第三話 他所の家には帰れません
彰寿の死後のことを知ってからしばらくは苦悩した。
何故、革命という国の難事に自分は不在だったのか。
何故、あんなところであっさりと死なねばならなかったのか。
何故、この時代になって再び生を受けたのか。
何故、記憶を取り戻したのか。
今さら過去には戻れない。生まれ変わっても俺には何もできぬのだ。ただの無力な子供でしかない。
高山田を殴りに行きたくとも、彼はもうこの世にいない。せいぜい呪いの言葉を吐きながら墓に水をぶちまける程度のことしかできない。
この悔しさを、この辛さを、どうすればいい。
鬱屈した思いを心の中に漂わせ、俺は家と中学を往復する毎日を送った。
ふと道を尋ねられたのは、ある日の夕方、学校から最寄駅に向かう途中だった。
「すみません、ここに行きたいんですけれど」
まだ通学路を覚えただけで、現代の土地にも明るいわけではない。でも、そっけなく「知らない」と言うのも抵抗があった。
女性が差し出してきた地図と睨み合う。
「この道が、地図だとこの線になるんですよ。だから、あの信号を曲がって――」
ふと、紙の上に見つけた、霊園の文字。
「あ」
「え、どうしました?」
いえ、と俺は首を横に振り、続きを教える。
動揺を抑えようとしても、脈動の音は激しくなるばかり。
彼女に手を振ったあとも、俺は駅へと歩いていけずに、立ちすくんでいた。
そうか。このあたりだったか。何故気づかなかったのだろう。
学校から駅とは反対方向に歩いて約十五分。そこに、鈴森家の墓がある。
行ってどうする、と自分に問いかける。
頭が痛い。自分の中にいる彰寿が騒いでいるようだ。
俺はよろめくように、一歩踏み出した。駅の方角に背を向けて。
景色はかなり変化していたが、面影は微かに残っている。記憶を頼りに進んだ。
家族と並んで、彰寿もこの道を歩いた。あのとき踏んだ石の一つや二つは残っているかと思いきや、残念なことに道は完全に舗装されてしまっていた。ただ、霊園自体はあの頃の姿を概ね留めていた。
敷地内に入った途端、大きな木に目が留まる。
覚えている。これは、俺が彰寿として生きていた時代からあった。その重そうな枝をくぐり抜け、急かされるように先へ向かった。
幸い、鈴森家の墓は、昔のままそこにあった。石に刻まれたかつての自分の姓に、ほっとした。ようやく前世と現世がつながったような心地だった。
彰寿も、ここに眠っていることになるのだろうか。
ふらふらと近寄ると、後ろから声がした。
「おや、どちらさまですか?」
振り向くとそこに自分がいた――かと思った。
怪訝そうにこちらを見る女の子。芹花と同じくらいだろうか。
その顔には馴染みがあった。
そう、鈴森彰寿をさらに女性的にして、ちょっと薄くしたという印象。特に、やや不機嫌そうな表情が、彰寿によく似ている。
彼女の横にいたのは、白髪交じりの男性。五十代半ばくらいか。こちらもなんとなく見覚えがある気がしたが、即座には思い出せなかった。
彼は俺の制服を見て、納得したように頷く。
「ああ、あそこの生徒さんですか」
「えっと、俺は鈴森彰寿の……」
生まれ変わりで、自分の墓を確かめにきた、とはとても言えない。
言いあぐねていると、彼はやわらかく笑んだ。
「ファンですか?」
ファン……ではない。違う。しかし、どう説明すべきかわからない。
「あの、もしかして、鈴森家の人ですか?」
女の子の顔を見つつ、つい質問で返してしまった。
彼女はますます不快そうな様子を見せるが、対照的に男性は穏やかな笑顔で頷く。
「はい。私は彰寿の、甥にあたります」
俺は息をのんだ。
「ということは、寿、も、と……」
「おや、ご存知ですか」
知っているも何も! 寿基は、彰寿の長兄である寿貞の息子だ。
彼は彰寿が軍学校の寮に入っている間に生まれたため、さほど交流はなかったけれど、実家に帰るたびに遊んでとせがまれた。彰兄様、と可愛らしい声で。
「叔父のファンでも、私のことをご存知の方はなかなかいらっしゃらないので」
そう言って苦笑する顔に、兄や父の面影がある。
あのちびが、もうこんな歳になったのか。こんな立派に育って。
胸に切なさがじわじわとにじむ。
「せっかくですからどうぞ……。どなたでも、来てくださるのは嬉しいので」
「私は嬉しくありませんけど」
女の子が小さく呟く言葉に、どきっとする。少々怨念がこもっていないか?
