プロローグ
不思議なことに、最近眠りが深くて、昔の夢どころか普通の夢すら碌にみない。
夜になってベッドに入ると、いつの間にか朝になっている。毎日そうだ。
体調はというと、まったく不調なし、すこぶる良好。目覚めはすっきりとしている。意識も鮮明だ。
もう、彰寿だった頃の夢などみないかもしれない――そう思ったときこの胸に宿るのは寂しさだった。
悲しいことに、俺にとって一番のアイデンティティは、かつて鈴森彰寿であったことなのだ。そして、まるで余生を過ごしているように、松井智樹という男の人生を歩んでいる。
けれども、その日々のなかで、かつて「彰寿」が抱えていた未練はひとつまたひとつと消えていく。
心底憎く思っていた高山田に復讐はできなかった。その代わり、菊川という男と親しくなった。
自分の死後の出来事についても、何も為せなかった悔しさを理由に目を逸らすことをやめた。まだ完全にとは言えないが、少しずつ受け入れつつある。
気になっていた鈴森の家も、現状を知ることができただけでなく、唯一残っていた長兄ともあちらが逝く前に少しだけ言葉を交わせた。
けれども、そうやって消えた気がかりの分の隙間が埋まらない。ぽっかりと空洞が広がっているだけ。俺がそれらと引き換えに得たのが前世の延長線上にあるものばかりだからだろうか。やはり、彰寿あってこその俺なのかもしれない。
彰寿の記憶がなければ、手に入れられたものがあったかもしれない。失わずに済んだものもあったかもしれない。けれども、彰寿であったことを思い出せなかった人生など、もう想像もできなくなってしまった。
そんな松井智樹というのはどういう人間なんだろう。そう己に問うて出る答えは――鈴森彰寿の亡霊に憑かれた、何にも持たない男。空っぽな男。悲しいが、それが今の俺だ。
これまで何度も現世というものに向き合おうとしたが、いつも前世にまつわる何かに心が乱れてしまった。今、十九になってようやく、前よりも冷静になってきた気がする。抱えていた悩みごとがいくらか失せたことで現状を見つめる余裕が出てきた、と言ってもよいのだろうか。
今の人生がふと虚しくなることがある。彰寿の遺産だけで生きているような気がして。新しい命を誇れる段階にまだ至っていないのだ。
松井智樹は、今、何を持っていると言えるだろう。せいぜい智樹として出会った人たちくらいしか思いつかない。
人が好く穏やかで、絵と写真と家族が好きな父さん。ちょっと暴走しがちだけど、わかりやすい愛情を示してくれる母さん。生意気でふしだらな趣味があるが、多少可愛げも持ち合わせているようにも思える妹の芹花。
それなりに楽しい中高生活にしてくれた三崎や赤城たち。微妙な距離感であるものの、一緒に笑い合える桧山さん。必要以上に親身になってくれて、俺の前世と現世をつなげてくれた万葉子ちゃん。
前世の天敵でありながら親しい仲になってしまった菊川と映果さんも、一応そうだと言えるか。
しかし、肝心の俺は? どうしても、最後はそこに行き着く。何もせずにただ彼らのそばにいるだけで前に進んだ気になるのは実に愚かしく思えた。
今は冬。また鈴森彰寿の死に苦悩する時期が訪れた。
いつか、冬も愛せるのだろうか。
俺は……一生このままな気がする。
前世の終わり方に納得できなくて、前に進めず後ろにも退けず立ち尽くしていた人生。そこから脱却しつつあるというのに、なぜこう考えてしまう。
俺のなかの彰寿が「待て」とこの身にしがみついているようだ。そして、俺はそれを振り切れない。離したら最後、永遠に失ってしまう気がする。
重い腕でカーテンを開ける。
窓の外は初雪。薄墨に染まった空から、やや粒が大きめの雪が、遊ぶように次々に舞い落ちる。
ああ、満開だ。
あの日よりもいっそう暗い曇天を見上げながら、俺はまだ見ぬ春を思った。




