第二話 時経る
「彰兄様」
父に所用で呼ばれ、久方ぶりに実家に戻った。そこでまず迎えてくれたのは甥の寿基だった。たどたどしくも、ちゃんと俺の名を呼んで。
「なんだ、覚えていたのか」
さほど顔を合わせてないはずなのに。目を丸くする俺に、寿基はにこりと微笑み、遊んでと迫る。
兄や従兄たちとはたいてい歳が離れており、幼少時は大人に囲まれてばかりだったせいだろうか、下の者と接するのは未だに苦手だ。ましてや、こんな稚い子など。
寿基は、長兄の寿貞の息子である。ずっと寮生活を送っている俺にとっては甥ではあるものの馴染みが薄く、対面しても何をしてやればいいのか一向にわからない。
「お写真見ているものね」
ゆったりと歩いてきたのは母だ。嬉しそうに俺を見上げる孫に、目を細める。
「ただいま戻りました。お変わりありませんか」
「ええ。おかえりなさい、彰寿さん。里津子さんも張り切っているわよ」
里津子というのは長兄の妻だ。家柄は文句なし、跡取りとなる男児も産み、うちの父母からの覚えは大変めでたい。
彼女の趣味は西洋菓子作り。女学校で覚えたらしく、俺が帰るたびにその腕を披露してくれた。うちの母は滅多にしないが、近頃の令嬢は料理を学ぶ人も多いようだ。
義姉は、俺が甘党だと知ると、帰るたびに自分の作った菓子を差し出しては講評を求めてくる。
「またですか……」
「彰寿さんに美味しいと言ってほしいのよ。そうだわ、お父様のお帰りが少し遅れているの。ごめんなさいね。もしかしたら、寿貞さんのほうが早いかもしれないわ」
話している間も裾を引っ張られる。輝く小さな瞳は、相手をしろと訴えていた。
最初はぎこちなく付き合っていたが間が持たず、結局、寿基は母に任せてしまった。二人のやりとりを見守りながら茶を啜っていると、扉が開いた。
「お義母様、お待たせいたしました。あら、彰寿さん。もう帰ってらしたのね」
「つい先刻」
義姉の目は息子とはまた異なる光を放つ。
「よかったわ。ぜひ、また意見を聞かせてちょうだい」
彼女にもそう頻繁に会ってはいないのに、遠慮などまるでない。
彼女の後ろから、使用人が別の菓子を持ってくる。今日はずいぶんたくさん作ったものだ。
鈴森の家は、邸宅こそ客を招く関係で贅沢に造ったが、平時の食生活は質素なものだった。手製の西洋菓子をここまで出されると、さすがの俺も面食らう。
「彰寿さん、寿基と遊んでくれて? この子、楽しみにしていたのよ」
「私のことなど覚えていないと思っておりましたよ」
「あら、そんなことなくってよ。そうそう、先日、亮様がいらして弟君のお話をなさっていたわ。案外、年少の人に好かれるのね」
康様のことか。
幼子など、如何に扱うべきか皆目見当もつかない。俺が無表情だと怖いと指摘されたことがあったが、わざわざ笑顔を作ろうなどとも思わない。
子供の頃を顧みると、長兄はよく相手をしてくれたものだと感心する。あの人が笑顔を見せぬ姿など到底想像できない。
その刹那、ふと、義姉の言葉が気にかかった。
「義姉上。もしや、あなたもあの方のことを亮様と?」
「そう呼んでほしいと仰せですもの」
唖然とする。
豪胆な人だ。育ちのせいだろうか。俺自身、このようにお呼びするようになるまでかなりの時間を要したものだが。他の鈴森家の面々は立場を弁えてあの方に接している。代々続いてきた関係は決して崩せないものだ。
「本当に寿貞はいい細君を持ったなあ、ですって。こんなに光栄なことはなくってよ」
その台詞を口になさるあの人の笑顔を容易く想像できてしまう己に、複雑な思いを抱く。
「あの方は、よくこちらにおいでなのですか?」
「ええ、落ちつくのですって。お義父様はまったく落ちつかないご様子ですのにね」
