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第十九話 在りし日を想ふ



 次兄の寿史は、俺をからかうのがたいそう好きだった。

「ほら、登ってみろよ」

 そう言ってあの人はまだ三つの俺を抱き上げ、前庭の柿の木の一番低い枝に乗せた。怖がっていると叱責するような声が飛ぶ。

「お前、知らないのか。鈴森家ではこれを登らないと男として認められないんだぞ」

 初耳だった。

「本当ですか」

「本当だとも。兄上も俺も、この儀式を経て男となったんだ。父上だってそうだと聞いている。お前だってきっとできるさ」

 真面目な顔でそんなことを言うものだから、すっかり信じてしまった。この時点では、十も離れた兄の言うことはすべて正しいと思っていたのだ。

「まあ、お前は女のごとき顔だから、女になってもいいか」

 そう言われるとむきになる俺の性格を、あの人はよく知っていた。

 幹に捕まりながら、懸命に上へ移ろうとした。しかし、幼い俺にもその枝が不安定なのはよくわかった。

「そら、行け行け。ああ、そっちは駄目だぞ、別のにしろ」

 寿史兄は面白がって煽るけれども、一歩も進むことができなかった。幹にしがみつくのがやっとのことだった。

「どうした、そこまででお仕舞か。お前も男子ならばもう一歩でも上に行ってみろ」

 そう囃す声に押し上げられるようにして、俺は再度手頃な枝に手をかけた。

「何をしている」

 振り向くと、長兄の寿貞が呆れたような顔で立っていた。

「おやおや、兄上。お帰りなさいませ」

 澄ました顔で挨拶する弟の頭を、寿貞兄は拳で軽く叩いた。

「挨拶などしている暇があったら、さっさと下ろしなさい。彰寿、危ないからおいで」

 そう言って手を広げる。俺はすぐに抱えられ、地面に降ろされた。

 すると、玄関の扉が慌ただしく開き、使用人の制止を振り切った母が飛び出してきた。

「寿貞さん、おかえりなさい。あなたが下ろしてくれたのね。窓から見たときは、ぞっとしてしまったわ」

 息があがっている。この人が走る姿を目にするなど、後にも先にもこのときだけであったと思う。

 心の臓のあたりを押さえながら呼吸を整えようとする母親を気遣うように、長兄はそっと微笑した。

「ただいま戻りました、母上。ええ、無事ですとも」

 俺に怪我がないころを確認すると、母は安堵した様子を見せた。そして、寿史兄の両頬を優しく手で包んだ。

「寿史さん、何をしているの。柿で木登りなんて、またお父様からお叱りを受けるわよ」

 母自身はあまり好まなかったが、鈴森家にとって柿は特別な存在だった。家紋に似ていることに加え、先祖と深い関わりがあるのだ。そのため、実はもちろん、木を粗末に扱うことも父は禁じていた。

 その柿の木に俺を登らせたなど知れたら、ただでは済まない。折檻が待っていることは確実だった。

 しかし、寿史兄は、しれっとした表情で答える。

「彰寿と遊んでいただけですよ」

 その母と兄は、そろって呆れた溜め息をこぼした。

「彰寿で、だろう。まったく、お前は中学生にもなって何をやっているんだ。悪戯が過ぎるぞ」

「そうよ、寿史さん。あなたもじきに軍学校に入るのだから……」

 その瞬間、兄二人の顔に影がさした。発言主の母の表情までどこか暗い。

 何故皆がそうなるのかまだわからずにいた俺は、三人の様子にただただ首を傾げるばかりであった。

 ただ、この頃父と寿史兄が何やら言い争うことがしばしばあったことだけは知っていた。父はもちろん、いつもはおどけて笑っていることが多い次兄でさえも険しい顔つきになるから、内心怯えていた。

