第十五話 くるっと回ってまたここに
映果さんに呼び出されたのは、日本の中心地と呼べるオフィス街にほど近い場所だった。大型の商業施設があるせいか、週末といっても人が多い。
周囲を見渡していると、道端でこちらに背を向けて立っている男たちに目が留まった。その隙間から見覚えのある帽子を発見する。
あの人は、何をやっているんだ。
俺はすぐに駆け寄る。向こうも気がついたようで、丸い目をこちらに向けた。
「ごめん、お待たせ」
振り返った彼らは、声の主である俺を見上げてぽかんと口を開けた。
「遅い! じゃあ、失礼しまーす」
映果さんはわざとらしく腕を絡ませてくる。ただ、慣れてないのかどこかぎこちない。ちょっと腕を動かしてやると、隙間を埋めるようにがっしりとホールドされた。
彼女に押されるようにしてしばらく歩いていると、突然ぱっと身を離される。
「よかった。困ってたの」
「あの人たちは?」
「ただのナンパ」
ナンパ? 怪訝に見る俺に、映果は苦笑する。
「ほら、私って美少女のお嬢様でしょ?」
「ああ……言われてみれば」
自分で言うか。そう思っていると叩いてくる。心を読まれたようだ。
その、自称美少女のお嬢様は楽しそうに笑う。
「姿はまるで違うのに、あの頃のままだったね、君」
「どういう意味ですか」
「ほら……僕がどこかの店に入って君を呼び出すだろ。それで、扉から入ってきた君はすぐに僕を見つけて」
ニヤリと俺を見上げる。
「さっきみたいに怖い顔でつかつかと高速で歩いてくるんだ」
そんなに怖いか?
「彰寿の頃は気にならなかったけれどね、結構険しいんだなあ」
「うるさいですよ」
亮様モードになられると、どうも対応しづらい。彰寿としても智樹としても中途半端なものになる。
「でも、今は大柄だから助かるな。ボディーガードみたい」
「……今度から、人が多いところでの待ち合わせはやめましょう」
前世では必ず、俺でなくても常に誰かが側にいた。しかし、今のこの人は自由な身分になった代わりに無防備なのだ。失念していた。
「迎えにきてくれるの?」
「運転手はできませんよ」
「免許取ったんでしょ、どこか連れて行ってよ」
「だから、運転手はやりませんったら」
ケチ、と手をつねられる。爪を立てないでほしい。
ああ、どうして前回も今回も反撃できないような立場に生まれるかな。前は絶対逆らえない存在で、今は一応か弱そうな女の子だ。
「髪、ちょっと変えたんだね。一瞬、びっくりした」
「ああ。あなたが菊川に何やら言ったから、カットモデルという名の実験台にさせられたんですよ。ちょっと切っただけですけどね」
映果さんは愉快そうな顔を俯いて隠す。帽子のつばがあるから、俺からだと完全に表情が隠れてしまう。
彼女は俺を誘導するように歩いた。
この近辺に来るのは初めてではないが、なんだか落ち着かない。行き先がわからないせいだろうか。空気に物々しさを感じてしまう。人通りは少なくないというのに。
「あ、そこ右ね」
「それで、結局あなたはどこへ行くおつもりですか?」
「ちょっとそこの喫茶店へ」
指した先は、広い通りに面したビルの二階。ただのチェーン店だ。
「あそこ……ですか?」
「そう、あそこが一番いいの」
意味がわからない。あんな店、どこにだってあるじゃないか。わざわざこんなところまで来なくても。
溜め息をつきながら入店する。この辺りに来ると完全にオフィスだけになるからか、道にいる人影に比べると、思ったよりも客が少ない。うちの近所にある同チェーン店に比べると、あまり生活感のない空間だ。静かで、空気もどこか非日常的だ。
映果さんは窓際の、外がよく見える席を指定した。そして俺の表情を窺う。
「何でこんなところにって思っているかい? じきにわかるよ。それまでは雑談に付き合っておくれね」
釈然としない。けれども、前世のあれこれを差し引いても、頼みごとをしている立場だ。おとなしく従うことにする。
俺の胸の内を察したのか、かつての主は薄く笑う。
「実は、会いたい人がいるんだ」
「待ち合わせですか?」
「どちらかというと、待ち伏せ」
誰だろう。もしかして、その相手が寿貞兄上なのだろうか。
映果さんはちらちらと道を見下ろすが、待ち人はなかなか来ないようだ。
