第二十五話 結局俺は何なのでしょう
慰霊碑は変わらずひっそりと佇んでいた。近くの建物の光で、暗闇の中から浮かび上がっている。
こんな場所で終わるのも悪くない。過激平民派の魂を慰める地で、俺の心も慰められようとしているのだから。
「夜間立ち入り禁止とかでなくてよかったな」
高山田は碑の横に設けられた椅子に俺を誘導する。
こいつはわざわざ殺されにきたようなものだ。肝心なところで阿呆な選択をする男だ。あのときだってそうだった。
「飲み物買ってくるよ。何がいい?」
俺は無言だった。それを見て、高山田は眉を動かす。
「じゃあ、適当に選ぶぞ」
言いながら、背を向ける。
――ああ、今だ。
その腕を取ろうとした瞬間、かわされた。
とっさに顔を動かすと、悲しげな笑顔が目の前にあった。
「そうか、お前はそっちを選ぶのか」
高山田は逆にこちらを締め上げようとしてくる。
「くっ……」
「せっかくでかくなったのに、生かしきれてないじゃないか。昔のお前のほうが苦戦させられたよ」
「お前……っ」
俺は高山田の腕を解き、その胸ぐらを持ち上げる。確かに昔よりも身長差がないせいか、ずいぶんと楽に思えた。
あの頃は体格面でいつも不利だったから、相手をどう切り崩そうかとばかり考えていたというのに。
「甘い」
高山田が重心をずらそうとするが、一瞬の隙をついて俺は膝を攻撃した。
そのまま受け身も取らせずに肩をつかんで押し倒す。高山田は地面に肩を打ちながら咳きこんだ。
アスファルトでないだけまだいいだろう。温情だ。不思議とそう考える余裕はあった。
痛みにしかめた顔を見下ろし、俺は膝をつく。そして、その首筋に手を伸ばした。
ああ、これで終わる。俺のこれまでの悩みに比べたら、ずっとあっけなく――。
俺は表情をほろこばせた。そんな様子を見つめ、静かな表情で高山田は言う。
「おい、首はやめてくれよ。苦しかったからさ、今度は別の死に方がいいと思ってたんだ」
ぴくりと俺の手は止まってしまった。
これ以上先へ伸ばせない。
「やっぱり俺を殺したいんだな」
高山田は冷めた目で俺を見た。
「俺を殺せばそれで満足か? 今度こそ俺を殺せば、それでお前は救われるのか?」
「……そうだ。俺は……俺は、ずっとこうしたかったんだ。あの日からずっと」
今、このまま首を絞めればようやく終われるんだ。この忌々しい呪いから抜け出せる。
高山田は、優しい教官のような口調になる。
「けどな、ここでそうしたところで、別に感動的な結末はやってこないよ。平凡な大学生同士が言い争って、一方がもう一方を衝動的に殺した。銀座事件なんてとんでもない。せいぜい、新聞の片隅に載るのが関の山だろう」
彼は歯をちらりと覗かせる。
「それでよければどうぞ」
やけに穏やかな口調だ。どうして彼は、ここまで冷静なのだろう。
困惑する俺に、さらに追い打ちをかけるように高山田は言う。
「お前に殺されても俺は文句言わない。受け入れるよ」
何を言う。
「何故、何故なんだ……」
抵抗しろ。
俺こそお前を殺すなどと言えばいい。
どうして俺が諭されるんだ。お前は何様だ。
指がやけに冷たい。
殺したい。そのつもりで、今、彼の首に手をかけようとしている。それなのに力が入らない。
彼にだけは、弱みなど絶対に見せたくないはずなのに……。
だから、せめてもの強がりで言う。
「あの日から全部狂ったんだ。もっと成し遂げたかったことがたくさんあった。実際、俺はもっと国に貢献できたはずなんだ」
声が裏返る。
恨み言をどんなに吐き出しても、心は濁っていくばかり。
子どものように泣きじゃくりたくてたまらなかった。
