第十三話 俺の知らない物語
え、まさか、あの前原?
とっさに思い出すのは、生え際のふたつの黒子。カバー袖の著者近影を見ると、確かにそこには同じものがあった。
「ご存知でしたか? 彰寿とは軍学校で同期で」
「は、はい……。え、でも、あいつ本出してたの?」
「何冊か出してるし、ドラマの陸軍関係の監修とかもやってたりするんですよ!」
監修?
「はああああ?」
「本当に知らないんですか? 意外です!」
桧山さんはきょとんとした目で俺を見上げる。
プロフィールを見ると、軍解体後は会社勤めをしていたが、のちに革命時代を主に扱った評論家として活動を始めたらしい。
生きてたのか……。
前世の関係者の名をこんな形で見るとは思わなかった。
どうやら、著書の内容は主に革命中期から後期についてのようで、俺の守備範囲からずれていた。今まで知らなかったわけだ。
ほくろさん。さほど気安い仲ではなかったが、何せ予科と本科の日々を共にした同期だ。懐かしくて胸がいっぱいになる。
何だよ、こんなハゲになって。黒子が余計に目立つではないか。
「智樹さん、気になります?」
じっと俺の顔を見上げる桧山さん。
「え?」
「お貸ししましょうか? いつも私が借りてばっかりだし」
「いや、別に。でも、ちょっと中身いいですか?」
「はい、どうぞ。あ、革前の、彰寿の箇所ここです」
付箋がいくつも付いている。桧山さんはそのうちのひとつを目印にして、迷いなく該当の部分を開いた。
しかも、線まで引いてある。どれだけ熱心なんだ。
「……そして、美貌の少尉と謳われ若い女子に人気の鈴森彰寿、そしてその因縁の相手でもある高山田邦勝とも同期だった。
その容貌と生まれゆえ、鈴森は最初から目立っていた。
小柄な体格ゆえか、女性のようだとからかわれることは日常茶飯事だった。そういうとき、彼は体術の時間で相手を指名し、伸しては『俺のような女男に敵わぬとは、どうしようもないな。図体に甘えた屑め』などと吐き捨て……」
「ね、ときめきますよね!」
桧山さん、すごくいい笑顔。
えっと、これでときめく? どうしてこの描写でそうなるのかわかりませんよ。というか、前原、台詞に若干の脚色が見られるのだが。中には、言った覚えがみじんもないものもあるのだが。
「あの、これ、売れてるんですか?」
「そこそこ。革オタ女子なら皆たいてい持ってますよ」
前原ああああああっ! 妙な本で稼ぐな! 本人の許可を取れ! 俺死んでたがな!
「あ、すみません。そういえばこれ、芹花ちゃんも持ってるんだった」
「……じゃあ、あとであいつの読んでみます」
彼女のものはとても借りられない。他のページもこの調子なら、本を破壊しかねない。
「あの、智樹さんは革前しか興味ないんですよね?」
半ば放心しながら、俺は頷く。
「この本、だいたいは革命中期から末期からがメインですけど、そっちもいい内容なんですよ」
そこに彰寿はいませんがね。
「よかったら、ぜひそこも読んでみてください。本当に、本当に、えっと、感銘受けますから!」
駅に着くと、桧山さんは晴れ晴れとした表情で、改札の向こうへと消えていく。その背中を見つめて、俺は寂しさを覚える。
かつて、俺は法子の笑顔を欲しがった。彼女が笑ってくれるなら、と無理に連れ回した。
本当は、もっと、こうやって自分たちの好きなものを語り合って、笑い合いたかった。
どうして、あのときはこんな簡単なことができなかったのだろう。
俺は、やり直したいのだろうか。彼女を、法子の身代わりにして。
いや、違う。もう俺は彰寿ではない。桧山さんも法子ではない。
俺は頭を振って、来た道を戻った。
買い物をして家に着き、芹花の部屋に向かう。
「おかえりー。歩実さんと進展あった?」
「ないってば。ところで、芹花。前原進一の『かなしくもいとしき我が革命の日々』って本持ってる?」
「持ってるよ。当ったり前じゃん」
「貸して」
芹花は飲んでいたジュースでむせた。
「何だよ?」
「ちょ、ちょ、ちょっと待って。え? 何で?」
「桧山さんに紹介してもらったから。芹花も持ってるって聞いて」
「あ、そ、そう? ちょっと待って」
芹花は本棚からそれを取り出すと、こちらに中身を見せないようにしつつ、パラパラとめくる。そして、ほっとした表情とともに俺に差し出してきた。
「いいの?」
「うん、いいよ。でも、大切なものなんだから、綺麗に読んでね」
「いつも本貸してるの誰だと思ってるんだよ」
俺は自分の部屋に戻り、ベッドに寝転んで、前原の本を開く。
軍学校時代は、彰寿と高山田の喧嘩が同期の名物だったせいか、二人についてはまあまあ多めに書いてあった。
鈴森がどんな嫌味を言っただの、高山田がどんな言葉で怒っただの。覚えのない出来事も入っているが、読んでいるうちに思い出したエピソードもあった。
よくもまあ、こんな昔のこと細かく書けるなあ。初版、永喜に入ってからじゃないか。
だがしかし、これが桧山さんのバイブル?
