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第八話 幼き人の憧憬


 亮様を訪ねると、思いがけず、可愛らしいお出迎えを受けた。

「彰寿、ごきげんよう」

「おお、これはこれは康――」

 ご挨拶の途中で、とんでもない言葉を賜る。

「彰寿、兄上のことは亮と呼んでいるでしょう。それなら僕のこともやすしと呼んでほしいの」

 目を瞠って奥を見やると、涼しい顔をして座っている我が主が目に入った。弟君と俺を見つめ、にやりと笑う。

「ねえ、彰寿。よいでしょう? ずっと羨ましかったのだもの」

 邪気のない声が上ってくる。俺は膝を折り、視線を合わせた。

「畏れながら申し上げます。私は、血縁上の従兄弟という身分で幼い時分よりたびたびお会いする機会がございましたこともあり、兄上様のことをそのようにお呼びしております。強い強いご意向でありますゆえ。しかしながら、私といたしましては……」

「でも、僕だって」

 下を向いた丸い目が潤みはじめてしまった。

「おやおや、泣かせてしまったかい。これだから末息子は。幼い子への言葉を知らない。さて、誰に言いつけてみようかな」

 対するこの方の、何とも悪意のこもった言葉よ。妙に脚色されたら、俺どころか鈴森家自体が危うい。

 そもそも、今日ここへ来たくなどなかった。突如呼び出され、遣いに宥められながら嫌々参じたらこの流れ。

 俺の外出先がここだと知れたら、またあれにどのような言葉を投げつけられるであろうか。

「……では、他にどなたもいらっしゃらない場でのみ、康様と。貴方様と兄上様と、私だけの」

「本当?」

 満面の笑みになった弟君に、亮様は目を細める。その優しさの一割でも、俺に分け与えてくださればよいものを。

 康様は、亮様の異母の弟にあたる。直接の血のつながりはなく、俺にとっては亮様以上に気を使う相手だ。亮様をとても慕っておいでで、会うたびに甘えたり、何かと真似をしたがったりする。

 本日も、久々に時間が合ったとのことで、わざわざ離れて暮らしている兄君のところまでおいでになったのだという。

「おいで、康」

 亮様は自分の隣の席を指し示す。康様は頷き、可愛らしくも品のある仕草でお座りになった。命じられて、俺も康様の正面に腰掛ける。

「どうだい、最近は暇かい?」

「ご存知のとおり、暇などございませんよ」

 せっかくの休日くらい、自分の思うように過ごしたいものである。

「彰寿は忙しいのだね。またしばらくは会えないの?」

 落胆した顔をなさる康様に、亮様はいたずらっぽく笑う。

「そういうときはね、会いたいって言えばいいのさ。すぐ来てくれるよ」

 恐ろしいことをさらりと口にしないで頂きたい。ご自分が我が儘に振る舞えば、どれだけの者が迷惑を被るか理解できない人でもあるまいに。

 亮様はもう手遅れだが、清らかな康様の心に悪い影響が出ないといいのだが。

「いいなあ、兄上も彰寿も、たくさんお仕事があって。僕はまだ、何もできないや」

「そのように仰らなくても。熱心にお勉強されているとお聞きしております」

「ううん、まだまだだ。まだ、父上や兄上をお助けできるようなことは何もできない。子供はいやだなあ」

 その言葉に、俺は幼き頃の自分を思い出す。俺も昔は、兄上たちのようになりたくて背伸びしたがった子供だった。

 在りし日に思いを馳せていると、いきなり亮様が俺の紅茶にジャムをどっさりと入れた。

「な……!」

 見ると、自分はスプーンに少し乗せたジャムを口に入れつつ、カップに手を伸ばしている。その横には見慣れぬ形のポットがあった。

「近頃は、この飲み方がお気に入りなのさ。いくつか種類を変えて試していてね。しかし、現地の人ですら、紅茶の中に入れたり、こうやってちびちび舐めながらだったり、言うことが違うのは不思議だなあ」

「……自分は、何も入れぬままが、最も好みであります」

 動揺しながらも声に毒を混ぜる。

 唯一の楽しみが阻害された。絶対、この人はわかっててやったな。

「何かを入れたほうが美味しいお茶でも絶対何も入れないね」

「ただいま申し上げたとおりであります」

「頑なだなあ。柔軟な態度は大事だよ、彰寿。君はとにかく堅すぎる」

「軍人たるものかくあるべしと思っておりますゆえ」

 亮様は、苦笑しながら首をゆるく振る。

「そうかい。それにしても、君は、『仰せのとおりであります』などとはまったく言わないね」

「諸々の事情を考慮したうえで自分の考えを申し上げるに留めております」

 もっとも、と俺はよく見えるように口の両端を上げてやる。

「そちらのほうがお好みなら、お申し付けくださればいくらでも」

「いやいや、彰寿はそのままがいいよ」

 ありがたいお言葉を頂戴した。

 康様は、小さな手で上品にカップを持ちながらにこやかに口を開く。

「彰寿は正直だね」

「そうでもないさ。彼は口が悪くて性格も可愛くないから」

 亮様は即座に切り捨てながら、俺を見つめて再度にやりとしてみせる。

「君は、その綺麗な顔の裏に、いろいろな言葉を隠しているんだろうね」

 ああ、早く帰りたい。

「たまには打ち明けてくれないかな、その胸の内を」

「身分上いたしかねます」

 やれやれ、と亮様は肩をすくめた。

「それでは僕が寿史のように今の生活を捨てるしかないか。君の人間性は変わらないようだもの」

 人間性以前の問題だ。本当に、ご自分の立場を理解してから発言していただきたい。

「兄上、そのようなことは仰らないでくださいまし」

 急に、康様の表情が強ばる。細く小さな指で、亮様の袖をしっかり握って。

「僕も、力の限り父上や兄上をお支えいたしますから」

 亮様は何度か瞬きをしたあと、柔らかい表情を作った。

「すまないね。単なる冗談さ。ところで、彰寿。本題だが」

 やっとか。長かった。

 いくつか面倒ごとを言いつけられているうちに、視界の端で何かが揺れていることに気づいた。退屈な話であったせいか、康様が船を漕いでいた。

 亮様は苦笑し、側にいた者に別室で休ませるよう命じられた。抱えられて運ばれていく様子を見て、我が主は微笑む。

「悪かったね。子供は苦手だというのに」

「いいえ。あの方は、本当にあなたをお慕いですね」

「……僕はあの子にとって理想の兄だそうだよ」

 亮様は、俺からすると大変困った存在ではあるが、優秀なお方だ。周囲からの信頼はまだ高く、その身に多大な期待を受けていらっしゃる。

「その理想を今後も保ってお過ごしくだされば、私も誠に幸いに存じます」

 亮様は笑みを崩さぬまま目をつむり、そっと頷いた。そうしていれば、俺にとっても理想の主に見えた。

 しかし、その後もお忍びでお出かけになったり、俺を連れ回すなどの迷惑行為は増すばかりだった。寿史兄に一時任せたのがいけなかったのかもしれない。その間に、俺の亮様への態度もかなりぞんざいなものとなった。

 なお、呼び方の件は、康様の口からその周囲に知られることとなった。よほど嬉しく思われたらしい。

 康様は、お父上から大層可愛がられておいでだ。可愛い我が儘ならば通ってしまう。亮様同様、私的な場で呼びかける分には問題ないというお許しを直々に頂いてしまったのはここだけの話である。

 とても心臓の悪い思いをさせられるご兄弟だ、とはどこにも吐き出せぬまま内に秘めておいた。



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