第二十四話 理由をください
ふらふらと道を歩く。もう、五限に出る気力はない。
胃の腑のあたりがまだ不快だ。胸もいまだに痛む。
俺が前世の記憶を持ったまま転生した理由とは何だ。きっと意味があるに違いない。でも、それは何なのかはわからない。
苦しく、切ない。小学生だったあの日、生まれ変わったのだと悟ってからずっとこうだ。
世の中には数多の人間がいて、生まれては死に、生まれては死にを繰り返している。けれども、前世など夢物語のように言われている。
何故、俺と彼だけが前世の記憶を持って生まれ変わった? 他の誰でもなく、最も忌み嫌っていた人間と……。
これは偶然であろうか、それとも必然だというのか。
思い悩んでいると、結局はあの冬に行きつく。
気づけば、いつも俺は暗い灰色の空を見上げているような錯覚に陥っていた。
わずかな白い息が天に向かって上り、すぐ消えた。対照的に、痛みはじわじわと全身に広がり、意識が地面に沈む。
無念さと、怒りと、侮蔑と、生への執着と。いろんな感情が混ざり合って墨のようになる。
死にたくなかった。
あのとき死ななければ、こんなに悩む来世などやってこなかった。俺は彰寿のままでいられたはずだ――憂鬱で自己嫌悪ばかりの人生を送ることもなく。
絶望と無念に浸りながら命を失った悲しみに心を焼かれる。
何故、こんな結果になった。何故、こんなことで悩まなければならない。
この間、軍博に行ったときはあんなにも平和だったというのに。
生まれてこの方、憂いばかりだ。いつだって――。
閉じた瞼の裏に、懐かしい人たちの姿が映る。
ああ、帰りたい。あの時代に。俺が、鈴森彰寿であった革前に。
もう悩みたくない。
いつの間にか、家とはまったく別方向の電車に乗っていた。そして気づけば、銀座で降りていた。
きらびやかな夜景。俺が生きていた頃よりも、さらに栄えている。けれど、何かが足りないような気がした。まるで伽藍堂のようだ。
当てもなく彷徨う。途中、携帯が何度か鳴ったが、構いはしなかった。
あの日をやり直したい。その念は、歩けば歩くほど増していく。
そしてやってきたのはあの場所だった。俺が死んだ――。
帰りたいと願ったのに。墓でもなく、鈴森の家があった高輪でもなく、ここに来たのは何故だろう。
もう、ここはただの路地裏でしかないのに。
俺は、シャッターが下りている店の前の段差に腰かける。
人々の声、車の駆け抜ける音、音楽。いろんな音が聞こえるのに、とても静かだ。まるであのときのように。俺の視界に、雪の幻が落ちては消える。
ここで俺が倒れなければ、どうなっていただろう。クーデター隊を制圧して、そして……。
俺は額に手をやりながら、頭を振る。
もうそれは、夢物語でしかなくなってしまった。俺の空想の中にしか存在しえない、滑稽なほど都合のいい作り話だ。
ああ、父上も、母上も、寿史兄上も、亮様も、みんな死んでしまった。俺は先に死んだのは俺のはずなのに、置いて行かれてしまった。
寿貞兄上たちは……どうなさっているだろう。気にかかるが、訪ねる名分がない。そもそも、今の鈴森家がどこにあるのか、俺はまったく知らないのだ。
法子だって、もう会う術など残っていないし、その足跡をたどることもできない。
ああ、なんて虚しいのだろう。まだ結局、前世で縁のあった人間は、寿基以外の誰とも再会していない。
あとは――高山田だけか。
今はもう、顔どころか名を思い浮かべるだけで吐き気がする。軍学校在学時以上に嫌悪しているかもしれない。当然か。
それでも、彼のことばかり考えている。
一番会いたくない人間に限って、これほど身近な存在になるなど、まったくふざけた話だ。確かに、死の瞬間、俺はあいつのことを思ったけれども。
何度考えてみても、この不思議な運命の意味がつかめない。
そもそも、俺は生まれ変わりたくなどなかった。
もう、生きれば生きるほど、今生が苦しくなる一方だ。居心地悪く、悔やみ、ときに失望し。それの繰り返しだ。
俺が死んだあとも世界は動き、変わっていった。そして、もうあの頃の居場所はこの永喜の世のどこにもなくなってしまった。完全に閉め出されてしまったのだ。
失った日常は、思えば思うほど美しく愛しく感じる。
高山田への恨めしさが増す。あのクーデターがなければ、このような事態にならなかったかもしれない。
あいつに復讐してやりたい――そう思った瞬間、心が凪ぐ。
復、讐……?
