第十五話 天高き頃に君と
「ああ、彰寿」
呼びつけられたのは、賑わった通りの裏に位置する、とある店。窓辺の座席にて、上機嫌な顔が俺を待っていた。
「よく来たね。ほら、この人がこの間言っていた僕の従弟だよ。どうだ、綺麗な顔をしているだろう。ちょっと小柄だけど」
小柄などとは余計なお世話だ、と言いたいが、とても逆らえる相手ではない。この人の気分次第で、俺の一生が台無しになる。
「あらまあ、本当に。こんな美麗な方、なかなかお目にかかれませんわ」
馴染みなのであろうか、気安い調子で話しかけられた女給はにっこりと微笑む。
他の女性たちも同じような表情で、俺を見ながらこそこそと会話する。無論、女性は嫌いではないが、どうも居心地が悪い。
そんな俺の気持ちなど無視するように、目の前の人はいつものようににやりと笑い、会話を楽しんでいる。
本来ならば顔を合わせたくないが、裏から手を回されては仕事に逃げることもできない。
ああ、また誰から何を言われることか。
無言で通路に立っていると、無邪気を装った表情で語りかけられる。
「どうした、彰寿。座りたまえよ」
「確か、本日のご予定は……」
「ちょっと抜け出してきたんだ。君の顔も見たかったし」
美しい女性ならともかく、苦手な男性からは絶対に言われたくない言葉だ。嬉しくもなんともない。
恐ろしいことに、この方はそんな俺の心情を重々に理解し、わざと俺の顔を愛でるような発言をなさる。
「あなたのお召しとあらば抜け出さないわけにいかぬのですから、お呼びにならないでください」
「放っておくと来てくれないから、呼ばなければならないんだよ。こういうときは、権力っていうのも便利だね」
こういうことに使うな。その一言を飲みこんだ。
「ご容赦ください。毎度毎度、遊びで呼び出されてはかないません。ご自分の立場をお考えくださいませ」
「ただの冗談だよ。それに、いざというときは僕のせいにすればいい」
それができるのであれば、とっくにしているというのに。
「そうそう、ここでは成金のお坊ちゃんってことになっているんだ。桑原亮という名でね」
「桑……」
また偽名が変わっている。
「君もそれを念頭に、友人として振舞っておくれ」
軽々しく、無茶なことを言ってくれる。
この方は、本来のお名前でお呼びすると怒る。そのため、私的な場では亮様とお呼びしていたが、非常に面倒であった。
「子爵家の三男坊、一介の軍人が、そう馴れ馴れしくできますまい」
「従兄弟じゃないか」
「たまたま共通の祖父母がいる、それだけであります。ご自分の格に合った方とお付き合いください」
亮様は、俺とふたつ違い。母親同士が姉妹のため、血縁上は近しいことになるが、本当は俺よりもずっと立場が上の存在。俺の主と言うべきお方だ。
学業面は優秀、武芸も達者で、交友関係も広い。これだけならば、非の打ちどころのない方のように思える。
ただ、困ったことにお忍びで遊びまわる癖がある。しかも、ただの公園や劇場ならば可愛げがあるものを、こうした女給を置いた店もたびたび訪れる。今日とて、まだ日が落ちていないというのに。
それを抜きにしても、やけにからかってくるこの人が、俺は苦手だった。
「お父上もたいそうご懸念のご様子だと、ひそかに伺っております。あなたは、ご自分が継ぐという自覚を、誠にお持ちなのですか?」
日頃の鬱憤ゆえか、分をわきまえず踏みこんだ発言をしてしまう。
しかし、亮様は、怒るどころか切れ長の目を細めながら微笑んだ。
「わかっているとも。そんな僕を、君が支えてくれよ」
断固拒否する。その言葉を寸でのところで喉の奥に収めた。
「……悪だくみには巻きこまないでくださいよ。面倒は御免です」
「鈴森少尉!」
亮様の横に座っていた白川氏が冷や汗をかく。学校で偶々同学年になっただけで、ずっと縁が切れずに振り回され続けているのだから、この人も気の毒なことであった。
「まあ、座りなよ。立っているのも大変だろう」
「慣れておりますので」
「何か飲みたいものはあるかい」
「ございません。さあ、お戻りくださいませ。お申し付けのご用もないのでしょう、本日は」
