第十三話 死しても猶
小寒に入って数日。その日は、朝から高山田の様子が妙だった。
他者と比べるのならばいつも異常だが、平時の彼と比べてもたいそう奇妙な様子であった。
何につけてもまったく身が入った様子はなく、教官からの叱責にすら上の空だった。日課と化している、鬱陶しいこと極まりない布教活動もまったく行う気配がない。
言わばただ亡霊のようにそこにいるだけであった。
元より不気味な風体の彼だが、そうやって心あらずの様子で佇まれると、人間ではない別の何かのような有様だ。吐く息の白さでさえ、何やら奇怪な力が込められているようにも思えた。
立身出世のため勉学が生き甲斐のような男にしては珍しい事態だ。ひそかに翌日の天気を心配した。雪に降られたら厄介だと。
「一体どうしたというんだ」
彼の友人である藤堂がしきりに尋ねたが、押し黙っている。それでも藤堂はしつこく、ようやく高山田は重い口を開いた。
「祖父が、死んだ」
素知らぬ顔でいながらも聞き耳を立てていた周囲は一斉に静まる。
どうやら、数日前に危篤との知らせが来ていたそうだ。しかし、高山田がすぐに帰れるわけもなく、二の足を踏んでいるうちに続報が届いてしまった。
郷里への帰還を望めど、己の力だけではどうにもならぬものもある。それは彼自身も理解している。しかし、詮ないことと納められはしまい。
困窮した家の長男である高山田は、高等教育を諦めて働きに出る心算でいた。しかし、そんな彼の才覚を惜しみ、この軍学校に入るよう背を押したのが、こたび亡くなった彼の祖父なのだと聞いている。
それゆえ、高山田は祖父に多大なる恩を感じ、親兄弟以上に気にかけていた。そんな存在を亡くしたのだから、あのように沈むのも道理であった。
ちょうど俺も先日、自分の祖父を亡くしたばかりであった。高山田は好かぬとも、ざまあみろなどと思う気持ちはない。大事な身内を失う心は理解できたから。
ただし、その場にいた全員が俺と同じだとは限らなかった。
「一大事だ、戻ればいい。そのまま向こうに残ってもよかろう」
「ならば、ここも清々しくなるな」
誰かの言葉に、忍び笑いがあちこちから漏れる。ただでさえ温度の低いこの場が、より寒々しくなった。
高山田の顔がみるみるうちに赤くなる。ぐっと全身に力を入れ、こらえているように見えた。
俺でさえ言わないでおいていることを、よくもまあ。
呆れていると、思いがけず後方から言葉をかけられる。
「貴様もそう思わんかね、鈴森」
どうやら高山田と最も折り合いの悪い俺を引きこみたいと見える。恥を知れ、下司が。
「生憎、不幸があったばかりの人間に石を投げるのを娯楽にするような、卑しい趣味はないのでね」
振り返りもせずに答えてやると、不服の気配が背にまとわりついた。嗚呼、同期に恵まれぬ我が身の恨めしさよ。
ふと、視界に影が現れる。見ると、高山田の巨体が眼前にあった。
「何だ」
爬虫類のような目が冷たく俺を見下ろす。
俺は睨み返してやる。感謝されこそすれ、そんな顔を向けられる謂われなどない。相手を間違えてやしまいか。
「もしや、己の祖父と重ねたか」
俺は眉をひそめる。
ぎり、と噛む歯が、彼の唇の隙間から覗いていた。
「俺の祖父は、貴様のところのように立派な肩書など持ってはおらんさ。だからこそ、一緒くたに思われるのは俺にとって最大の侮辱である」
「またそう、卑屈なことを」
彼こそが己の祖父を侮辱している、と俺は舌打ちをする。そんな俺を見て、彼はさらに苛立った様子を見せる。藤堂が宥めようとするが、まったくの無視だ。
「貴様にはわからんさ」
「何が」
「俺を憐れむな。貴様からそのように思われるなど不愉快極まりない」
俺は腹の底で淀む空気を吐き出した。
