第十一話 外堀を埋められたら掘り返そう
我が家で三度目の講座が催されたのは、お茶会とやらからしばらく経ってのことだった。
「さすがにこの時期になると、涼しいですね」
と言いつつ、映果さんは、つばの広い帽子をかぶっている。本人いわく紫外線対策らしいが、もうすっかり秋じゃないか。
今日のテーマはカフェドリンクだそうだ。
母さんは芹花が中学に入ってから、友人のカフェを手伝うようになった。平凡な我が家にやたら道具や材料がそろっているのは、そのおかげだ。
映果さんと俺は隣り合わせで座るように指定された。どうやら、万葉子ちゃんはまだ勘違いしているらしい。
必要ないんだよ、我が大姪さん、俺とこの人はそういう仲じゃないんだから。
念を送ってみるが、彼女は母さんとの話に夢中だった。もしかしたら、講座自体が楽しくなってしまったのかもしれない。
「実は、来年は学校にかけあってカフェをやりたいんです。高校最後の思い出に」
「うちの学校じゃ厳しいから、料理部に入ったほうがいいって話したんですけれどね」
やれやれ、と映果さん。
「ちゃんとした模擬店やりたいんですけれど、高校生の文化祭はそんなものじゃありませんってうるさいんですよ、うち」
そんなことに力を注ぐくらいなら、うちの愚妹矯正プロジェクトでも実施していただきたいのだが。
「運営も料理も勉強になるから、という名目ならなんとかなるかと思うの。お願い、映果も協力して。奥様にももっとお話を伺いたいと思って」
やっぱり、まだ狙っているみたいだ。
困った。本当に困った。妹の思い人でさえなければ、菊川と映果さんをものすごく応援したい。
奥様という呼び方が気に入った母さんは、すっかりご満悦だ。
「裏メニューってあるんですか?」
「あるわよ」
母さんの店の常連さんたちは、不思議な注文をすることがある。
ココア入りのカフェモカにオレンジピールを添えた『オランジェット』。豆乳に黒蜜を混ぜてきなこを振りかけた『豆乳プリン』。
「あと、『ほぼミルクティー』!」
「ほぼ?」
ミルク大好きの、超甘党客のために作っているメニューだ。
濃いめのアッサムティーを一割、あとの九割はミルクという配合にして、仕上げに砂糖をティースプーンで適当に四杯ほど。激甘の一品だ。
「お砂糖を、そんなに……?」
「ちなみに、てんさい糖ね。九割がミルクだから、ほぼミルクのお茶」
「美味しいんですか?」
母さんはにこやかに首肯する。まあ、変なものは入っていないし、ミルク大好きな甘党なら飲めるだろう。俺は好きじゃないけれど。
他にも、本来はデザートの飾り用にストックしてあった四種のベリーシロップ漬けで作る『ベリーベリーサイダー』やら、ミルクにカクテルフルーツと小豆をつっこんだ『しろくま』やら、ウインナコーヒーに胡桃と林檎の角切りとメープルシロップをトッピングした『カフェ・パンケーキ』やら。母さんの説明に、万葉子ちゃんのテンションがどんどん上がっていく。
しろくまなんかは、なかなか好き嫌いが分かれますよ……。一部の人にだけ好かれるから裏メニューなんですよ……。
「カフェ・ロワイヤルなんてどう? うちのお店でも期間限定のメニューなんだけど、受けがいいわよ!」
高校の文化祭じゃ、ブランデーはアウトだろうな。火もアウトかな。ツーアウトか。
「『ベリーベリーサイダー』みたいに、いろんな果物をつけ込むのはおすすめよ! あとは炭酸水入れるだけで立派な商品になるから。お手軽にバリエーション増やせる! サイダーだと甘すぎるから無糖の炭酸水ね!」
母さんの声に力が入る。俺も芹花も飲み食いばかりだから、アイディアや作り方で盛り上がれる相手がほしかったのかもしれない。
すこぶる楽しそうに話す二人を横目に、芹花は俺たちのことを窺ってくる。
「映果さんはお料理とかも得意?」
「まあ、苦手ってわけじゃないかな」
「習い事以外で趣味とかある?」
「あー、お散歩とか映画とか」
芹花は、しめたと言わんばかりにこっちに話を振ってきた。
「お兄ちゃん、この間映画借りてたよね」
「あ、その……学校の課題で、その、革命時代の」
万葉子ちゃんの前だが、彰寿を引き合いに出さなければ大丈夫、だよな。
映果さんは苦笑する。
「智樹さん、映画館よりも家で見る派っぽいですね」
こういう体格だと、映画館で見るとなると席が限定される。中学のとき三崎たちと行ったら、後ろの席の人に舌打ちされた。窮屈な思いするくらいなら自宅でのんびり見たい。こういうときばかりは小さいほうが便利だ。
そんな話をすると、映果さんはケラケラと笑う。そうだよな、彰寿は小さかったもんな。
「ね、映果さん、外部受験するかもしれないんでしょ? お兄ちゃんとこの大学も狙ってる?」
「行けたらいいなとは思ってるんだけど、どうかな? オープンキャンパスには参加する予定」
