第十二話 どうしてお前がここで出てくる
昔の夢を見たあとは、どうも感傷的になる。ましてや、あんな風に別れた相手が絡むなら尚更だ。
人の心、か。
当時の俺――彰寿は、どうして彼女がそうやっていちいち落ちこむのか理解できなかった。
無意識に、父さんにもらった万年筆をケースから眺めてしまう。
今の俺なら、もう少し彼女の心情に寄り添えるだろうか。その自信はまだなかった。
そんな俺の感傷など知ることもなく、桧山さんや芹花は、今日も革前講座に目を爛々と輝かせていた。
「そういえば、智樹さんはどうして革命そのものはやらないんですか?」
いきなりヒットする桧山さんの問い。答えに窮した。
俺が「実は生まれる前は彰寿やってたんですよ」と言っても、他人からすれば冗談にしかならない。それはわかっているから口に出さないようにしてるけど、寂しくはあった。
周囲に人はいるのに、孤独感は拭えない。絶対的な理解者がいない。せめて誰か一人くらいはこの気持ちをわかってほしかった。
でも、この二人には話せないな。
俺は芹花と桧山さんを見比べる。この二人にとって、鈴森彰寿は王子様みたいなものだ。自分たちの目の前にいる男の中身がそれだと知ったら、ショックを受けるに違いない。芹花に至っては失神するかもしれない。
「それで、結局、革命自体はお嫌いなんですか?」
桧山さんは逃がしてはくれない。俺は苦笑いを浮かべて、適当にごまかしてしまった。
俺は革命を嫌いなのだろうか。無視する理由はただひとつ、自分が生きたくても生きられなかった時代だからということだ。
――都合のいいものしか見ぬこいつが何に苦しんでいるという。
高山田の言葉は何度も心に突き刺さる。
そうだ、少なくとも今の俺は都合のいいものしか見ていない。それは事実だ。
自分が胸を張って生きていた革前時代に浸ってばかり。そうすれば、現実を意識しなくてすむから。
それは、とても哀れで惨めだ。
鈴森彰寿として生きていた頃なら、こんな己を許すはずはなかった。彰寿なら逃げない、目を逸らさない。
どんな状況であろうと、努力は行うべきだ。それこそ俺のはずだ。
その言葉はいっそう虚しく自分の心に響くばかりだった。
「あの、智樹さん」
「はい?」
「すみません、もうそろそろ私、失礼しますね」
時計を見ると、タイムリミットが迫っていた。
「もう、ぼんやりしちゃって」
芹花が呆れた視線をこっちに投げてくる。
「悪い」
そういえば、と妹は俺の部屋方面の壁を見やる。
「お兄ちゃん、新しく買った資料あったよね。歩実さんに貸してもいい?」
桧山さんは慌てて首を横に振る。
「そんな、まだ智樹さんだって必要でしょ? いいですよ」
「とんでもない。どうぞどうぞ」
俺は手で、受け取ってほしいと示す。芹花に使われるのは嫌だが、彼女なら構わない。
桧山さんに対してはどうも甘くなってしまう。惚れた弱みに近いものを感じる。
「じゃあ、遠慮なく」
そうやって弾んだ笑顔を見られるんだったらいくらでも貸したい。
「あ、でも重いかな? 桧山さん、大丈夫ですか?」
まず、うちから駅まで徒歩十分ほど。この細い体に持って行かせるのは、気が引ける。あのでかい本をずっと担いで行くのは大変だろう。
「あ、問題ないです。重いものよく持ってるし」
「へえ、バイトですか?」
一瞬、芹花と二人で目を合わせる。
「まあ、そんなところです」
母さん情報だと、桧山さんが通っているのは、どうやらそこそこお嬢様学校らしい。それなのにバイトだなんて偉いな。俺みたいな特待生でもないはずなのに。許可取るのも大変じゃないかな。
「なんなら、駅までだったら、俺、運びますけど」
桧山さんの自宅まではさすがに無理でも、せめてそれくらいはしたい。
「そんな、いいですよ。気にしないでください」
「いやいや、歩実さん。使ってやってくださいよ。それしか取り柄ないし」
芹花よ、最後の一言が余計だ。
スポーツは特にやってないが、彰寿だった頃の名残で、最低限の体力作りは行っている。
