第二十三話 死んで馬鹿が治ればよかったのに
「松井くん、菊川くん見かけなかった?」
翌日以降、大学に行くのが億劫だった。でも、休んで部屋にいると、ますます気分がどん底に沈んでいくような気がした。
母さんは心配して、おろおろと世話を焼きたがる。それも煩わしかった。
だから、重い身体にどうにか喝を入れて、数日ぶりに授業だけ受けにきた。
そこで捕まったのが、菊川のサークル仲間の女子だ。
「知らないよ」
墓場でのやりとりを思い出すと、胸のあたりがちりちりと疼いた。
「えー? いつも一緒にいるじゃん」
この間までは確かにそうだったかもしれないが、正直今は関わりたくない。名前すら聞きたくないというのに。
「四六時中ってわけじゃないって。サークルに顔出してないんだったら、バイトじゃないの?」
不自然に冷たい言い方にならないようにするのがやっとだった。
彼女は首をひねる。
「うーん、そうだったっけなあ。じゃ、もう一回メールしてみるわ。そうだ、松井くんもうちに入らない? 男手あると助かるんだけど。松井くんガタイいいし」
何を言ってるんだろ、と一瞬思ってしまった。ああ、確かに今の身体だったら肉体労働に向いている。
「もし見かけたら、八月の予定変わったから確認よろしくって言っといて」
いやだね。チャイムが鳴って自分の席に戻る彼女の背中に向かって、心の中で呟く。
内容がよくわからないまま授業は終わり、一人また一人と学生が出ていく教室に残る。
ノートを見下ろすと、いかにも適当に書いた字が踊っていた。心ここにあらず、と暗に言っているような線だ。
俺、何をしてるんだろう。あまりに滑稽で、虚しさがこみあげてくる。身体が鈍っているようにだるくてたまらない。
「松井」
いきなり呼ばれてびっくりする。しかも、予想外の声に。
横を向くと、憂いを含んだ表情の菊川が立っていた。
一瞬混乱して相手が誰だかわからなくなり、反応が遅れた。
面と向かうと、また複雑な気分になる。俺はつい、目を逸らした。
「さっき小峰さんがお前のこと探してたぞ。行ってこいよ」
頼む、このまま去ってくれ。
しかし、俺の願いには応えないと言わんばかりに、菊川は無関心そうに聞き流す。
「……学校、もう来ないかと思ってた」
俺だって。
「来たくなかったけど、閉じこもっていると狂いそうになるから。お前こそ、どうしてたんだよ」
「バイトが忙しくて」
気まずい沈黙。ちょうど四限は休講だが、そのあとに五限がある。帰るつもりはなかったが、こいつに会った以上校内にいたくない。
とりあえずこの場を去ろうと立ち上がった瞬間、菊川の声が割って入る。
「なあ、自分が彰寿だって自覚したきっかけってある?」
「は?」
唐突な問いに戸惑っていると、菊川は一人で合点した。
「ああ、芹花ちゃんが言ってたね。軍博に行ってから変わったって。そのとき一瞬で全部取り戻したのか?」
「……お前は?」
「俺は、小二のときだったかな」
菊川の祖父さんは、暇があれば日本各地へ出かけるほどの旅行好きだった。
ある日、菊川がその写真の数々を見せてもらっていると見覚えのある風景があった――それが高山田の故郷。
無意識に俺は浮かせた腰を元に戻した。
菊川は一段上にある、すぐ後ろの席に座る。顔を合わせるのは嫌だから、前を向いたまま背中越しに聞いていた。
窓からの木漏れ日が俺たちに降りそそぎ、机や床に模様を作った。
「高山田の家はもっと田舎の方だったけど、あちらには言い付けでよく行ったから。夏の暑い日に、あの町の道を歩いている光景がふと浮かんだんだ」
それまで一度も訪れたことがないのに、菊川はその土地の詳細を明確に述べることができたという。
「もちろん、家族はみんなびっくり。だって、『菊川咲哉』は知らないはずだから。きっとテレビで見たんだろうってスルーされたんだけどね」
やっぱりどこもみんなそうなのか。かつての自分が重なる。
いくら昔の経験を語っても、自分の身にあったことだと言えないあの感情。心に靄が広がっていく。
その後、菊川はとてもゆるやかな速度で記憶を取り戻していったらしい。名前や家族、学校、軍。不意に思い出す、細かな記憶の断片。それが、徐々に埋まっていき、そして完全に高山田邦勝としての意識が目覚めたときには、最初に写真を見てから四年の月日が経っていた。
「鳥肌が立ったよ。俺はあそこで死んだはずなのに、こうして再び生を受けたなんてね」
俺は、初めて軍博に行った日の翌朝を思い出した。あのときの衝撃がまたこの身に襲いかかってくる。
共通点なんて、ほしくない。こいつと同じ思い、同じ経験などしたくない。
「それからずっと考えていた。どうして生まれ変わったのか。そして、あれから日本はどう変わったのか」
その言葉に感じるデジャヴが俺をいっそう苛立たせた。
「聞いてもいいか」
しばらくの沈黙ののちに、菊川は是と答えた。
「本当は今の日本をどう思ってる? あれだけの事件起こしてまで叶えたかった理想は、この時代ではどうなってるよ」
平等主義を謳ってきた国家は軒並み崩壊している。今現在まだかろうじて存在しているところも、いつどうなるかはわからない。
「華族はなくなったさ。元の平民も概ね豊かになった。だが、結局どこかに差がある」
「それは……」
菊川は押し黙ってしまう。
実際、寸分狂わず皆平等ってことはできない。時間が経過すれば自然と個人の差が生じるし、指導者や支配者という名のついた存在も出てくる。人間社会はそういうものだと思う。