「万葉子、やめなさい。すみません、娘が失礼を」
娘、か。寿基の年齢を考えたら、遅くにできた子なのかもしれない。
「だって、お父様。彰寿さん関わりで来る人って変なのばっかり」
万葉子ちゃんとやらの眉間の皺がすさまじいことになる。高山田と一緒にいたときの彰寿も、きっとこんな顔だったに違いない。
「変なの?」
警戒するような目で、彼女は俺を見つめる。
「いきなり泣きわめいたり、気持ち悪いもの置いていったり、撮影したり、劇したり」
「は?」
意味がわからない。げ、劇……?
彼女は頬を膨らませる。
「彰寿さん、女の人のファンが多いんです。それで、よくわからない人たちも出てきて」
歴女という類のものとは、異なるのだろうか。俺もよくわからないが。
「ちょっと、迷惑してます。掃除はこまめにしなきゃいけないし、他のお家からは苦情は来るし、移す話も出たくらいで」
そこまで一気に喋ると、万葉子ちゃんは恥入ったように俯く。そんな娘の頭を撫でると、寿基は俺に向かって頭を下げる。
「失礼しました。こら、こんなことを他所様にべらべらと喋るものではないよ。困ってしまうだろう」
その何気ない一言に、固まる。
――他所様。
かつての甥の発言に、突き放された気分になる。
俺も、鈴森家の人間だったのに……。
こちらの心など知らずに、寿基は苦笑する。
「まあ、誰かの心に叔父の名が存在しているなら、ありがたいと私や父は思うことにしています」
あんなところで死んだのにファンが存在するのか。俺の周りでは革命時代に関心を持つ人間が少ないから、驚いてしまう。
先に拝礼を終えた寿基らに促され、恐縮しつつ俺は前に進む。改めて見ると、彰寿が生きていた頃とだいぶ様変わりしていた。彰寿の祖父にあたる人の墓だけが懐かしく思えた。他は近年新しくしたようにも見える。
ここに、かつての俺が収まっているのか。今は朽ちて骨となって。
掌が合わさった瞬間、自分が震えているのがわかった。
何故、俺は今、こんな形でここにいるのだろう。
他人のふりをし、彼らに遠慮して。
本来なら安らかに眠っているはずだ。それなのに、俺は今、ここに立っている。
墓に収まっているのは、ただの彰寿の抜け殻でしかない。
「どうも、ありがとうございました」
歯を食いしばりながら立ち上がり、寿基と万葉子ちゃんに頭を下げる。
「いえいえ、こちらこそ。叔父もきっと喜ぶでしょう。あんな亡くなり方でしたが、今はもう家族もほとんど逝ってしまいましたし、あちらで皆で仲良くやっていてくれればいいのですが」
あちらどころか、今、君の目の前にいるとも。
皮肉が浮かんだそのとき、彼の言葉が引っかかった。
「家族? 皆?」
寿基は笑みに悲しみを混ぜ、墓誌を見やる。
俺は呼吸を忘れた。
その、彰寿の隣に刻まれた文字。とっさに近寄り、その凹みを指でなぞる。
背中がさっと冷えた。
「あ、あの、これは……この人たちは……」
ああ、と寿基が説明する。
「その、孝子というのが私の祖母、彰寿の母親にあたります。叔父が死んでから、後を追うように亡くなりました。あの人は叔父を溺愛していて……」
「後を追うって、いつですか? いったい、どういう状況で? 何があったんですか? 他の人は?」
我も忘れて矢継ぎ早に質問する俺の勢いに、寿基親子はそろって怯んだ。万葉子ちゃんは父親の袖をぎゅっと掴むのが目に入っていたが、構う余裕はなかった。
俺の正体など知る由もなく、丁寧に説明してくれる寿基の声。それは、やけに遠く感じて、頭に入ってこない。かろうじて、母も父も、次兄の寿史も既に土の下だと理解できた。
――皆、死んだ、のか?
