第一話 俺の名は
「松井智樹くん」
そう呼ばれても、すぐに反応できない子供だった。
「智樹くん、お返事できるかな?」
「……智樹って?」
どうもそれが自分の名前だと思えなかった。おかげで、ぼんやりした子だと思われていた。
小さいときから、いつも自分に違和感があった。
名前だけでなく、鏡を見てもそこに映る姿にしっくりこない。父さんや母さんも本当の親とは思えず、ときには自分に何故妹がいるのか真剣に考えてしまう。
家族について尋ねられて、真っ先に思い浮かべるのは、松井家の父母ではない。顔も名前も出てこない誰かだった。
薄靄の向こうで、その人は智樹ではない名を俺を呼ぶ。俺は相手が誰かもわからないのに、その人が恋しくてたまらないのだ。
もしかしたら、本当は俺ってここの家の子じゃないのかもしれない。
そんな考えが浮かんでも、なまじ顔が父さん母さんそれぞれに似ている部分があるから、よけいに混乱した。
だったら、どうしてこんなことを思うのか、と。
「何というか、不思議な子です」
教師は、口をそろえてそう言った。言われてみると、他の子と何かが違った。
誰かに習ったわけでもないのに、できることはたくさんあった。
例えば、好きな本を聞かれて、いくつか挙げたら「小学生の読む本ではない」と言われた。挙げたなかには、何十年も前に絶版となった本もあり、よく考えたら生まれてこのかた手に取った記憶はなかった。けれども、その内容を俺は知っていた。
また、英語もロシア語もドイツ語も、何故か自然と口から出た。外国人と会ったとき、ちょっと古い喋りと相手からは言われたけど。
他にも、古い字や言葉、作法など、教わってもないけれど最初から知っていたことは本当に多い。
「智くん、どうしたの? どこでそんなの覚えたの?」
母さんはいつもそうやって不思議がっていた。
ただ、この人はとても楽観的だ。少女がそのまま大人になったような人で、可愛いものと甘いものが大好き。そして、とにかく能天気でプラス思考だった。
「やっぱり天才なのかな? やだ、どうしよ~。ノーベル賞とか取っちゃうの?」
そうやって嬉しがって、抱きしめた俺の頭をよく撫でた。そのたびに俺は居心地の悪さを感じた。実の母親のはずなのに。
まだ不思議なことはあった。
家族でテレビを見ていたら、半世紀以上前の東京の映像が流れた。
「へえ、結構昔から賑やかだったんだね。歴史感じるわ」
「栄えたのは維新後だから、古いってほどじゃないよ。問屋街ができたのも、奉佳になったかどうかってところだし」
自然と出た言葉に、母さんは大げさなリアクションを取った。
「よく知ってるね。お祖父ちゃんから聞いたの?」
「ううん」
最初から知ってた。けれども、やっぱりその理由はわからなかった。
「智くんって本当すごいよね。先生がね、絶対受験させるべきだって言うんだよ」
「へえ、じゃあ俺も頑張らなきゃな」
そんな両親の会話をよそに、俺はテレビを食い入るように見つめていた。
ふと、泣きたくなる。
いつもそうだった。昔の風景を写真や映像で目にすると、なんだかとても懐かしくてたまらなくなるのだ。
ああ、あの中に飛び込みたい。
――帰りたい。
まさに今、自分の家にいるのに、そう思っていた。
目の前の物事よりもはるかに大切なことを忘れている気がしていた。
何かをやり残したことがある、やり遂げられなかったことがある。そんなくすぶった感情に支配されていた。
俺っていったい何者なんだろう。
何歳になっても、その答えは学校のテストみたいに見つからないし、誰も教えてくれない。ずっと霧の中を彷徨っているような気分だった。
その理由もわからないまま、苛立ちや焦りばかりが降り積もっていった。
ようやく謎が解けたのは、小学六年生になってからだった。
社会科見学で、日比谷にある軍博物館に行った日のことだ。
「あれ?」
何十年も前に起こった革命を境に、軍は一度消えた。それからは、一般の国民にとって馴染みの薄い存在になっていた。
俺自身、軍など縁がないはずなのに、展示室に一歩入った瞬間、妙な気分になった。
まただ。
昔の風景を見たときと一緒。知らないはずなのに、懐かしいと思う。
社会の教科書には載っていない、軍の成り立ちや発展。展示の説明文を読むと、書かれていないはずの関連知識がすっと頭に入ってくる――まるで思い出すように。
どうして?