俺の視線は、とある箇所で止まる。
「……鈴森は、自分の表面的な要素で判断されるのをひどく嫌っていた。それは、高山田も同じであった。」
同じ?
「高山田もまた、最も貧しい人間というレッテルで苦労していた。同期の中でも特に困窮した家庭出身の彼は、何か失くなれば、あいつが盗ったのではと囁かれることもしばしばで……」
嘘、そんな話あったか?
ほら、都合のいいものしか見ていない。そんな高山田の声が聞こえてきそうな気がした。
前原はこう続ける。
「最終的に必要なのは己の力である。反目し合う二人は、示し合わせたわけではないのに、たびたびそう呟くことがあった。そして二人は争って学び、励み……」
思わず唇を噛む。
――まあ、でもな、お前らよう似とるわ。
前原があのとき言いたかったことはわかる。でも、納得できない。
松井家は、高山田家よりはずっといい暮らしだ。それを抜きにしても、俺が庶民になったところであいつのようには……。
いや、あいつよりよほど無様ではないか。
自分が不在だった激動の時代。その現実を拒んでいる。
俺は民衆蜂起以後の記述を読み進める。
国内は乱れ、諸外国が介入してくる。ついに国土の一部が各国に占領され、日本が分断されるかもしれない危機にさらされた。
ようやく平定かと思えば、今度は軍の解体が待っていた。革命を経て、国民の軍への反感は高まり、それは喝采をもって支持された。のちに必要とされて再編成されるのだが。
前原は、民衆蜂起の内乱が最も辛かったと語る。
「少しの気の緩みも見せられない。善良そうに見える民が、守るべきものなのか敵なのか疑いつづけなければならない。同僚も、共に戦うべき仲間でありながら、いつか裏切るかもしれぬと警戒しなければならない。
軍人を見ると怯えて逃げ惑ったり、狂ったように攻撃をしてくる人々に、撃たれてもいない胸が痛んだ。
他国と戦うよりも、自国民と戦うほうがずっと苦しい。相手は敵国と通じ、この国を乱す者とは言え、日本という国を守るために銃口を日本人に向けるのだから。他国ばかりが敵ではないと理解しているのにも関わらず、時折指が震えた。」
俺は無言でページをめくり続けた。
「幾人もの仲間を失い、国を守るために戦って、その結果が解体。
なんということだろう。
学校で必死に学び、卒業後も苦労を重ね、それでこれか。」
活字から、悔しさや悲しみが漏れてくる気がした。
革命を終えてからも、けしてすぐに楽にはなれかったと彼は言う。平民派として戦った相手の遺族からは人殺しだと罵られ、反平民派からはよくぞ殺したと賞賛され。
この永喜の世に、今さら軍だの平民派だのを表だって主張する人間はいない。ここまで来るのに、長い時間を要した。
俺がずっと見て見ぬふりをしていたのは、自分がいたくともいられなかった時代だったはずだ。
けれども、前原の言葉を見ていて思う。革命に関われなかったことは、本当に不幸なことなのかと。比較など愚かしいが、俺と前原、どちらが辛い思いをしたと言える?
