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第二十話 話したいことがいっぱい



 映果さんから連絡が来るまで、しばらくの時間を要した。

 そして決まった運命の日は、冬に入ったばかりの土曜日。指定されたのは、都内某所にある病院だった。

 自宅との間を行き来しているという話は本当らしく、様子を見ているうちに時間が経ってしまったとのことだ。少々長い入院になるとのこと、それでようやく日取りが決まった。

 映果さんの誘いで菊川が面会後に合流することになったが、芹花に言ったら面倒なので何も告げずに俺は家を出た。

 震えてしまうのは寒さが厳しくなったからか、それとも緊張しているからか。歩きながら、俺は少々短いコートの前を合わせ、身を縮める。

 最寄りの駅には既に、映果さんが来ていた。万葉子ちゃんは先に病院に行っているとのことで、二人で歩く。見舞いの品を持つ手が痺れる。

「昨日今日は調子いいみたいよ。安定してるって」

 そんな言葉を、虚ろな気持ちで聞いていた。

 兄上、ようやくあなたに会える。ずいぶんと遠回りをしてしまったかもしれない。

 何十年も前に逝ったはずの俺が、こんな形で現れたら、驚くだろうか。

 俺がいなくなってからの鈴森家の話をしたい。母がどのように亡くなったのか。次兄がどのようなやりとりを経て、家に戻ったのか。俺を含めて三人に先立たれた父が何を思ったのか。

 考える時間は山ほどあったはずなのに、どのように聞こうかまったくまとまらなかった。

 門を通り抜けた俺たちは、広い庭を貫く小道を通り、玄関に向かう。万葉子ちゃんはそこで待っていてくれた。

「こんにちは。すみません、わざわざここまで来させてしまって」

「いや。むしろこちらこそ、押しかける形になってしまって。……迷惑だとは思ったんだけど」

 万葉子ちゃんはゆるく首を横に振る。

「とんでもない。祖父は……昔の話をするのが好きなんです。家族は何度も聞かされているので、今日はお兄さんが熱心に聞いてくださったら、私たちも嬉しいです。本当に、本当に、昔の話をするときの祖父は、とても幸せそうなんです」

