第二十二話 ちょっと待ってて
「とにかく、頭冷やせよ」
いつの間に買ったのか、菊川は冷えたペットボトルをぶつけてくる。そして、映果さんにも同じものを手渡し、自分も緑茶を飲む。
乱暴に蓋を開け、一気に半分ほど飲みほした。けれども、それで心が凪ぐわけではない。
「さっき」
映果さんはぽつりと口を開く。
「寿貞は、君が彰寿だって、わかったみたいだね」
「え?」
菊川は目を丸くする。
「ああ……」
こんな俺を、前世の名で……自分の弟の名で呼んでくれた。
けれども、あのときのことを思い出す。あのまどろんだ目は、はたして正しく俺だと認識したのだろうか。ただ、兄という言葉に反応しただけではないか。
そう考えると、恐ろしさに似た感情が、心に氷を張っていく。
「あなたが『兄上』と呼びかけても、同じようなことを言ったかもしれませんよ」
「そんな!」
思わず張り上げてしまい、彼女は慌てて声を落とす。
「こんなときに……そんなこと言わないでよ」
脇で菊川は悲しげに微笑む。
「きっと、お前が彰寿だってわかってて言ったんじゃないかな。俺だって槙村さんだって気づいたくらいだし、兄弟なら尚更だ」
もう外は、もうほとんど夜に染まっている。人もずいぶんまばらになってきた。
ガラスには、ソファに座った俺たちの姿がうっすらと映っている。全然彰寿と似ていない、俺の顔。
「……そうかな」
「そうだよ」
もう高山田の家はない。先日そう語った彼はまるで師のように諭してくる。俺は再び涙で視界をにじませながら悪態をついた。
「高山田のくせに、どうして優しい言葉吐くんだよ。気持ち悪い」
「は、お前のそういうところが鈴森彰寿だよ。俺だって高山田邦勝だけど、菊川咲哉でもあるんだから、そこは使い分けるよ。邦勝に戻って、罵ってやってもいいけど」
「……それもむかつくから、ひとまず松井智樹としてお礼言ってやるよ。ありがと」
「智樹さんのほうが、彰寿よりも素直でいいね」
「うるさいですよ、映果さん。あなたは亮様よりもある意味自由すぎる」
嫌いだった人たちの軽口に励まされてしまう現在の自分が不思議で仕方ない。けれども、そういう話をしているほうが、何故か心は軽くなった。
どれくらいそうしていただろうか。
向こうから男性が二人、急いでこちらに向かってくるのが見えた。一人は初老、一人は二十代半ばほど。
俺は思わず立ち上がった。初老の男性には見覚えがある。
彼も俺を見て足を止めた。同時に、映果さんは立ちあがって駆けて行く。
「着いたんですね、よかった!」
「映果ちゃん。ずっといてくれたのかい?」
「ええ。二人が上にいます」
「父さん、早く」
もう一人は彼の息子らしい。万葉子ちゃんの兄にあたるのだろうか。
映果さんはエレベーターへと彼らを誘導し、扉が閉まると同時にお辞儀をした。
「映果さん……。今の、寿基だよな」
「うん」
霊園で会ってから六年だったよな。当時よりもさらに年齢を重ねて、ますます貫禄が出てきた気がする。
彰兄様、彰兄様って寄ってきたあのちびっこ。
こんなときなのに、何故だろう。今のほうがずっと感慨深くなってしまう。
「映果さんはまだここにいる?」
「もう役目は終えたから帰るよ」
「じゃあ、俺も帰る」
外に出て、一度だけ振り返る。見上げたその部屋には明かりが煌々とついていた。
あの中で、彼らはどのような会話をしているのだろうか。
それを知る権利は俺にはない。
付き添ってくれた二人に礼を言いながら、俺は恋しかった家族のもとを後にした。
兄の訃報が届いたのは、それから数日後。
一度だけ目を覚まして、家族といくらか言葉を交わし、皆に看取られながら静かに亡くなったそうだ。
葬儀には赴いた。菊川が付き添ってくれた。
遺族の席には寿基や万葉子ちゃんの姿があった。その他は、ほとんど知らない顔ぶれだった。
万葉子ちゃんは目を真っ赤に腫らしていて、見るからに痛々しい。
ここで何の縁もゆかりもない俺が同じように泣いたら不自然になるだろうか。今は他人だから。
けれども、慟哭したかった。鈴森の父母や次兄の死の分まで涙を流したかった。
恙なく全てが終わり、帰ろうとしたとき、万葉子ちゃんがわざわざ追いかけてきた。ぎょっとしていると謝罪された。あの日のことをよほど気に病んでいたようだ。こんなときくらい、俺のことなんて構わなくていいのに。
むしろこちらが、と俺も詫びて、互いに頭を下げ合ってしまう。霊園の件といい、彼女とはどうもこうなってしまう。
「父もご挨拶できたらよかったのですが」
最も忙しい立場だ。それは無理だろう。むしろこの子も早く戻ったほうがいい。
「気にしなくていいから」
彼女は俺を見上げながら、何度か瞬きをする。
「お兄さんも、あの日映果と一緒に残っていてくださったんですよね。父や兄から聞いたのですが」
一瞬目が合ったことを思い出す。
「お父さんにも気を遣わせてしまったかな。あんな日にお邪魔して申し訳ないと詫びていたとあらためて伝えてくれるとうれしいけど」
「偶然ですから。それに、むしろ父もすまなく思っております。せっかく来てくださったのに何もお話しできなかったなら、と」
――彰寿。
小さな声でそう呼んでくれた。未練がまったくないとは言い切れないが、今となってはそれだけで十分だった。