今まで以上に不思議な感覚だった。
何かに呼ばれている気がした。急かされるように、俺は第一展示室、第二展示室を一気に通り過ぎた。
そして、その先にあった第三展示室。
ここで主題になっているのは、革命初期に起こった銀座事件。元号で言えば正寧九年の出来事で、日本が大きな変化を遂げるきっかけになった。
心臓がやけに大きく動く。頭も胸も痛い。
震えながら、展示をたどった俺は、ある写真の前に立った瞬間、息をのんだ。
まるで世界が静止したような気分だった。
――俺だ。
鏡で見る顔とはまったく異なるはずなのに、自分だと直感的に思った。とても見慣れたもののように感じた。
そこに写っていたのは鈴森彰寿少尉。奉佳二十三年生まれで、二十歳で凶弾に倒れて世を去った、若き士官だ。
瞬きするのも忘れるくらいそれを眺め、気づいたら泣いていた。
悲しいのではなく、愛しかった。彼の名前も、姿も、展示された品も、何もかも。
初めて訪れたはずの場所なのに、彼のことなんて何も知らないはずなのに、俺はそのすべてを既に知っていた。
頭痛が激しくなる。呼吸が乱れる。見上げる写真が歪む。
世界がぐるりと一回転し、俺はその場で倒れた。クラスメートの慌てる声がやけに遠く聞こえた。
そして、気づいたら俺は陰鬱な空の下にいた。
ああ、戻ってきたのか。
松井智樹はその景色に覚えがないはずなのに、すぐに銀座だとわかった。
いつもよりも視点が高くても、違和感はなかった。むしろその身体のほうがずっと自分に馴染んでいた。
「鈴森」
楠田大尉が呼ぶ。
「はい」
無意識に返事をしていた。ずっと、そう呼ばれることを願っていたような気持ちで。
鈴森……それが俺の名前。俺は安心したように笑った。
それから起こったことは、あの日と寸分も変わらない。中佐らについて歩き、撃たれて、俺は驚くほど簡単に死んでいった。
そのときのすべてが鮮明に再現された。
冷えた空気も、じわりと迫った痛みも、耳鳴りがしそうなほどの静寂も、そのままだった。
ああ、無念だ。意識を失い、無になったはずの世界で俺はそう呟いた。
まだこれからだというのに。家柄にも能力にも容姿にも全て恵まれ、順風満帆、一点の曇りもない輝かしい生涯が約束されていたはずなのに。
国に忠を示せず、親に恩を返せず、何も為さぬまま、俺はこうも呆気なく力尽きるのか。
死の淵では胸の奥に詰まったままだった嘆きを、ここでようやく吐き出すことができた。
けれども、その瞬間は安堵したというよりも、もっと苦しみが増したように感じた。
生きたいという願い、死への恐怖、愚かな者たちへの怒り、己への憐憫。それらが自分の体内で渦巻いていた。
死にたくない、まだ死ねない。たかだかこんなところで。
そう思った次の瞬間、目に映ったのは松井智樹の部屋の天井。あとで聞けば、軍博で倒れたあと、ずっと眠っていたらしい。
頭の中の靄が晴れた。俺は、解放感とともに起きあがる。
今見ていたのは、夢でありながら、夢ではなかった。
鈴森彰寿は蘇った。彼の記憶がまるごと俺の中に入っていた。
博物館では教えられなかった、彼にしかわからないはずのことも含めて全部。
そして、彰寿は俺――松井智樹という新しい生を受けたのだと悟った。
転生など、我が身に起ころうとは、露とも思わなかったのに。
笑いが止まらなかった。
非凡で華々しい人生を送りながら、まさかあんな死に方をするとは。それで今は平凡な家庭の息子、ただの一般人として生きている。
俺は生まれ変わった。その事実が自分の脳内に浸透し、それまで心の底に沈んでいた違和感を照らしだす。
ようやく、この釈然としない感情の正体が判明した。けれども、結局、記憶を取り戻して以降も、俺の憂鬱は続いた。