごく朗らかだ。

「昔はこんな扱いできんかったからな。もっとさせてくれないか」

「嫌だ」

 すると、いきなり髪の毛をぐしゃぐしゃにされる。

「年長者にそんな口の利き方して! 死んだら全部教えてもろたこと抜けてしまうんか!」

「死んでなくてもお前は抜けっぱなしだろうが!」

 俺は手を伸ばして、そのホクロをぺちぺちと叩いてやる。そのふたつの黒点を見ていると、急にあのときの光景が浮かんだ。

「そうだ、前原。お前、うちの兄の葬儀来てたろ」

 ぽかんとした顔。

「俺たちもいたんだよ。ちょうど、俺の今の妹とあそこの万葉子ちゃんが同級生でつながりがあって」

 このことについてはさっきの説明で省いてしまった。

「……そうか」

「兄のこと、いろいろ気にかけてくれたみたいだな。ありがとう、俺からも礼を言う」

「いや」

 前原は薄く笑って、頭を振る。

「お前が死んだとき、行けなかったからな。東京に戻ったとき、ちょっと訪ねてみたんだ。そうしたら、ちょうどお袋さんが」

「え?」

 ――彰寿さん。

 鈴森の母の声がよみがえる。

「ちょうど亡くなる少し前だった。在学中のお前の話を聞かせてほしいと言ってな。それで何度かお邪魔した」

 前原は俺から目を離さずに続けた。

「めったに帰らなかったんだろう。何も教えてくれなかったと言って。それで、俺の話を楽しそうに聞いてた」

 たまに帰ると、学校について聞かれることもあった。高山田はもちろん、前原の存在すら特に語ることはなかった。

「お袋さんは結局逝ってしまわれたけど、寿貞さんがえらい感謝してくれてな。それから細々と付き合いが続いてたんだ」

 脳裏に浮かぶのは、あの病室での老いた長兄の姿。

 彰寿はたった二十年で生涯を終えた。あの銀座事件から流れた時間は、その倍以上。

 前原は、俺よりもずっと、あの人との付き合いが長い。そう思った瞬間、心臓のあたりが疼く。

「……松井?」

 怪訝な顔で、菊川。前原は瞬きする。

「松井ってのは」

「ああ、こいつの今の名前だ。俺が菊川」

 平時は柔らかい喋り方だというのに、高山田の頃のものに戻っている。そこで、いつもの菊川は、高山田とは別の人間なのだと気づく。

 ああ、俺だってもう彰寿ではない。わかっているのに、まだ彰寿の魂はこの心を過去へ過去へと引きずろうとする。

 俺は感情とともに唇を曲げた。

「羨ましいよ、前原」

 かつての同期は、眉間に皺を増やす。

「何が」

 一瞬間をおいて、俺は口を開く。

「あの人とは、二十年しか一緒にいられなかった。でも、お前は、それよりももっと長い時間を過ごしたんだな」

 前原は表情を崩す。

「貴様に言われると、なんだか悪いような気になるな」

「……別に憎くて言っているわけじゃない」

 俺たちの会話に、菊川が遠慮がちに入ってくる。

「なあ、前原。藤堂はどうしているか?」

 藤堂。高山田の数少ない友人。鈴森彰寿とはほとんど交流を持たない、中学校出身者だ。高山田とは故郷が近く、常に苛立った彼の話を根気強く聞き、いつも気を配っていた。当時の俺は……貧乏くじをひいた男だと認識していた。

 前原は考えをまとめるように、数秒間をおいてから回答した。

「亡くなった」

 菊川は相槌を打つどころか動きもせずに、その続きを待った。前原は慌てたように口を開く。

「ああ、革命で死んだんじゃあない。ちと足に弾食らって、回復に時間を要したが。革後は実家に帰って農業だな」

 安心したような吐息が横から漏れた。

「酔うと必ずお前の話になった。どうして何も言ってくれなかった、自分に相談してくれたら、と。止められなかったことをずいぶんと悔やんでいた」

「彼はきっと反対すると思ったから何も言わなかった」

 その感情を見せない答え方は、菊川というよりは高山田に近い声色だった。彼の前世のことを思い出すと、怒っているときの印象が強いというのに。

 前原はわずかに頷く。

「そうすることで、藤堂の立場を守ったんだな。関与しなかったとはいえ、計画を知っていたらあいつまで危うかった」

 菊川は何も返さない。少なくとも否定はしなかった。

「墓はちょっと遠いが、いつか参ってやってくれ。あいつはお前の墓を何度も訪ねてくれたみたいだからな」

「ああ……」

 携帯の震える音がする。古い形をしたそれを取り出した前原は、口をへの字にする。

「もうそろそろ限界みたいだ。悪いな、人を待たせているから」

 近いうちに会おう。そう言いながら、彼は俺たちの連絡先を書き留めた。

 伝票に手を伸ばそうとすると、老人とは思えぬ素早さで先を越される。

「若者は黙って年長者におごられなさい」

 かつて同じ立場だったのに。いや、彼は俺たちの前年の生まれだっただろうか。

 夕日に染められた日比谷を颯爽と歩いていく背中を見つめ、菊川はぼそりと言う。

「あんなに話が早いとは思わなかった。あっさりしすぎてて、逆に疑わしく感じるな」

 誰かさんのほうがよほど、と俺に顔を向ける。俺は逆に視線を逸らす。

「実際はどうだか知らんが、あいつが信じたと、俺たちだって信じることにしようぜ」

 菊川はしみじみと言う。

「まさか本当に高山田や鈴森として再会できるとは思わなかったよ。妙な縁だな」

「俺も。縁と言えば、お前が腐れ縁元祖か」

「昔はちっとも望んでいなかったがな」

 彼は高山田であった頃のように皮肉げに笑ってみせる。

「まあ、今はお互い別人だから」

「そうだな」

 今は別人。その言葉の都合のよさに、甘えたいときもある。



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