第二十一話 あと少しだけでいいんだ
彼女は即座に駆け出し、映果さんが一瞬遅れてその後を追う。看護師は俺を一瞥したあと、一礼して去っていった。
何を言われた? どうしてあんな顔を?
さまざまな可能性を考えて、俺はその場で震える。けれども、ここでただ立ち尽くしているわけにもいかない。
エレベーターは既に行ってしまった。階段を使って追いかける。
しかし、一段一段がやけに高く感じる、何度も足がもつれそうになりながら、俺は先ほどの部屋を目指した。
「あの、祖父は?」
「まだ確かではありませんが、念のためご家族を呼んで頂けますか」
そんな会話が聞こえてくる。
「落ちついて」
硬い顔の映果さんが、万葉子ちゃんの肩を叩く。
「今日、小父様と小母様は?」
「お父様はお仕事。お母様は……えっと、えっと」
「とりあえず、携帯使ってもいいところに行こう」
今にも泣きそうな万葉子ちゃんを支えるようにして、映果さんがこちらに向かってくる。
兄上……?
何が起きているのか考える前に、身体が動いた。
ふらふらと病室に入ろうとした瞬間、先ほどとは別の看護師に止められる。彼女越しにベッドだけが見えた。
「恐れ入ります……ご家族の方でしょうか」
どこか警戒するような目つきに思える。
「俺は……」
答えようとしてそこで気づく――今の俺は、松井智樹という名の他人だって。
家族じゃ、ない。
「……すみません、鈴森さんの様子見てきます」
踵を返して、一歩踏み出すその足には、何の感触もなかった。
万葉子ちゃんと映果さんは廊下の端にいた。
動揺しているらしく、嗚咽交じりで言葉にならないらしい万葉子ちゃんから携帯を受け取って、映果さんが代わりに話していた。
「こんなときにすみません、小父様。映果です。はい、はい……ちょうど一緒にいて」
彼女は冷静に、万葉子ちゃんの母親には既に連絡してあり、親類への連絡は一括して頼んでいることを話す。
俺は何をしているのだろう。こんなときに何もできないで、何突っ立っているのだろう。
だが、俺に何ができるんだ?
万葉子ちゃんは俺に気づくと、ぺこりと会釈した。俺は映果さんから受け取るようにして、彼女を近くの椅子に座らせた。
「す、すみません」
「その……ご家族は?」
「母がもうすぐ来ます。あと、父が今、電話で、兄も一緒で。えっと、あと、叔父と、えっと」
映果さんがしてやったように、俺は軽く肩を叩いた。
「とりあえず深呼吸しよう。すぐに落ち着けないかもしれないけれど」
万葉子ちゃんはぶんぶんと頭を縦に振り、素直に深呼吸する。二度三度と繰り返すと安定してきた。様子を窺っていた映果さんは電話を彼女に返す。
「ごめんなさい、お父様。はい、お兄様も。どうか早く……でも、焦らないで、事故に遭わないようにいらしてください。私、ずっとここにいますから」
聞けば、間の悪いことに寿基は他県まで出てしまっているそうだ。最短で帰ってこられるとしても、二時間はかかるだろう。
万葉子ちゃんは電話を一度切ると、握りしめたまま再度震える。映果さんと俺は顔を見合わせる。
ふと、廊下の先にある自動販売機が目に入った。俺が飲み物を買って戻ると、万葉子ちゃんは先ほどよりもやや落ちついた様子で、誰かと電話していた。そしてそれを切ると、力なく携帯ごと手を膝に置いた。
「これ……」
「ありがとうございます」
ペットボトルを受け取った万葉子ちゃんは、何口か飲むと、そっとまた呼吸をひとつした。しかし、すぐにしゃくり上げる。
「どうしよう、私……。さっき、もうちょっと様子をしっかり見て、誰か呼んでいれば」
「万葉子……」
エレベーターを見やる。まだ誰もこちらに来ない。
重い空気。先ほど兄上と話ができて、幸福に包まれていたのが嘘のようだ。
どうして、こうなった。今日に限って、何故。
「俺の、せい、なのか……?」
俺のために彼女が席を外さなければ、こんなことにはならなかった?
それとも、俺が来たから寿貞兄上の容体が変わったというのか?