「せっかく火から逃してやったのにわざわざ飛びこんでくるか。そのほうがいいと貴様は言うのだな。ならば、お望み通りにしてやろう」
自らを傷つけるようなことばかりのやつだ。俺はわざとらしく鼻で笑ってやる。
「祖父君も幸いなことだな。貴様の、妄執に狂った現在の姿などご覧になったら、きっと東京に出したことを後悔なさっただろうさ。これならば家に留まらせるべきであった、とな。ある意味孝行したと思えばいい」
その刹那、拳が飛んできた。
「なんちゅうた? こん……やせがます!」
俺は痛みの広がる頬を押さえながら、吐き捨ててやる。
「……お国言葉で罵られても、俺には理解できんな。普通に話せ、普通に」
激昂した彼を阻んだのはおなじみの佐藤だ。そして、いつものように前原が間に入ってくる。
「こんなときくらい喧嘩しなくてもええやろ」
「俺は売られた喧嘩を買ってやっただけだ」
「鈴森、貴様は石どころか岩を投げとるやないか」
「投げろと言ったのはあいつだ。本人のご要望に従った、ある種の奉仕精神さ。俺の趣味ではない。自らの楽しみのためだけにやった、そこらの雑草と一緒にされてもな」
ああ言えばこう言う。前原は生え際のほくろまでもが動きそうなほど、盛大に顔をしかめた。その横で、佐藤と結城が二人がかりで暴れる高山田を抑えつけていた。
「死んでしまえとは言わぬだけ、俺は気を使ってやっていると思うがね」
そう付け加えると、その爬虫類顔の表情はますます険しくなる。俺は綺麗に笑んでやった。
「ここで憤る暇があるのなら、故郷に帰るか勉学に励むかのいずれかにしろ。供養にならんだろ。俺に絡むな」
せっかく距離を置いてやったのに、恩知らずなやつめ。
卑しいと蔑んだ者どもと同じ土俵に立ってしまった。忌々しさが曇天のように俺の心に広がる。それはなかなか晴れず、長いこと残っていた。
目の前に、天井が広がっている。松井家の自室だ。
もう、鈴森の家で過ごした部屋の詳細も忘れてしまった。軍学校のほうがまだ記憶にある。
高山田とのやりとりを夢でみたのは久々じゃないだろうか。
俺も俺だが、やはり高山田は不愉快なやつだ。どこがどうなったら、今の菊川になるのだろう。やっぱり全然違うな。それならまだ、あいつが前原の生まれ変わりと言ったほうが信じられる。前原はこの永喜の世でも存命だが。
かく言う俺は、今、はたしてどれくらい変化したのだろうか。
菊川は、別の人間として新たに生きようとしている。それ以上に、映果さんは自分の人生をおおいに楽しんでいる。
俺は、松井智樹としての人生をどう過ごす?
ああ、寒気がする。俺だけ、まだあの冬の銀座に取り残されているようだ。
カレンダーを見やる。秋ももう去ってしまう。そしてまた冬がやってくるのか。
いつか、亮様が仰った。
――春が近づけば、冬だって惜しくなるよ。
鈴森彰寿にその後春は訪れなかったが、松井智樹としては二十回近く春を経験している。けれども、やっぱり冬は好きになれない。むしろ、ますます苦手になった。
寒くて、凍えそうで、静かで、孤独だ。銀座のあの日のように。
何もない、寂しい時期だ。命が散り、あるいは眠る季節。今でこそ浮かれた行事があるが、俺にとっては色あせた時間としか思えない。
冬など、来なければいいのに。
秋の終わりを意識すると、いつも憂鬱になる。
前世の記憶という、常人にはないものを持っているとは言っても、季節を動かす力などさすがに持ち合わせてはいない。
ただひたすら、縮こまってみっともなく、季節が過ぎ去るのを待つしかない。
俺は一生、冬が嫌いに違いない。きっと、もう一度生まれ変わったとしても、やはり冬を嫌うだろう。そう確信した。
春が待ち遠しかった。