そう考えて、俺は革命のことを何も知らないことを実感する。どうしてそのあとこんな世の中になったのかも。
何故なら、ずっと逃げてきたからだ。
何のために、あそこで死にたくなかったと悔やんでいるんだ。軍人として何をしたかった。そもそも俺がこの時代の何をわかっているんだ。
無知な自分には、革命時代を生きることに焦がれる資格などないのだ。そう思った。
後日、俺は図書館を訪れて、革命に関する本が並んだ棚の前に立った。革命から目をそらすようになってから、自ら進んでそれらに触れるのは初めてのことだった。
もっと深く学びたい。そう思った。
夏休みに入ってからも、芹花と桧山さんは頻繁にお互いの家を行き来している様子だった。
ただ、近頃は芹花の部屋に二人で籠っているし、絶対に入れてくれない。何をしているのか、芹花は頑として口を割らなかった。
それで、俺も夏期の講座に出たりして、すれ違いが重なった。
そして、七月と八月の境目にさしかかったある日。午前の用事を済ませて帰宅すると、芹花のもの以外にもうひとつ、女の子の靴が玄関にあった。
今日も桧山さん来てるのか。
気づけば長い間会ってない気がする。うちにはちょくちょく来ているのに。
せっかくだからまた顔を見たいと思うものの、呼ばれてもないのにわざわざ部屋に行くのは気が引ける。
しかし、やはりお礼が言いたかった。あの人がきっかけで、やりたいことが定まったのだから。
向こうの室内が気になりつつ、俺は自分の部屋に入った。そして、いつものように本棚に手を伸ばす。
「あれ?」
本がいくつか抜かれている。
犯人は言うまでもなく芹花だろう。またそれで桧山さんとの会話に花を咲かせているんだ。
羨望をぶら下げながら廊下に出る。やけに静かで、何の話し声もしない。
入っていってもいいだろうか、門前払い食らうだろうか。
迷っていると、階段の下で母さんが茶やら菓子やらを持って歩いてくるのが見えた。また、変な歌を口ずさんでいる。お客さんがいるときだけは静かにしてほしい。
呆れつつ、俺はさりげなく一階に降りる。
「母さん、それ俺持ってくよ。ちょうど用あるし」
「いいの? 智くんって優しい! ありがとっ」
回収も挨拶もできるし、これはチャンスだ。母さんからやたら華やかな柄のトレーを渡され、俺は軽い足取りで階段を上る。そして、芹花の部屋の前で持ちかえて、ノックした。
「芹花、桧山さん来てるんだろ? 茶持ってきたから入るぞ」
「え、お兄ちゃん?」
扉一枚隔てた向こう側から、がさがさと音がする。紙だろうか?
「ちょっと待って!」
「早く来いよー。あ、それと俺の部屋から資料持ってったろ。ちょっと必要だから返して」
どうせ、似たような内容が実体験として頭に入っている。あくまでも口実にしかすぎない。
しかし、どうも芹花の様子がおかしい。
「あ、あ、わかったから入ってこないで! ちょっと待ってて!」
ごしょごしょと内容が聞き取れない程度の話し声が聞こえる。そして、芹花は部屋の中を隠すようにそっと出てきた。
「ありがと、これ」
そう言って渡してきた本とトレーを交換する。そしてバタンとすげなく扉は閉められる。
桧山さんは……? 今日はお呼びでないってことか。
彼女はあくまでも妹の友達であるのはわかっているとはいえ、さすがにがっかりする。
落胆しながら自分の部屋に戻った俺は、机の上に返された本をそのまま置いた。そして気づく――あれ、足りない?
本棚を確認すると、持って行かれたのは六冊。ここには四冊しかない。
「ったく……」
再び出て、妹の部屋をノックする。そして、返事がないうちに開けてしまった。
「おーい、芹花。さっきの本、足りないんだけど」
室内は紙が散乱していた。そのうちの一枚を踏んでしまう。
「ちょ、入ってこないでって言ったのに!」
「すまん。踏んだな」
足に挟まった紙を拾い上げ、固まった。俺も、芹花も、桧山さんも。
本当に、時が止まったとしか言いようがなかった。