俺は、自分の感情ばかりで、結局ほとんど何も言えなかった。
「……大丈夫だよ」
「あの、今度我が家に遊びにきてください。その、革命時代の本ならそれなりにありますから」
突然の申し出に目を丸くする。
もう帰れない鈴森の家。そもそも、彼女の言う「我が家」は俺の知る高輪の家ですらない。他所の家。しかし――。
俺の脳裏で、柿の枝が揺れた。
「ぜひ、機会があれば」
「万葉子、兄さんが呼んでたよ」
いきなり声をかけてきたのは、五十代後半と思しき男性。見覚えはないが、遺族席にいたような気がする。
「叔父様、ごめんなさい、すぐに戻ります」
「今あっちにいるから」
彼は遠くを指す。そこで寿基が数人と会話している姿があった。
俺もいつまでも万葉子ちゃんを拘束するわけにはいかない。彼女にもう一度挨拶をして、菊川と一緒にその場を離れた。元々、長居する予定ではなかった。
映果さんもいるはずなのだが、まったく姿が見えない。人が多いから、簡単に見渡すだけではまったく探せなかった。
ちょんちょん、と菊川が指で突いてくる。
「前原」
「は?」
きょとんとすると、菊川は顎で前方を示す。
その先には一人の老人がいた。背筋を伸ばし、張りつめた空気をまとっている。
寂しいその額には、ふたつのホクロ。
「あ」
前原が俺たちに気づくわけもなく、そのまま真っ直ぐ進んでいく。
寿基も前原の姿を認めたようだ。話を慌てて中断し、彼のもとへ寄っていく。話し声は聞こえない。しかし、表情からすると形式的な付き合いに留まっているわけではないようだ。
俺よりもずっと親しげな様子で寿基と接している姿が、不思議に思えた。だって、両者を結んでいるのは俺――鈴森彰寿だというのに。
そういえば、あの日の前日も、兄上のところに来ていたって言ってたっけ。
「……行こうか」
「もういいの?」
「目的は果たしたから」
二人で外に出て、空を見上げる。すっかり冬の色に染まりきっていた。
ああ、本当にこれで最後なのだ。冷えた空気に触れると、それを実感する。
けれどももう戻れない。あれ以上あそこにいても仕方ない。
俺はもう、縁の遠い人になってしまった。
でも、寿貞兄上だけは見送れた。それだけは救いだ。
他の家族はどんな最期だったのか、俺は直接知ることがなかった。母上も、寿史兄上も、父上も。あの人にだけ会えた。
「菊川、ありがとうな」
「別に」
兄の葬儀の帰りに高山田と肩を並べながら帰り、付き合ってくれた礼まで言う。そんな話をされても、鈴森彰寿は信じないだろう。
未来は本当にわからない。これからも、予想もしなかったことばかり起きるのだろう。
「智樹さん、菊川さん!」
呼ばれて振り返ると、映果さんが小走りでやってきた。
「姿が見当たらないなって思ってました」
「ちょっと席を外していただけ」
よほど慌ててやってきたのか、息が上がっている。
「どうしたんですか」
「だって、何も言わずに帰ろうとするから。万葉子に教えられて、慌てて出てきたんだよ?」
そういうことをするから、万葉子ちゃんも妙な勘違いするんだろうに。
「君は万葉子ちゃんの側にいてあげなさい」
「あの子が行けって言ったの」
ふと菊川と目が合うと、気の毒そうな表情を微かに浮かべていた。借りはあるものの、こいつに同情されるのは癪に障る。
見ると、映果さんの目は若干赤い。
そうだ。この人にとっても、前世の従兄が亡くなったってことになるんだよな。……今までそこに考えが及ばなかった。自分のことばかりで。
「映果さん」
「え?」
「寿貞兄上は、本当に優しい人だったなあ」
俺の言葉に、映果さんは一瞬目を丸くし、唇を噛んでそっと頷いた。
「おかえり、智くん」
家に帰ると、母さんが出迎えてくれた。
「ちゃんとできた? マナー大丈夫だった?」
「芹花ならともかく、智樹なら大丈夫だろ」
父さんもリビングから顔を出す。
「ちょっと、どういう意味ぃ?」
先に帰ってきていたらしい。芹花の声が父さんの背後から飛んでくる。
ああ、なんだか温かい。この人たちの顔を見ると、泣きたくなった。
まるで、久しぶりに帰ってきたみたいだ。
「ああ、大丈夫? お葬式ってさ、そこにいるだけで泣いちゃうよね」
「そういうところ母さんに似たよねえ」
「お父さんに言われたくないよ~」
兄が死ぬかもしれないって思ったとき、置いていかれるって思った。あの人がそう言ったように、今度は独りにされるって。
でも、俺には新しい家族がいる。松井家の父さんと母さんと芹花。
兄だってそうだ。あの人は自分の子や孫に囲まれて穏やかに日々を過ごして、幸せに旅立ったのだろう。
あの写真の中の家族はもういなくなってしまったけれど、独りじゃない。
一度死んだ身でも、死後のことはよくわかっていない。けれども、俺がいないだけで皆は集まれたのなら……そこで幸せに笑い合ってくれていたらいい。
かなり時間はかかるかもしれないけれど、俺のことを待っていてほしい。そうしたら、松井智樹として歩んだ人生を語って、今の家族や友人のことを紹介しよう。
そんなことになったら、とても幸せだろうなあ。
今はもう会えない、近しい人たちと笑顔で語らう。天国だとか極楽だとかの概念は俺にはないけれど、その光景はまさしくそういうものなのだろう、と思った。