こう考えられやしないか?
こうして二人で前世の記憶を持ったまま生まれ変わったのは、俺があいつに復讐するためだと。再会したのは、きっとあの日をやり直すため、と。
いつしか、俺の中でさえ鈴森彰寿が遠い過去の人物になりかけていた。あれほど悲しかった銀座の現場でさえ、先日はまるで第三者みたいな気分でいた。
松井智樹という平凡な大学生に、意識が完全に移行するところだった。
あいつは、この憎悪でもってそれを引き戻してくれたのだ。高山田を憎んでいると、俺は彰寿でいられる。あいつへ呪詛を吐けば吐くほど、彰寿としての意識が強くなるのだ。
ああ、そうか。
彼への恨みを強くすると、こうして彰寿の意識も強くなる。
その感情が、今ここにいる俺を支えるすべてだった。
もう戻る場所などない。過去に俺が入れる隙間など残っていない。
しかし、現在の俺が未来を作ることはできるのだ。
きっと、無念に死んだ俺を神だか何かが哀れんで、機会を与えてくれたのだろう。そうに違いない。
もう、何も要らない。
あいつへの恨みを晴らせるのならば、家柄や名誉への執着も捨てられる。
今度こそ決着をつけてやりたい。
俺は笑った。ちっともおかしくないのに、可笑しさがこみあげてきて仕方なかった。
そうだ、きっと、これで俺はようやく積年の苦悩から解放されるのだ。
座したまま俺は肩を震わせる。
復讐のため……なかなか浪漫のある理由だ。もうそうならば、本当に小説のようではないか。
その劇的な因縁の相手が高山田という卑小な人間であることに不満はあるが、まあ最も縁深い相手であることは認めよう。
力なく笑っていると、ふと目の前が暗くなる。
「ここだったか」
見上げると、高山田がいた。
「何故……」
「なんとなく、ここかなって」
沈黙が流れる。視線は、彼が先に外した。
「本当は、軍博に寄ったんだけど、閉まってたんだ」
誤魔化さんとばかりに高山田は笑う。その背後で、車が一台、二台と通り過ぎた。
「あんまりこういうところにいるのもなんだし、ちょっと歩かないか?」
俺は黙りこむ。これ以上ないほど絶妙なところに来てくれたが、こいつは何を狙っているというのか。
俺の表情を覗きこんだ高山田は、言い訳のように付け加える。
「ここよりは公園とかのほうが話しやすいかなって思ってさ」
気色が悪い。
お前はいつから、そんな軟弱で弛んだ喋り方をするようになった。昔は、方言を出すまいと人一倍硬かったというのに。
「どこか、静かな場所に」
「では、慰霊碑」
即座に発した俺の提案に、高山田は冷たい光を孕んだ瞳を向けてくる。
「またどうして、そんなところを」
「静かじゃないか。ここから近いし」
確かに、と彼は瞑目する。
「でも、お前があそこを提案するとは思わなかったよ」
俺自身もひそかに同意する。けれども、あの場所が最もふさわしいのだ。
行くのは三度目になるのだろうか。もう場所は記憶している。
会話もなく、俺たちは路地裏を進んだ。いくつもの車や人とすれ違う。街灯や建物からの光のせいで眩しく、時折視界が妙に白くなる。
高山田が、やけに小さく見える。昔はあんなに大男だと思っていたというのに。
数奇なことだな。銀座事件の日、俺は彼の姿を探していた。今はこうして目の前にいる。優男の背中に、背の高い軍服姿が重なった。
高山田、あと少しで楽になれるんだ。俺は……いや、きっとお前も。