松井家でも一番背が高いし、肉体労働担当になってはいるが、芹花にこき使われるとどうも腹立たしい。
「母、今日仕事ですし、ついでに買い物するんで」
「いいんですか? じゃあ、お言葉に甘えます」
芹花の見送りを受け、二人で駅に向かう。
「お世話になりっぱなしですみません」
歩きながら、桧山さんは軽く頭を下げる。こうして並んで歩くと、小柄だな。今の俺が彰寿と比べてかなり背が高く、女の子と一緒にいることがほとんどなくなったせいかもしれないが。
「気にしないでください」
革前時代の話をしていると、それだけで憂鬱を追い払える。
学校の友達とは盛り上がれる話題ではないから、桧山さん(+芹花)と語り合えれば……桧山さんが喜んでくれるなら、それでいい。
「自分でももっと専門家の講演とか行ったりしたいんですけれど、なかなかできなくて」
「講演ですか?」
さすがに俺もそこまではしない。あまり必要性を感じないというのもある。
「いやあ、すごいですね。そんな発想ありませんでした」
本当に熱心だ。しかし、一度くらいは俺も行ってみてもいいのかな。革命まっただ中ならともかく、奉佳や正寧初期あたりの話を聞くくらいなら、むしろ楽しいはずだ。
俺の言葉に、桧山さんは上品にはにかむ。
「……やっぱり、ちょっとでも彰寿のこと知りたいですから」
「どうしてそこまで熱心なのか、理由はあるんですか?」
「え?」
桧山さんはやや狼狽する。
「好きになったきっかけとか」
「きっかけ……そうですね……」
桧山さんは必死に言葉を探しているようだった。
「写真見て、一目惚れ、したのかな?」
「一目惚れ、ですか?」
嬉しいような、嬉しくないような。
まあ、寄ってきていた人はたいてい、俺の顔か肩書を好ましく思ったからだったが。
「いや、前も言ったけど、内面も好きですよ? 内面、性格」
「……性格悪いって話ですけど」
「そこが愛らしいんです!」
「愛らしい?」
不思議な観点だ。自分でも、さすがにそうは思えなかったぞ。
「だって、いいじゃないですか。生まれがよくて、家族からも愛されてて、何でも支援してもらえて、それであんな自信満々の俺様に育ったわけでしょ。可愛げあるじゃないですか」
支援は、入学後はさほど受けていないんだが……。可愛げにしても、寿史兄上や従兄の亮様は逆に「可愛げない」とか仰っていたのに。
桧山さんは頬を紅潮させながら、いかに彰寿が自分にとって魅力的なのかを語る。俺がいつも、革前時代を語るみたいに。
爛々とした瞳が、妙に懐かしくて、つい眺めてしまう。
ふと重なるのは、あの夢の光景。
ああ、そうだ。彼女は法子に似ているのだ。
顔立ちにさほど共通点はない。けれども、何かに夢中になったときの表情がそっくりだ。
法子は、あのあとどうしただろうか。革命の世をどう生きたのだろう。
幸せになったのだろうか、あの笑顔を自然に向けられる相手と。
――彰寿さんはご自分のことをわかっていらっしゃらない。彰寿さんが、あたしを後ろ向きにさせるんです。
俺の前で彼女が真実楽しそうにしていたのは、好きな文具を目にしていたときだけ。結局、それ以外ではどんな場面でも困ったり沈んだりした表情しか見せてもらえなかった。
俺が、あんな顔をさせていたのか。
記憶の中の彼女は、今にも泣きそうな顔で俺に訴えてくる。
――彰寿さんは何でもお持ちです。
あの言葉が何度も繰り返される。
法子、結局すべて手放してしまったよ。
今は、過去に未練があって前に進めない、情けない人間になってしまった。こんな俺を君は笑うだろうか、失望するだろうか。
「で、これが私のバイブルなんです!」
ずいっと現れる、一冊の本。しまった、話聞いてなかった。
「バイブル、ですか?」
「ええ。智樹さんご存知ですか?」
「いえ」
白い表紙に銀の箔押し。レトロな写真がワンポイントで入っている。見覚えのない装丁だ。
タイトルは『かなしくもいとしき我が革命の日々』。著者は――。
「前原……進一……?」