それじゃ俺がまるで死神じゃないか。
俺はただ、唯一残された兄弟に会いたかっただけなのに。どうして、こうなるんだ。
来なければよかったって言うのか?
「お兄さんのせいじゃ、ありません」
泣きながら万葉子ちゃんが言う。
「だから、そんなこと言わないでください……」
くそ、何やっているんだ俺。
高校生の女の子が、家族が側にいない状態で、祖父の危篤に対応しているじゃないか。気を使ってもらっている場合じゃない。
「万葉子、ご様子聞いてくる?」
映果さんは万葉子ちゃんを優しく立たせて、誘導する。そして視線で俺に「ついて来い」と言ってくれた。
扉から様子を窺うと、医師が万葉子ちゃんを呼び寄せる。
漏れる話し声から、一時的に落ちついているが安心はできないという状況がわかった。
控えめながらも急いだ足音が聞こえる。振り向くと、四十半ばと見られる女性が立っていた。彼女は映果の顔を認め、寄ってくる。
「ついていてくれたのね、映果さん」
「小母様、万葉子が中にいます」
「ありがとう」
彼女は俺に目をやると、首を傾げつつ会釈し、病室の中に入る。
閉じかけた扉から様子を窺おうとするが、やはり兄の姿は見えなかった。
そして完全に閉まる。その瞬間、収まったはずの涙と感情が一気に溢れ出る。
「兄上……」
何故だ、さっき話したばかりじゃないか。
脳裏に浮かぶのは、あの写真。鈴森の父と母、兄と次兄と俺を映した……。
ここでこの人が死んだら、あの、幼いときを共に過ごした家族がすべていなくなってしまう。
嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。まだ行かないでくれ。もっと話したい。もっと語り合いたい。
兄上、あの世に俺はいない。今、ここに、この世にいるんだ。
頼むよ。ようやく数十年ぶりに兄弟が再会したんじゃないか。俺は、ここで生きているんだよ。まだいてくれよ。
今、その壁の向こうでどうしているんだ。
どうして俺は今、家族じゃないんだ。
「智樹さん……」
強張った顔で、映果さんが顔を覗きこんでくる。
「一度下りましょう」
「待ってくれ、まだ」
「まだ帰らない。でも、一回ここを離れましょう」
頷こうとした顎がたまらなく重かった。
映果さんに支えられるようにしながら、俺は一階の待合室に向かった。
この時期、日が落ちるのがますます早くなった。明るかったはずの窓の外が、だんだんと夕闇に包まれていく。
俺たちは端の座席に座る。ここなら他の患者の邪魔にもならず、しばらくいられるらしい。
俺は何度も天井を見やる。
兄上、あともう少しだけ生きていてくれないか。
満たされたかと思ったのに、容体が悪化したと聞くと、たまらなく先ほどまでいた空間が恋しくなる。
ふと、視界に人の気配を感じ、振り向けば菊川がいた。
「何で……」
「終わったら落ち合おうってことになってただろ。それどころじゃなくなったと聞いて」
「ああ……」
三人で横並びになる。
俺がそわそわしているのを見て、菊川は静かな声で諭す。
「落ちつこうよ」
落ちついてなんかいられるかよ。
「……兄が、あの人が死んだら、俺、もう家族と二度と会えないじゃないか」
俺はついさっき、万葉子ちゃんに菊川と同じようなことを言ったはずなのに、まったく動揺が抑えられなかった。どんどん感情が高ぶってしまう。彼女のほうがずっと気丈だ。情けない。
「皆亡くなって、それからは独りだってあの人が言ったんだ。でも、でも……ここであの人が逝ってしまったら」
今度こそ、俺こそが独りになる――。
置いていかないでくれ、俺は二十年近く前にこの世に戻ってきていたんだ。ずっと、鈴森の家を恋しく思っていたんだ。記憶が戻らない頃からずっと。
どうしてこんな日に、あなたは俺を置いていこうとする。
軍学校に入ってから、彰寿が泣くことなどほとんどなかった。それは、軍人としてふさわしい振る舞いではなかったから。
しかし、その彰寿であるはずの俺の目からは、涙が止まらない。
せめてあともう一度だけ、あの人と……兄上と言葉を交わしたい。