おかしげに話す嫁に、母の笑顔は若干引きつる。
聞けば、父は何かと用事を思い出し、兄にお相手を務めるよう言いつけ、出て行ってしまうのだという。
父が客を放って外出するなどありえない。ましてや、相手が相手だ。しかし、逃げたい気持ちは痛いほどわかる。俺とて、許されるならば逃げたい。
息を吐きつつ、レモンパイをかじる。
「おや、味が変わりましたね」
以前のものとわずかに風味が異なる。
義姉の様子を窺うと、たいそう満足げだ。
「そうよ。何かね、足りないと思って。新しく加えたものがあるの」
当ててごらんなさいと言われたが、何も浮かばなかった。結局、先に答えを明かされてしまった。
食べ終えたところで、寿貞兄がちょうど帰ってきた。
「今日は、あの方がいらしていないのだね」
「ええ、ですがご安心ください。いつでもお迎えできるよう、支度は整えておりますわ」
妻の言葉に、兄は無言で苦笑するばかりだった。
今日はと言うが、どれほどの頻度でお越しになっているのだろう。
「彰寿さん、まだちゃんとした言葉を聞いていないわね」
味の変化に気づいただけでは満足しない人だ。
「ああ、これまでで一番美味しゅうございましたよ。ご馳走様です」
「本当かしら?」
「本当ですとも」
確かに、前回よりも美味しかった。
気づくと、一緒にパイを食べていた寿基が、うとうととし始めていた。小さな子というのは、すぐに眠くなるものなのだろうのか。
義姉はそんな息子を抱えて、寝かしつけに行ってしまう。同時に、母が使用人に呼ばれ、その場に兄と二人きり残される。
「どうだ、学校は」
「このまま行けば、ご期待には添えそうですよ」
兄は眉を僅かに上げる。
「おや、てっきり余裕だと言うかと思ったが。謙虚になったな」
俺は沈黙する。
いささか不利な科目があれど、他の同期に負ける気などなかった――たった一人を除いて。
「この言い方のほうが可愛げがあるでしょう?」
そう言ってみせると苦笑された。
「いつまでいられるんだ?」
「父上にお会いしたらすぐ戻りますよ」
「……母上が寂しがる。寿史もああだからね。いられるなら、もう少しいなさい」
「夕食時限よりも余裕を持って戻りたいので」
学校での面会は可能だったが、母は何があろうと行くなと父に禁じられている。俺も、特別なことがない限り家のことは気にかけずともよい、と言われている。長兄一家が来ることもなく、休日の外出も同輩と行動をともにしてばかり。学校の都合か父に呼ばれない限り、実家にはまず帰らない。
寿文兄の名を出されて、無意識に頬が緩む。あの人とは先日お会いしたばかりだ。
「史兄様は今伊太利でしょうか。また仏蘭西ですか?」
「伊太利だ。あれの気質には合っているようだな。女性絡みの不祥事はまだ聞こえないが」
次兄は、性質が悪いと実弟の俺でも思うような男だ。亮様と絡んで、洒落にならぬことをした前科もある。ただ、色々な遊びを教えてくれた恩はあるし、どこか憎めない人だ。
「母上にはあなたと寿基がいるでしょう」
「それでも、あの人にとってお前は特別なんだよ」
その笑顔はどこか寂しそうだった。
「孝行はできるときにしておきなさい」
――お前は軍人の身であるのだから。その一言を飲み込んだようにも見えた。
「しますよ。そのためにこうして勉学に励んでおります」
出世は早ければ早いほどよい。最短で大学に行ったとして、その後は幾程の働きができるだろうか。
「彰寿。父上たちのお考えのとおりでなくていいんだよ」
寿貞兄は、父によく似た瞳で俺を見つめる。
「近年、華族の子弟で軍属者の数が減少しているのは事実だ。しかし、それはお前でなくとも」
「俺は自分の意志でこの道を選びました――寿史兄上のように」
しっかり見つめ返しやる。