「それなのに、何もできず、気づけばこんな平凡で中途半端な生活送るようになったんだ。どうしてくれる」
高山田は悲しそうだった。ああ、そんな顔しないでくれ。怒りが増す。
「だったら、ほら、息の根止めてみろよ」
命令されるようで気に食わなかったが、俺は言われたとおりその首に触れる。
指先の下の皮膚がわずかに跳ねる。頸動脈の感触にびくついた。
かつて俺たちは軍人だった。もちろん、人を攻撃する術を学んだ。自分が死ぬことも、誰かを殺すことも厭わない覚悟だって身につけたはずなのに。
そうだ。あの日、俺は彼の息の根を止めてくれると息巻いていた。
「知り合いが死ぬのは怖いか?」
「何を」
「俺は……怖くなかったよ」
まっすぐ見上げる目は涼しげだった。
「平民派はお前の存在を警戒していた。目立っていたし、いずれ要職に就くことは確実視されていたからな。大臣はともかく、帝ともつながりのある華族の権力が強まったらどうする」
やっぱりそうなのか。確かに、俺が軍の要職につき、新華族や平民への牽制になることを、父やその周囲は望んでいた。俺もそのつもりだった。
「だから、お前もまたあの件では始末対象だった。最初、狙撃は俺に任された。顔はよく知っていたし、因縁があることは周知のとおりだから」
「それで撃った……?」
沈黙が流れる。
「いや、撃とうとして、何故か外したんだ」
「外した? お前が?」
その言葉の違和感に、俺はつい目を丸くする。
「そして役目を取られた。もう一人、予備の狙撃手はいたから。彼の手柄にするため、役立たずで新参者の俺は引いた。重要なときに役立たずじゃ、当然だな」
「手柄?」
「軍学校を首席で卒業して、やたらと目立つ華族の人間なんて、平民派にとっては何より憎むべき存在。それでいて、ふてぶてしい性格なのだから、腹立たしく思っていたのは俺だけじゃないさ」
高山田は何度も瞬きをする。
「俺は、お前が死ねばそれでよかったんだ。それで、彼が俺の真横で引き金を引いて、銃声がして、お前が倒れて。同志が歓声を挙げるのを……黙って見つめていた」
彼の喉に触れた指の振動が、俺の身体全体に響くようだった。
「お前が死んでも、俺はちっとも構わなかった。あの瞬間まで本気でそう思っていたんだ。俺は、お前が殺されるのを止めなかったし、命令に従って撃つつもりだったし、そのまま見殺しにした。それは事実だ。だから、今、お前が俺を殺しても文句は言わない。俺には、お前に殺される理由がある」
そうだ。
俺の手は、高山田の首を捉えている。力を入れようとした。しかし、動かない。動かせなかった。
「ただ、ひとつだけ、聞かせてくれないか」
どこか憐憫を孕んだ声で高山田は言う。
「なんだよ」
ここにきて、妙な思想問答でもしようというのか?
高山田は俺をまっすぐ見つめた。
「お前は何者なんだ。今の自分の名前言ってみろ」
は? こんな場面で何を言う。
「そんなの」
決まっている――と言おうとして、固まった。唇がかさつく。
今の、自分の名前……?
鈴森彰寿、松井智樹。
俺は、どちらの名前を口に出すつもりだったんだ。
「自分が鈴森彰寿だと思うなら、このまま殺してくれ。でも、もしも今のお前が松井智樹であるなら、解放してくれないか。そのほうがお互いのためだろう」
俺は何者だ? 俺は誰だ? どっちが「俺」なんだ?
手の力が抜ける。
「あ……」
どうなっている。ここまできて、どうして。
高山田の首はここにある。なのに、何故俺は……。
硬直している間に高山田は身体をずらして抜け出し、碑に背中を預けるような体勢で座る。かすかに肩が上下していた。
俺は高山田を見る。
どうして……どうして今、俺は彼を殺さなかった?