「それはよく感じてるよ」
「じゃあ、お前は間違っていた?」
そう尋ねても答えない。
ああ、そういえばこういうことも言ってたな。肯定半分、否定半分。本当にずるい答えだ。
ゼミ見学のときもあのときも、いつもお前はそうだ。
「お前は革命の何を良し、何を悪しとするんだ」
俺の肩には、沈黙しか降り注がない。それが俺の怒りを煽る。
「俺は、あの一件さえなければって、今もまだ思うんだ」
時代に合わせようとして今まで封じ込めていたものが堰を切ったように生ずる。俺は、きっと納得したふりをしていた。本当は、納得などしていなかったのだろう。この世を生きるために、松井智樹という人間として生きるために、そうしようとしていただけだったんだ。
銀座事件がなければ俺は死ななかったはずだ。国内が不安定になることもなかっただろうし、そうしたら他国からの侵攻を招いて国が荒れることもなかったにちがいない。
「……知ってるさ」
「なあ、華族が身分を失って溜飲は下がったか? 代々家名を守ってきた人間が没落し、代わりに新しい家が台頭して支配階級になれば満足なのか? でもな、それは革命に限ったことじゃない」
華族だって、ごく一部の家以外は、みんなそうやってどこかで浮いたり沈んだりしてきたんだ。維新より前からずっとそうだった。だから、鈴森の父も苦労した。
それに、沈む家もあれば残る家もある。今でも、元華族で栄えている家は多数存在する。
「革命や維新も一種の転機なんだ。そのときに結果を出せなかったってことは、その代の人間が不甲斐なかっただけだろうよ。それをぐだぐだ言うのはお門違いも甚だしい」
高山田家のように、とはあえて言わなかった。
「お前は、低い身分の家の者を憂いているのではない。身分の低い自分を憂いているだけだったんじゃないか? 今は……菊川はあの頃よりもずっとマシだろう?」
地方の実家を離れて上京したのは一緒でも、仕送りをもらいながら一人暮らしをして大学に通う。高山田の家庭よりはずっと恵まれているはずだ。
「だったらこの現代も肯定的になるだろう。しょせん、それだけの志だったんだろうよ」
「それは!」
菊川は勢いよく立ち上がる。誰もいなくなった教室に、その声はよく響いた。
後ろを向くと、菊川は痙攣したように震えていた。俺は鼻で笑ってやった。
「そのために多くの人を犠牲にして、自分も死んで、下らないな。ああ、よくわかった。よくわかったよ。お前の馬鹿は、死んでも治らなかったんだな」
「……それはこっちの台詞だ」
どういう意味だよ。俺は本当のことを言っただけだっていうのに。
菊川は――高山田は何も言わない。でも、ここで言い返せないのだったら、もう結果は見えている。
これだけ言っても、俺の心は満たされない。あまりの虚しさに、高山田の顔を見ているだけで悲しくなる。
俺はまだ忘れるわけにはいかない。あのクーデターで、すべてを狂わせられたことを。
ふと、窓の外に入道雲が見えた。爽やかで、陰鬱さなど欠片もない。
夏の空は清々しい。もしも季節が違ったら、あの瞬間も少しは違う気分になれたのかな。
「高山田……お前、死ぬときってどんな感じだった?」
何げなく呟いた言葉に、高山田の表情が一気に固くなる。ぴりついた空気が彼の周りに生じた。
それを見つめながら、俺はゆっくりと語ってやる。
「俺は……とても静かだって思った。何も聞こえないんだ。それで、何も見えなくなって、ただ無念だと悔やんで」
高山田の目が、微かに揺れる。
「それからは完全な無だった」
笑えばいいのに。お前が高山田だというのなら、そこで「いい気味だ、ざまあみろ」と言えばいいのに。そういうやつだろ、お前は。嘲り笑ってくれよ。
けれども彼は、ただ顔を歪めるだけだった。今にも泣きそうな様子でいた――まるで聖人のように。
何だよ。そんな顔するなよ。
心がちりちりと焦げつくような感覚がした。
だからなのか、自分でもびっくりするくらい嫌味たっぷりな言い方をしてしまった。
「悪いな。やっぱり思い出したくないのか。俺は不意打ちくらってあっけなく死んだけど、お前は違うもんな」
わざとらしく彼の肩に手を置き、俺は席を立つ。
俺のほうがよほど嫌なやつだ。溜飲も下がりはしない。けれども、少しでもこいつを傷つけてやりたかった。
高山田は追いかけてくる気配もない。
ただ、一言。
「苦しかったよ」
俺は立ち止まったものの、今度は振り向かなかった。
「頭も心も破裂しそうなほど苦しかった。思ったよりもすぐに逝けなくて。でも、俺はそういう死に方を自分で選んだんだ。確かに、お前とは違うな」
「……そうか」
廊下に出た俺は乱暴に歩く。そして、途中、こらえきれず走りだした。どこかの教室で講義をしている声が聞こえるが、遠慮する余裕はなかった。
どうしていいのかわからなかった。
あいつがどんな気持ちだったのか、今の世界をどう見ているのか。知りたいと思ってたのは自分じゃないか。
なのに、どうしてすっきりするどころか余計にやるせない気持ちになるんだよ。
噛んだ奥歯がぎりぎりと鳴る。
関わらなければよかった。再会しなければよかった。そうしたら、こんな思いせずにすんだのに。
ほんの数日前まで、高山田と普通に友人やっていたなんて信じられない。何も気づかずに仲良くしていた自分にも腹が立った。
不甲斐ない、情けない、平和呆けにもほどがある。
高山田以上に自分を殴ってやりたかった。