 病室まではエレベーターを使う。上がっていく感触が床から足へと伝わっていく。

 呼吸が安定しない。落ちつけ、と何度も自分に言い聞かせる。

 一番奥の病室までやってきた万葉子ちゃんは、軽くノックをする。

「お祖父様、万葉子です。入りますね」

 少し扉を開けた彼女は、俺たちを一度廊下に留め、一人で中に入った。そして、ほっとした笑顔で戻ってくる。

「どうぞ」

 広い病室。カーテンを開けた窓の端から、細く午後の陽光がやや大きめのベッドへと射し込んでいた。

「あら?」

 万葉子ちゃんは慌ててベッドに寄る。

「お祖父様、お眠りですか? お話していた方々がお見えなのですが」

 返答はない。彼女は狼狽したように高い声を出す。

「ごめんなさい。本当に、今、起きていたのですけど」

 緊張感がわずかに緩むと同時に、複雑な感情が渦巻く。足が動かず、先に進めない。すぐそこに、会いたかった人がいるというのに。

「……いえ」

 喉を這うような声を出しながらふと壁際の机を見やると、見舞いの品と思しきものが並んでいた。

「昨日は前原進一さんがお見えになって、彰寿さんの話で盛り上がっていたんです」

「そうですか……」

 前原ですら言葉を交わしたのに、という思いを心の一番底に押し込める。

 足を前に出せないのは、万葉子ちゃんの手前、表向きの他人としての遠慮があるせいだろうか。

 本当はここにずっといたい。ずっと話していたい。けれども、今の俺に選その選択肢は与えられていないのだと、そう感じた。

「ふと眠ってしまうこともありますよね。起こしてしまうのは申し訳ないですし、今日は遠慮させていただくよ」

「え、そんな! ……すみません」

「鈴森さんが……謝ることではないですよ」

 万葉子ちゃんはパッと顔を上げる。

「あの、ちょっとここでお待ちになりませんか? もしかしたら、またすぐに目が覚めるかもしれないし」

「でも」

「じゃあ、談話室ならどうでしょう! 今日は人が多いかな。空いているか見てきます!」

 俺の引き止める声など聞かずに、万葉子ちゃんは行ってしまう。

「……ああ、万葉子は今日も可愛いなあ」

 笑いながら、その後ろ姿を見送る映果さんは、即座に俺を見上げた。

「い、言っておくけれど、彰寿よりも万葉子のほうが好きだから。性格も可愛い万葉子の圧勝だから」

「どうせ彰寿は可愛くない性格でしたよ」

 俺は呆れながらも視線を逸らす。すると、ベッドが目に入った。無意識のうちにそちらへと移動する。

 恐る恐る、窓辺から回って脇に立った。

 そこに横たえられていた、一人の老人。

 腕は記憶よりずっと細く、全体的に弱々しい。軽く目を閉じて、皺も多くて、肌の色も悪くて、髪も白くて。

 それでも、この人は兄だった。兄の顔を、していた。

 じわりとその姿がにじみかけた。

「兄上……」

 思わず漏れる声。すると――。

「……彰寿かい」

 はっとして、俺は兄を凝視する。薄く眼を開いて、俺を見上げていた。

「おわかりですか、兄上」

 跪いて思わず手を握った。予想以上に指が冷たかった。

 わずかに唇が動く。笑っているかのように。

 まさか、という思いが心に溢れ、この身を震わせる。

 何故だ。こんなに俺は変わってしまったというのに。彰寿とは似ても似つかない姿になってしまったというのに。何故俺をその名で呼ぶ。

 話したいことがたくさんある。すぐに万葉子ちゃんが帰ってくるかもしれない。けれども、気持ちばかりが焦って、まったく声が出ない。

 頬が濡れる感触だけが鮮明になっていく。

 けれども、かつての長兄は、俺の心をすべて見通しているかのように語りかけてくるのだ。

「皆逝ってしまって、里津子もいなくなって、それからずっと独りだった。だが、お前が来てくれたんだねえ」

 掠れながらも優しい声。その言い方さえ昔のままで。

 瞼の隙間から覗く目は、少し強くなった陽光を微かに反射している。

「彰寿、お前は賢いから、きっと誰も責めなかったんだろうね。私からのお願いだ、これからもそうしておいておくれ。父上も寿史も、もうずいぶんと苦しんだのだから」

 苦しんだ、父も次兄も。その言葉の裏に、どれほどの意味や思いがあるのか、俺は知らない。幼い頃のように。

 陽光に照らされながら天井を見つめる兄に二人の顔を重ねながら俺は頭を振る。

「責めるなど」

 高山田への恨みはあった。どうしてこんな世に、松井智樹として生まれ変わったのだろう、と悩んだことはあった。

 けれども、家族を思うときに心にあったのは――。

「兄上、私はいつだって、鈴森の家族を案じておりました。父上も母上も兄上たちも皆……好きで、心より恋しく思っておりました」

 胸の奥から上がってきた俺の言葉に、天井を見上げていた兄は微かに顔の筋肉を動かして、完全に目を閉じる。

 ほっとしたのだと、思いたかった。

「あと少しだけ待ってておくれね。必ず行くから。また皆で集まろう」

「兄上、何を仰います。まだお元気でいてもらわないと」

 それからは無言で、ほんの少しだけ胸が上下し、呼吸音だけが響く。

 枕もとの棚に目が行く。写真立てがいくつか並んでいた。

 制服を着た万葉子ちゃんと数人の若者が写ったもの、赤ん坊を抱いている寿貞兄上、誰かの結婚式のときのもの、里津子さんと二人で撮ったもの、それから古い古い一枚。

 父上、母上、寿貞兄上と寿史兄上、それに――幼い俺が写っているもの。

 呼吸が止まりそうになる。

 何十年も……長らく大事に取っておいたのだろうか。

 俺は黙ってそれを眺めていた。ずっと黙って見守ってくれていた映果さんが、張りつめた顔をしながら扉を見る。

「万葉子、遅いな。空気読んでってわけじゃないだろうし」

 様子を見に行ってくる、と彼女が立ちあがったと同時に、控え目ながらも忙しない足音が軽く響く。

「ごめんなさい、ちょっと電話が来てしまって」

 万葉子ちゃんが、ぜえぜえと息を吐きながら入ってきた。その姿に、在りし日の母を重ねてしまう。

「大変失礼しました。あの、私がいない間に、祖父は目覚め……てないようですね」

 彼女が肩を落とすのを見て、俺は慌てて首を横に振った。

「気にしないでください」

 彼女には言えないが、目的は果たせたのだ。

 胸は既にいっぱいだった。ずっと会えなかった兄と、数十年ぶりにわずかながらも言葉を交わすことができた。今日のところはこれでもう十分なのだ。

 ちょうど看護師が入ってきたので、万葉子ちゃんの誘いは固辞し、俺たちは病室を後にした。

 万葉子ちゃんは、わざわざ入口まで見送ってくれるというので、来たときと同じように三人で廊下を歩く。

 自分の脈動がやけに不安定だ。

 ずっと、生まれ変わった意味も前世の記憶を取り戻した意味もわからなかった。ただ前世での身内にも会うことなく、このまま智樹としての生を歩んでいくのだろうと。

 けれども今日、初めて生まれ変わってよかったって、そう思えた。

 死んだままであったら、俺は二度とあの人に会えぬままだったから。

 兄上は、少しでも喜んでくれただろうか。

「せっかくお越し頂いたのに、すみません」

 俺と映果さんを交互に見ながら、彼女は頭を下げる。

 俺は万葉子ちゃんが勘違いしているのをいいことに、入院している祖父を友人の恋路に利用するような真似をさせたんだ。彼女が詫びる必要なんてまったくない。

「俺が無理を言って伺ったわけだし、鈴森さんが何か思う必要はないから。図々しいこと言って、俺こそ申し訳ない」

 また会える日は来るだろうか。贅沢を言えば、もう一日だけ、改めて機会を設けてもらえればいいのだが。多くは望まないものの。

「いえ、そんな。前原の小父様と話していたときだって、祖父はとても楽しそうだったんです。むしろ昔の話ができる相手がいてくれて、私も――」

 そんなやりとりをしていると、小走りで先ほどの看護師が追いかけてきた。

「万葉子さん、万葉子さん」

「どうしたんですか?」

 耳打ちされた瞬間、万葉子ちゃんの顔色が一気に変わった。



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