「もう少しだけ」
「こんないかがわしい店にいてはなりません」
亮様は肩を震わせる。
「この店は初めてだったかな? ここは別にいかがわしくないよ。君は彼女たちのことをどんな目で見ているんだい」
返す言葉に詰まると、くすくすと周囲の女性たちが笑った。
「さあ、出ましょう。白川さん、そもそもあなたがここは率先してお諫めするべきなのでは」
「もうしたとも。十も二十も重ねてね。だが」
白川氏は、困った顔で首を横に振った。いや、そこは諦めないで頂きたい。
「そんな堅いことを言わずに。やっぱり君は軍人になるべきじゃあなかった。融通が利かなくていけない。鈴森子爵最大の失策だ。今からでも遅くない、別の道はどうだい」
ふざけるな、と怒鳴りたかったが、必死にこらえた。
「自分は戻ります。あなたのお望みだからこそ馳せ参じましたのに」
「まあまあ、そう言うなって。もう少し寛容にならないと、女性から嫌われないかい?」
「不自由はしておりませんので」
「言うねえ」
声を押し殺すように笑い、俺の顔をじっと見つめる。
「うん、確かにその顔ならね。僕も君の顔は好きだから」
ああ、背中がむずがゆい。
「いつも思うんだ。君が女性だったらよかったのに、と。非常に惜しい、残念だ。君の両親は実に罪深いことをしてくれた」
そういう、対応に困ることを堂々と言わないでほしい。
「怒りますよ」
「そう言わないで。君だって、なんだかんだ言って自分の顔はお気に入りなんだろ。お雪さん、何か持ってきておあげよ」
「はあい」
抗議の声をあげようとする俺を、亮様は無理やり椅子に座らせる。
「ここには文化人がよく集まる。君もたまにはこういうところで交流を広げた方がいい」
周囲を見渡せば、確かに多種多様な人種がそろっており、あちこちで活発に議論していた。その中には、明らかに危険思想を唱えている、どこかの理想主義者のごとき男も。
俺たちの卓にも何人かやってきて、それぞれの意見を主張しては去っていったが、耳に残らなかった。下らぬとしか感想が出ない。
ただひたすら、この場を知り合いに目撃されたときの言い訳を考えていた。
この人がここにいると知れたら、誰と誰が激怒し、誰と誰の首が飛び、と想像しただけで血の気が引く。
「面白くないかい」
「ちっとも」
亮様は大げさに肩をすくめてみせる。
「僕にとっての束の間の自由だ。来年になればもっと行動が制限されてしまう。ちょっとくらいは見逃しておくれよ」
「こうも呼びつけられては、見逃せるものも見逃せません。高輪の家にも頻繁にいらっしゃっているとか。あなたをお迎えするほどの屋敷でなし、父も困っておりますので、もうおいでにならないでください」
接触してこなければ、俺が小言を言うこともなかろうに。俺が遠慮して距離を置こうとするのに、この人は必要以上に交流を持とうとする。
「まあ、いいじゃないか。寿貞の細君のお菓子は美味しいんだもの。それと、僕も君には期待してるんだよ。君は評判もいいし」
性格はともかく、と付け加えられる。
「まあ、もう少し丸くなりなよ。さもないと――」
亮様は窓の外を視線を移す。そして、すぐに立ち上がった。
「厄介な人たちが来たな。時間切れか。もう行こう」
窓の外を見ると、五人ほどの集団が歩いてくるのが見えた。そのうちの一人と目が合いそうになり、とっさに俺は身を隠した。
そこからは素早く、誘導されながら裏口から店を出る。亮様は慣れた足取りで、女給にチップを渡す所作も自然だった。白川氏は怯えた様子だというのに。
「今のは、いわゆる過激平民派の連中では」
躊躇いながら話しかけると、亮様は頷く。
「最近はよくあの店に出入りしているようだよ」
「まさか、御自ら情報収集ですか?」
「ご想像にお任せするよ。単純に、あの店の女の子たちが好きという可能性も考えておくれ。どうだい、綺麗だったろう? 君ほどじゃあないかもしれないけれど」
この、人をからかって遊ぶ振る舞いが本当に苦手だ。
「でも、君も彼らのような人たちがいることはちゃんと理解しておいた方がいい」
「存じております」