 けれども、どれだけ家族や使用人に訳を尋ねても、口をそろえて言うのだ。気にするに及ばず、と。

 自分には理解できぬ話でも、皆は理解しているのだろう。それだけは察していた。

 置いてけぼりをくらったような気分になって萎れていると、寿貞兄は俺の乱れた前髪を整えながら諭す。

「彰寿、二度と柿の木を登ってはいけないよ。父上が大切になさっているのもそうだが、枝が折れやすい。落ちて怪我する前でよかった」

「本当に。何かあったらと思うと」

 母が抱きしめてくる。少々苦しかったが、その身体がわずかに震えていたので何も言えなかった。

 後に、自分には上にもう一人……生まれてこなかった姉がいたことを知り、何故母がここまで自分に対して過保護であるのかを理解した。

 母は待ち望んでいたその子を失ったことを心から悔やんだ。だからこそ、もう望めぬだろうと諦めていたところに生まれた俺を、姉の分まで愛情を注ごうとしたのだと。

 それも、俺だけ後で知らされた、大人たちだけが共有する秘密だった。

「本当に、本当に、もうこんなことしてはならないわよ、寿史さん。お父様のお耳には入れないでおくから」

 母は俺をかばうようにしながら念を押す。しかし、次兄はどこ吹く風と言わんばかりに、無言で笑みを返すばかりだった。

「知られたらきっと、また雷を落とされるな」

 寿貞兄のからかいに、寿史兄は涼しい顔をしてみせる。

「慣れてしまいましたとも。これだけ落とされたら、俺の未来はきっと実り豊かなものになるでしょう。どうぞご期待を」

「もう、寿史さんったら」

 困った母を横に寿貞兄は苦笑し、俺の肩を叩いた。 

「彰寿、寿史の話は二割だけ信じるようにしなさい」

「兄上、いささか少なくはありませんか。せめて五割ほどは」

 次兄は愉快そうに抗議の声をあげる。その表情を確認し、長兄も可笑しげに唇を歪める。

「それでは多すぎるだろう。この間の貸しも結局返してもらっていない覚えがあるのだが」

「それはそれは。ついでに言葉も返さないでおきましょうか」

 長男次男のやりとりを見つめながら微笑していた母は、不意に空を仰いだ。見ると、雲が先ほどよりもずっと早く、空を横切るようになっていた。

「皆さん、風が出てきたわ。もうお入りなさい。寿貞さん、寿史さん、もうじき先生がお見えになる時間ではなくて?」

 兄たちは、ともに教師をつけられていた。自分だけ歳が離れているので同じように学べないことを、俺は不満に思っていた。

 自分も共に、と言うと、二人の兄はにこにことしながら順に俺の頭に手を置き、家に入っていく。

 やはり一人だけ仲間はずれ。不満に思う末息子の膨らんだ頬をそっと撫で、母は優しく語りかけた。

「さあ、彰寿さんも入りましょう。いずれ、お兄様方と同じようにお勉強できるようになるわ」

 母に手を引かれ、俺も後に続いた。

 一度だけ振り返る。柿の細い枝が、微かに揺れていた。

 その後、次兄は家を無断で出た。軍人になりたくはないと言って。

 父の怒りは甚だしく、勘当だと二度も三度も唸るように言い、卓を何度も叩いた。あそこまで感情を露わにする父を見たこともなく、怯える俺を長兄と母が隠すように別室へと連れていった覚えがある。

 それからしばらくして、父は俺を軍人にすると宣言した。幼年学校から入るよう手筈を整えるとも。

 それだけはどうか容赦を、と母は泣いて懇願した。母方の祖父である伯爵は、俺をどこか縁のある家の養子に出す算段をしていたため、やはり良い顔はしなかった。

 父はまず舅である祖父を説得し、俺を軍人にすることの必要性への理解を得た。そして、今度はなし崩し的に母に認めさせた。

 大量の教師をつけられた俺だったが、軍人への道を拒む考えはまったくなかった。父の期待に応え、自らの力を発揮するのだと思うと、知識は面白いほど頭に入った。

 寿史兄は元より、外国に関心があった。家にいた頃はよく、地図や舶来品を見せながら、俺に各国の話をしていた。その影響があり、俺も欧州などに興味を示すようになった。

 その次兄はと言うと、俺が学校に入ってから面会にやってきて数年ぶりの再会を果たした。

 押しつけてすまない、と謝るあの人に何と返したかはよく覚えていない。ただ、俺への罪悪感に満ちた目だけは忘れられない。

 以後、次兄は時折俺の様子を見に来た。結局、家を出たはずのあの人と顔を合わせる機会が最も多かったのは、皮肉な話である。



 そんなことを思い返しながら微笑し、俺は約束の場所に向かう。すると、何故か兄の隣に、いてはならないはずのお方の姿が確認できた。

 予想だにしていなかった光景に、数秒硬直してしまったのが敗因だ。踵を返すと同時に捕まってしまう。その瞬間、今日が我が人生最大の厄日であることは決定づけられた。



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