手を離したのに、まだ震えが残っている。
高山田は言ったではないか、自分は怖くなかったって。俺だってそう思わなければならない。それなのに……。
これじゃまるで、殺すことに恐怖を覚えているみたいではないか。俺が、こちうに劣っているようだ。
俺は頭を抱える。
殺したい。しかし、こいつを殺してどうなる。今の俺は後ろ盾もなければ軍人でもない、ただの学生だ。
高山田の言ったとおり、事が発覚すれば、逮捕されて懲役食らって終わりだ。
そう思って、まっさきに思い浮かんだのは、松井家の面々の顔だ。もしも俺が、ただの低俗な殺人犯になったら迷惑どころの話ではない。
父さんや母さん、芹花。彼らの驚き、悲しみ、嘆く顔が浮かんだ。それだけは見たくなかった。
心が締めつけられて悲鳴をあげる。
何故だろう、あの人たちがここに来てとても大切で愛しい存在に思えた。
松井家。彼らは家族であって家族ではないはずなのに。
俺は鈴森家を愛しく思っているのに。
「……松井」
高山田が口を開く。俺の名を。
――松井智樹。それは確かに現在の俺の名前だ。
「これだけは言っておく」
「なんだよ」
どう罵るつもりだ。
「申し訳なかった」
申し訳なかった? 今、彼がそう言ったのか?
信じられない。
謝罪の言葉がこんなに苦く自分の胸に響くなんてこと、今までなかった。
「それで済むと思っているのか」
「思っていないさ。お前はきっと許さないだろ? 俺が……詫びたいだけさ」
詫びなんて、何故そんな殊勝な言葉が出てくる。
高山田の視線が俺に突き刺さる。
「もう一度言う。俺は、『鈴森彰寿』になら殺されていいと思っている――『高山田邦勝』として。ずっとそう思っていた。それで償えるなら」
やめろ、やめろ、やめろ、やめろ。それ以上何も言うな。
惨めでいい気味だと言え。もう一度殺してやるとでも。
何故お前が殺さなかった。何故今頃になって、そんなまともな人間みたいな発言をする。これでは俺にだって罪悪感が出るではないか。
そこで、瞠目する。
ああ、そうだ。俺は長らく、彼に悪役でいてほしかったのだ。思う存分、自分の無念や虚無感、苦悩をぶつけて、完膚なきまでに叩きのめしかったのだ。
だから、真っ当な高山田など認めたくないのだ。
「謝るなよ!」
思わず怒鳴ってしまう。
「俺の感情の行き場がなくなるだろうが」
何故お前だけが清々しくあろうとする。俺はこんなにも迷っているのに。
泣きそうな顔で高山田は笑う。
「お前が鈴森だったら、たぶん言えなかった」
忌々しい。俺は鈴森彰寿だ。だが……。
「俺が高山田邦勝のままでも、たぶん言わなかった。前世のお前は嫌いだ。でも、今の俺、菊川咲哉は……今のお前、松井智樹のことそんなに嫌いになれないんだよ」
俺は高山田を――菊川を見る。
ずっと自分の身体を抑えつけていた何かが、そっと離れた。
「鈴森はいけ好かなくて大嫌いだ。でも、お前は芹花ちゃんと元気に争ったり、桧山さんのことで悩んだり。可愛げがあるじゃないか」
「はあ? 何だよそれ」
可愛げがあるなど、最も言ってほしくない相手に。
薄く笑う彼の唇から息が漏れる。
「なあ、鈴森の人生がそんなに恋しいか?」
「当たり前だ」
「でも、今のお前も、そんな悪い人生じゃない。趣味を理解してくれるお父さんがいて、いつもにこにこしているお母さんがいて、かわいい妹がいて。いい中学と高校出て、大学に通って。ついでに、微妙な関係の片思い相手もいる。そんな状況もとてもいいもんだと思うよ」
俺が反論しようとするのを遮る。
「鈴森の人生は恵まれすぎていたさ。落差はあるだろう。でも、お前は贅沢だよ」
いちいち気に障ることを言ってくれる。本当に、お前が吐いていい台詞じゃない。いったい、誰のせいで。
「だからな、俺を殺してこの人生を台無しにするのはもったいないよ」
菊川は力なく笑った。そして、こう言う。
「俺がこんなことを言うと怒るかもしれないけれど、お前はきっと、前世と現世を切り離せば幸せになれると思うよ」
「何を」
どう答えたらいいのかわからない。
智樹の人生は、彰寿の記憶あってこそだとずっと思っていた。どんなに過去のものになっても、智樹の人生の根本に影響している。
確かに、高山田だと思わなかったら菊川はそんなに嫌なやつだとは感じない。桧山さんへの思いは、彰寿が現在の自分とは違うと認識すれば少しは障害が減る。でも――。
「それじゃあ、何のために俺は生まれ変わったんだ」
ますます悩むだけじゃないか。
途方に暮れる。新しい地獄に飲みこまれたかのように。
前世を切り離す? 彰寿の記憶が自分にとって苦しみしかもたらさないとでもいうのか?