まさに同じような思想を持つ人間が同期に存在した。
ふと、亮様の笑顔が消えた。
「今年に入ってから、地方を回る機会を幾度か得た。都はこのとおり美しく栄えているが、この国のどこでも見られる光景ではないよ」
「承知しております」
だからこそ、尊い存在なのだから。
「過激平民派。彼らのほとんどが、貧しい家か、少なくとも貧民が珍しくない地域の出身だ。こうして僕や君は物質的に満ち足りた生活を送っているが、一方で今日の衣食住にも困る人々がいる。彼らは都に来てその差に愕然とした。だから、苦しい生活をする貧民の力になりたがっている」
「ご心中はお察しいたします。しかし、あなたはいずれ――」
「彰寿。世の中ね、どうなるかはわからないよ。そして、どんな社会でもああいう人間は常に存在する。それに、僕や君だって身分が一生あるとは限らないし、安全だって保障されない」
反論しかけて、口を閉ざす。この人の前で、それを肯定したくなかった。
その亮様は、俺の気持ちなど知らぬというように、じっと秋の空を見上げた。細かな雲が綺麗に散っていた。
それをしみじみと眺めながら、冬立つころも、と呟いたきり黙ってしまわれる。
「いかがなさいましたか」
反応はない。何やら考えているようであった。空から視線を逸らさず。先ほどとは別人のように、真剣な面持ちだ。
平時は周囲を困らせてばかりのお方だが、やはり国を憂う思いは強くお持ちなのだろうか。
白川氏とともにお言葉を待っていると、ぽつりと亮様は口を開いた。
「秋ながら空に風花舞ひたるは地平線にぞ冬立つ日あらむ」
その歌は……。
こちらの表情をご覧になった亮様は、たいそう愉快なご様子だ。
「気に入らないようだね?」
「……誠に遺憾ながら、歌に対する美意識が異なるようであります」
「顔に書いてあるよ。名歌を汚すな、と」
「ああ、さようにお見えでありますか」
「否定しないね」
白川氏が頭を抱えるのを横目に、我が主は顎に手を添えながら再び天を仰ぐ。
「じゃあ、変えよう」
ああ、毎度そうだ。先ず別の言葉で相手の様子を見て、それから真に自分の言いたいことを口になさる。
付き合いきれぬ。俺は畏れなど隅に追いやり、遮ってやる。
「いずれにせよ、本歌以上のものにはならないでしょう」
まだ言っていないのにと口を尖らせながらも、またにやりと笑う。
「まあまあ、それはさておき。今が秋でも、いずれ冬が来る。冬が訪れたら、その次に春が待ち構えている。時は巡っていくものさ」
季節の移ろう様は好きだが、冬だけはどうも気が滅入る。ああ、法子と別れたことでさらに憂鬱が増えた。
「一足で春になってしまえばいいのに」
「冬眠しかないね。熊になればいい……あ、君は熊にしては小さいか」
気に障ったと態度に示すと、にやにやと笑う。
「彰寿。春が近づけば、冬だって惜しくなるよ」
どういうわけだ、と問いたいが、口に出さないことにした。どうせ、真っ当な答えなど返ってくるはずがない。
「生まれてこの方、さように感じた覚えはございませんね。一度も」
「まったく、君にもっと可愛げがあればなあ……」
大げさに亮様は溜め息をついた。
「そうだ、桜が咲いたらまた会を催すからおいでよ。康が君に会いたがっている」
「余裕がございませんので」
咎めるような視線を向ける白川氏の横で、亮様は楽しそうに笑う。
「また権力の出番かな」
「もう、ご勘弁ください」
冗談じゃない、行くものか。心の中で毒づきながら、お二人と別れた。
その後、鈴森彰寿に春が訪れることはなかった。
大学に入った春に見たのは、そんな夢だった。
当時、亮様のことは苦手だった。学校時代も、軍人時代も、たびたび呼び出しを受けた。それでどれほどの害を被ったことか。
けれど、何故か今は忌々しい気分になれなかった。むしろ、愛着に似た気持ちが心に広がる。
あんな迷惑な思い出でも懐かしくてたまらないのだから、俺の過去恋しさもかなり末期なのだろう。
今の自分のためにはならない夢だった気がした。どうせ、何度も同じことを思ってそのたびに自己嫌悪だ――あのとき、ああしていれば、と。