できれば、別の大学に行っていただきたい。
「でも、そうなると寂しくなっちゃうな。離れ離れだもん」
万葉子ちゃんがしゅんとする。そうだよな、寂しいよな。俺のせいで親友を奪うのはとても心苦しい。
「そのまま上の大学でもいいと思いますよ、槙村さん。鈴森さんもいるし、いい学校じゃないですか。それに、純粋培養のお嬢様っていうの素敵だと思います」
芹花が舌打ちをした。やめろ、エセお嬢様。
「シラバスだっけ? お兄ちゃんそれ見せてもらっていい? 参考になるから」
映果さんと二人きりならともかく、今は完全にアウェーだ。へたな反抗はしないほうがいいだろう。
俺は二階の自分の部屋まで取りに行く。
ふと、ズンズンと重い足音が追ってきた。考えるまでもなく、芹花だった。
「もうさ、いい加減にしなよ。何なの?」
「は?」
「映果さんのこと、どう思ってるの?」
「だから、そんな関係じゃないんだって。だいたい、お前思いこみ激しすぎ。鈴森さんのときだって、盛大に勘違いしてたじゃん」
「それはいいから! 既に映果さん、智樹さん呼びだよね。結構進展してるっぽい?」
「そりゃあ、松井姓が三人もいれば、名前呼びにもなるだろ」
「万葉子さんは、お兄さんって呼んでるよ」
わが妹がスッポンのように思えてきた。
「万葉子さんだって、革オタでも許すって感じじゃん。ここまでお膳立てされてるんだからさ、もうあとはお兄ちゃんの行動あるのみだよ。歩実さんは惜しいけど、こんなにハードル低いんだから、頑張ってよ」
「鈴森さんだって、さすがにクラスメートの兄を露骨に嫌ったりはしないだろ。大人の対応ってやつだよ。当たり障りなくさ。だいたい、菊川だってお前と桧山さんが腐女子だって知ってるけど、態度に出してないだろ。そういうもんだって」
「へ?」
芹花の顔が赤に染まり、次第に青へと変じる。
しまった、また口が滑った。秘密にしてあるんだった。
「今すぐ窓から飛び降りて! 両脚複雑骨折しろ! あばらもだ!」
「やめろ、バイトに支障出るだろうが」
芹花は小声で散々罵倒したあと、ゆっくりと下りていった。
「今見つかったみたい! 本当、お兄ちゃんったら整理整頓が下手で」
濡れ衣だ。身の周りを整えられないような人間に軍人は務まらんぞ。
妹の地声キャンセル力に感心しながら、俺はやや厚みのある冊子を取って階下に向かった。
女子高生三人は、大学の授業ってのが気になるのか、熱心に読みこんでいた。
「あ、この方の本、うちにありますよ」
万葉子ちゃんが指したのは、俺がうちの大学入るきっかけになった先生。あ、瀬戸さん元気かな。今でも革命狂かな。彼女にはとても会わせられない存在だ。
「万葉子の家には、革命関係の献本が多いんで」
映果さんがちらりと芹花と俺を見る。
芹花は素知らぬ顔で微笑む。さすが万葉子ちゃんと同じクラスでありながら革腐女子っぷりを露呈させないだけある。
「前原の小父様……えっと、大叔父の軍学校の同期の方がいて、大叔父が関わった本を送ってくださることも多いんです」
どうしてその名前がここで出てくる。
「ま、前原先生が?」
芹花、よせ、いろいろと危ない。
「あら、芹花さん知ってるの?」
「あ、え、お、お兄ちゃんの蔵書にも前原先生の本あるから……」
やめろ、俺はあいつの本の八割は認めたくないんだ。
「へえ、前原さんと鈴森ってそんなに仲良かったんですか?」
そう言う俺の笑顔もちょっと引きつる。
「大叔父が亡くなったときにお見えになって、それからのご縁だそうですよ。」
へえ……。
もっと詳しく尋ねたかったが、どこまでなら突っ込んでもいいのかわからず、躊躇してしまう。
本当は、寿貞兄上のことを聞きたくて仕方がない。
里津子さんも亡くなった。俺にとっての鈴森の家族といえば、あとは寿基とあの人だけだ。
どうなさっているだろう。彼女は絶対知っているのに勇気が持てずにいる。
「あの、お兄さん、大丈夫ですか?」
そんな万葉子ちゃんは、彰寿や鈴森の母によく似た眼差しを向けてくる。
「あ、いや、また詮索しすぎちゃった気がして」
とんでもない、と苦笑いで首を横に振る。
「お兄さんは、ただあの時代がお好きなだけってわかってますから」
それに、と万葉子ちゃんは微笑する。その笑い方が本当に母上にそっくりで、悪いと思いながらもつい見入ってしまいそうになる。
そんな彼女の視線の先には、親友である映果さん。
あ、そうだ。誤解してるんだ。違うんだよ、万葉子ちゃん。俺たちは、君のお祖父さんの弟と従弟の生まれ変わりで、しかもあんまりいい関係じゃないんだよ。
映果さんもさすがに遠慮があるのか、万葉子ちゃんへの振り回し具合は彰寿に比べたらおとなしいようだ。できればその優しさを、生まれ変わる前の俺も頂戴したかった。
その映果さんはというと、母の淹れた抹茶コーヒーなるものを飲んでご満悦だった。