俺の中の何かが崩れる。
あれから何十年経っているのか、わかっている。わかっていた……つもりだった。
けれども今、俺は教科書とは比べ物にならないほどの現実を突きつけられている。
あの幸せだった鈴森の家は、もう存在しない。
「あの、大丈夫ですか?」
まだ恐れの色を顔に残したままではあったが、万葉子ちゃんが気遣ってくれる。
「平気です」
全く平気ではないのに、俺は唇を噛みながら強がってみせる。
「あの、寿貞……さんは、お元気ですか?」
「え? はい、まあ」
「奥様の、里津子さんは?」
「存命ですよ。二人とも、もう高齢ですけれども」
一瞬、寿基の笑顔が切なさを孕む。
俺は在りし日々を思い出した。
少し年齢が離れていた長兄の寿貞は、彰寿のことを可愛がってくれた。その妻である里津子さんも、何かと気にかけてくれた。
この英喜の世で、あの人たちはまだ生きているのか……。
ああ、お会いしたい。彰寿はここにいると、直接告げたい。
俺はすがるような目で、寿基たちを見つめた。しかし、彼らは不思議そうに首を傾げるのみだ。
この状況で、会わせてくれと頼む勇気はなかった。端から見れば何の縁のない一介の中学生があの人たちに会う名分など、何ひとつ思いつかない。
家族に会うのに、理由など不要なはずなのに。今の俺には見守ることすら難しいことなのだ。
「そうですか……もう行きますね。すみません、お邪魔して」
一礼して段を下り、二歩ほど進んだところで、ひとつの疑問が浮かんだ。
俺は振り返り、困惑した二つの顔に問いかける。
「鈴森のおうちは、まだ高輪にあるんですか?」
思ってもみない質問だったのだろうか。寿基は数度瞬きをする。
「……いえ。革命後、移りましたので」
その言葉で、最後の希望が断たれてしまったような心地になる。
生まれ育ったあの家も、もうないのか。昔、庭で遊ぶのが好きだったな。寿史兄上に唆され、柿の木に登って叱られたこともあった。そういえば、渋柿なのに一度騙されて食べさせられたな。
「新しいおうちにも、柿の木は、ありますか?」
無意識に口をついて出た問いに、万葉子ちゃんは表情を硬くしていた。
「どうしてそんなことまで……」
呟く声は、不審の色に染まりきっていた。
「万葉子」
「でも、お父様。他所の人にいろいろ知られているのって」
小さな顔を寿基の背に隠しながら、精一杯の警戒心を向ける。窘めつつ、寿基はもう一度俺に謝る。俺は力なく首を振り、気にしないでくれと答えた。
俺はもう他所の人……彼女の言うとおりだ。これ以上詮索したら、怪しまれるに決まっている。今はどこに住んでいるのかなどとも、彼らに尋ねることも憚れる。そもそも、今はもう、万葉子ちゃんのように、俺の知らない鈴森家の一員だっているのだから。
そんな彼女を見つめると、怯えたように硬直する。俺が自分の大叔父の生まれ変わりとも知らずに。
「ありがとうございました」
「あの……」
慌てたような寿基の呼び止めの声も無視し、俺は早足で駆け去った。
これ以上あそこにいたくなかった。これ以上誰にも会いたくなかった。
――もう、あの家には帰れない。
俺が知っている鈴森家はもう存在しない。俺はもう「他人」なのだ。
彰寿であった頃は、軍学校までは寮生活、卒業後は外に居を構え、いずれにせよめったに帰らなかった。けれども、あそこにはいつでも帰れると思っていた。
ああ、あの頃は幸せだった。ずっとそれが続いていくものだと思った。こんなことになるなど、想像もしていなかった。
けれども、彰寿は死んで、松井智樹に生まれ変わった。
俺は、前世の未練に引きずられ、現世を歩めない。
はたして、転生した意味はあるのか?
人生をやり直すため? 高山田に復讐するため? 平民派を見下した罰? まったく見当がつかない。
何故こうなってしまったのだろう。何故こんな世界に生きているのだろう。
自分が死に、再び生を受けるまでの間に何が起きたのか、知るのが怖かった。耳をふさいで、目を背けたい。
後ろには戻れない。けれども、前にも進めない。
迷子になるとは、このような心境なのだろうか。
こんな未来、嫌だ。どうすればいい。
途方に暮れる。
受け入れられない、彰寿が死んだ後の歴史。それは、俺にとって、過去なのか未来なのかもよくわからない。
その日以来、よけいに前世への恋しさに取りつかれるようになったように思える。
荒れる俺の心を慰めたのは、革前時代の写真集や文化を記した本だった。彰寿がかつて愛していた輝かしい時代の文化を無意識に追い求めていた。
自分が哀れだと思いつつも、懐かしくて何となく心が慰められるのだ。
そうして買い集めた本が棚を埋めていった。それに加え、革前時代の軍や華族を中心とした事情に詳しいから、いつの間にか革命オタク――略して革オタ――と呼ばれるようになった。
銀座事件以降のことは知らないので、本で知識を仕入れるより他なかった。けれども、自分が不在のまま進行していった歴史を知ると、そこに関われなかった歯がゆさで胸を掻きむしりたくなった。
俺の所属していた聯隊は、犠牲こそ少なくなかったとはいえ、目覚ましい活躍をしたと聞く。
本格的な戦いの時点で、鈴森彰寿が既に過去の人物になっているという現実を受け入れられず、かつて下に見ていた同僚たちさえ嫉妬の対象になった。
そうして苦しくなるから、革命以後の資料は遠ざけるようになった。彰寿の生きていた時代だけを懐かしみ、目を逸らしつづけている。正確には革命オタクと言えない。
そんな俺の事情をわかる人間などいない。否定するのも面倒なため、そう呼ばれるのに甘んじ、俺はいっそう鬱々とした日々を過ごした。