雑談と言っても、あちらが何も口を開かないので、じれた俺は切り出す。
「……あの、いくつかお尋ねしたいのですが」
「どうぞ」
「寿史兄上が……何故亡くなったか、ご存知ですか?」
映果さんは、スプーンでカップの中身を混ぜながら、俺を見上げる。
「僕が死んだ後の話だから伝聞になるが、飛行機での事故だそうだ」
「事故……」
どうやら、四十かそこらで亡くなったらしい。ついに妻は持たなかったのだとか。
「もうそろそろ現地行きは人に任せると話していた矢先のことだったとか。遺体は……戻らなかった、かもしれない」
話を聞いているうちに、鼻の奥が痛くなる。
俺のことをからかって、ちょっと危ういことにも通じていた。呆れるところもあったが、楽しいことをたくさん教えてくれた。鈴森家の面々は軍学校に来なかったが、唯一面会にやってきた。あの人なりに心配してくれていたのだろう。そんな次兄の顔も、もうずいぶんおぼろげになってしまった。
「鈴森子爵も、息子二人に細君を亡くして、すっかり弱ってしまったみたいだ」
「父が?」
軍人への道を嫌って寿史兄上が出奔したとき、父は烈火のごとく怒り、成人したら直ちに戸籍から抜いてやると宣言した。そして数年後、本当に実行した。母はおろおろとしながら許しを懇願したが、父はどうしても曲げなかった。
一方寿史兄上はというと、鈴森の家にはいっさい近寄らなかった。こっそりと兄弟間のやりとりがあったくらいで、父とは絶縁していた。里津子さんですら面識はなかったはずだ。
「実は君の死後……いや、正確には君の母上の死後か。勘当を解いたんだよ」
驚くべき言葉が出た。ああ、だから、霊園であのとき……。
縁が復活した二人は、いったいどんな会話をしたのだろうか。それを、寿貞兄上たちはどのように見つめていたのだろう。
俺の知らない鈴森の家族の出来事。考えると苦しくなって、俺は水をがぶ飲みした。
ふと感じるのは、静かな視線。
「僕もひとつ尋ねていいかい」
「どうぞ」
「彰寿、君は自分の死を悔やんでいた?」
だんだんと冬へと向かっていっている世界に目を向け、俺は数秒置いてから息を吐く。
「悔しい、と思いました。何もできず、こんな馬鹿らしいところで死ぬ自分が、とても情けなくて……。死ねない、と」
その無念さが俺を生まれ変わらせ、高山田への復讐の機会を得るに至った。この人には言えないが、夏のあの日、俺は本気でそう思った。そうすることで、俺はようやく、綺麗に彰寿としての生をまっとうできるのだと。
結局、それは失敗に終わり、今でも前世と現世の狭間でゆらゆら彷徨っているわけだが。
俺の答えを聞いた映果さんは、長い睫毛を見せるように伏し目がちになる。
「そうか」
「何故そんなことを?」
猫のような瞳が俺を捉える。
「ねえ、彰寿。あの世って、死後の世界……いや、死者の国って本当にあると思うかい」
「は?」
「伯母上が言ったんだよ。死の直前に」
――死ぬのは怖くないわ。だって、あの子にまた会えるでしょうから。
病で顔は白く、腕も一段と細くなって。そんな映果さんの語りに、俺はあの母の姿を思い浮かべる。
「ねえ、君は生まれ変わる前にあの人の魂に会ったかい」
「……いいえ」
彰寿としての生を終えた後のことは、まったく意識にない。気づけば俺は松井智樹として生きていた。自分がかつて鈴森彰寿という名であったと自覚なしに。
「ようやく最愛の末息子に会えるって信じていたのにね……」
そして、と続ける声は喉をつぶすように発せられる。
「死したはずの我々は、今こうして再び生を受けている。ここは現世……生者の世界であって、同時に死者の世界でもあるんだろうって思うんだよ。死んだら、生まれ変わって……ただ、みんな自覚していないか、隠してるだけかもしれない」
父も母も次兄も義姉も……俺と縁のあった人たちもまた、死後またこの世界のどこかにいるというのだろうか。こうして高山田やこの人とも再会したのだから。
「不思議な話をしていますね、俺たち」
「そうだね、前世のときは表立ってできなかったかもしれないね。別にいいと思うけれど」
そのとき、ちらちらと窓の外を見ていた映果さんの目が突然大きくなる。
「……来た」