「鈴森家のため、あのお方のため、国のため……立派に成ってご覧に入れましょう」
「……そうか」
そこにやってきたのは、義姉だった。寿基はすぐに寝入ってしまったらしく、あとは子守役に任せてきたようだ。
「あなたの分もお持ちしますわね。今日は一段とうまくいきましたのよ」
言いながら、里津子さんは、俺の顔を見るとにこりと笑う。
「ところで彰寿さん、私ね、お友達の妹をあなたに紹介したいのだけれど」
「はて、もうそろそろ父も戻ってくる頃合いでしょうか。様子を見て参ります」
「逃げないでちょうだい。私の顔を潰すおつもりですの?」
母とは対照的な女性だ。とにかく押しが強い。
寿貞兄は、そんな妻をにこにこと眺めている。幼き頃、俺が危ない目に遭ったときは助けてくれたというのに。今はすっかり彼女の味方であるようだ。
そうだ。いつまでも、同じままにはいられまい。
家を離れて以来、滅多に顔を見せないでいた。特に義姉が嫁いできてからは、帰るたびに何かしらの変化があった。きっと次にここを訪れた折にはまた、幼い頃過ごした鈴森の家と何かが違っているのだろう。
時は、移ろいゆくものだなあ。
里津子さんの言葉を聞き流しながら、俺は前庭がよく見える窓辺に立った。すると、柿の木が目に入る。
幼い頃、次兄に唆されて登り、叱られたことを思い出す。
「なぁに、何を笑っているの?」
横に立った彼女は、じっと見上げてくる。どうやら本当に逃がしてはくれないようだ。
「いえ、何でも。ああ、義姉上。寿基に木登りをさせてはなりませんよ」
「させるわけがないでしょう」
「そうですね」
もう自分も幼い子供ではないのだ。俺はしみじみと笑んだ。
そこで目が覚めた。
寿貞兄上や里津子さんが夢に出てきたのは、初めてだった気がする。
――おかえりなさい、彰寿さん。
いつも、涼しげで儚い声で、鈴森の母はそう言って迎えてくれた。
愛しさに似た感情が、呼吸をするにつれ、だんだんと薄れていく。それが惜しくて、一瞬たりとも時が進んでほしくないと思ってしまう。しかし、願いに反し、俺の意識は現実へと戻ってしまった。
家を出ているのだから、その間に変化があるのは当然。あの頃はそう思い、受け入れていた。
今は――俺は、いつかの霊園での出来事を思い出す。
父母も次兄も死に、幼かった甥は立派に成長して子を持った。俺は、それを知らなかった。
あのときほどの悲しみは、今はもうない。だんだんと俺は松井智樹の人生に適応していっている。だから、高山田であった菊川とも友人関係を続けている。
この現世にはすっかり慣れた。智樹になってからは、歴史に名を残そうとも家の名をあげようとも思っていない。普通に永喜時代の人間として生きることを厭う気持ちもない。
しかし、という言葉がここで出てくるのは何故だろう。彰寿にはもう戻れないのに。
まだ俺の人生で、芯と呼べる存在はないのだろうか。歴史を学んで、知って、そのあとはどうする? 親が勧めてくれた学校で、奨学金のために勉強していた高校生の頃と、何も変わりない。
前世でも、鈴森の父の勧めで、軍人の道を進んだ。しかし、あの頃は将来どうしたいのかが明確だった。亮様のため、鈴森の家のため、国のため。
――お前はきっと、前世と現世を切り離せば幸せになれると思うよ。
菊川の言葉を思い出す。確かに、一理ある言葉だとは思っている。
けれども、今の俺から前世を切り離したら、むしろ何もなくなってしまうかもしれない。
それが今でも恐ろしくて、どこにも踏み出せないでいる。
「智くん、起きてる?」
母さんがノックしてきた。
「大丈夫、すぐ下りるよ」
まだ彰寿の記憶は残っていても、今の人生だって大切にできるはずだ。自分に言い聞かせながらベッドから下りた。