今までの俺は……。
ふと頭に不思議な感触があった。見ると、菊川が手を置いていた。撫でてやると、言わんばかりに。
「ちょ、ふざけんな」
乱暴に振り払ってやる。
「いて! ああ、悪かったよ」
俺は座り直して菊川と向かい合わせになる。
こいつは、もう前世と現世を切り離しているのか? ここまで落ちついている理由は何だ? 俺と何が違うという。
「……なあ、聞かせろよ。お前、どうして自分は生まれ変わったって思ってるんだ」
彼は目を伏せた。
「やりなおすためだよ」
「革命を? だったら今生は政治家にでもなれよ。あの頃よりも敷居は低いからさ」
「違う。人生を」
俺が首を傾げると、やつの唇はほんの少しだけ笑みの形を作った。
「クーデター隊の一員になったこと、今は後悔しない。ただ、誰かを恨んだり妬んだり見下す人生をやめるんだ」
「意味がわからない」
「まだわからなくていいさ。それより、今日はもう帰れよ。親御さん心配するんじゃないか?」
やけに子ども扱いをするような口調だった。
確かに、これ以上ここにいても、もう何もできない。それだけは確信できた。
俺は黙って立ち上がる。
「あまり困らせるなよ? あのお母さん、とてもいいお母さんだと思うよ」
「母さん、が?」
「芹花ちゃんもね。お前は自分のことで精いっぱいで、周りが見えてないかもしれないけど」
その上から目線が気にくわない。同い年のくせに……と思ったら、そういえばこいつが一歳上だったことをここで思い出した。同い年だったのは菊川じゃなくて、高山田の方だ。
「余計なお世話だ」
俺の苛立ちに反して、力のない笑い声が響く。
「でもよかったよ。俺も、金沢の菊川家の面々を悲しませたくなかった」
「は?」
「高山田の家も忘れていないけど、今の家族もそれなりに好きなんだ」
ああ、そんなことを言って――。
「じゃあ、また学校でな」
「うるさい」
俺は菊川を置き去りにしてその場をあとにした。しばらく俺は立ちつくし、空しさをまといながら大通りへ向かった。
地下鉄に乗って、吊革に握りながら、さっきの出来事について考える。
結局、殺せなかった。
あいつなんて、高山田のときは俺に罪悪感なんて持ってなかったって話なのに。
復讐……そのための劇的な再会ではなかったのか?
――お前はきっと、前世と現世を切り離せば幸せになれると思うよ。
今、彰寿であることを捨てたら、松井智樹に何が残るんだろう。
これまでの十九年間、彰寿の名残を引きずって生きてきたのに。
ひとまず、わざわざ犯罪者になっても意味がないことはわかった。
実行したところで、しょせん、こんな事情は誰にも理解されないのだから。きっと、菊川以外の誰も――。
菊川。今度からどんな顔をして会えばいいんだ。前世からずっと憎く思ってきたあの男を。
松井の家に着くと、明かりがともっていた。それだけで何故かほっとした。
鈴森の家にはもう帰れない。彰寿としての居場所は、どこにもない。
しかし、ここも俺の家だ。今の自分……松井智樹が帰る場所なんだ。
それはまぎれもない事実だった。
俺は意を決してドアを開ける。
「ただいま」
奥から誰かの足音がした。




