第十一話 戀しき人を喪ひて
「お前が喜びそうだったから」
言いながら次兄の寿史が渡してくれたのは、箱入りの万年筆だ。
思わず俺が仏頂面を崩すと、兄は苦笑する。
「物で釣ると愛想よくなるな」
長兄は昔から可愛がってくれたが、この人には泣かされてばかりであった。そのせいか、どうもいつも身構えてしまうだけだ。
無論、嫌いではない。洒落た洋装を着こなし、欧州と日本を往復しながら颯爽と生きる姿は憧れる。こうして店でカップを手にしている姿も、様になっていると思う。
それに、文具収集が趣味になったのはこの人の影響だ。寿史兄が自分のコレクションを見せてくれたからこそ、俺も集めるようになった。
この兄には、少々他人には言い難いようなことも教えてもらった。兄弟でありながら悪友みたいなものだ。
「ありがたく頂戴いたします」
「近頃の生活はどうだ?」
「別に」
答えると、兄は目を伏せて笑う。
「兄上によれば、母上がたいそう心配しているそうだ。なるべく顔を見せてやれ」
学校を卒業した今は、独立して生活していた。そのうち、と言いながら、しばらく高輪から足が遠のいている。父から、家のことに構わず勤務に専念せよと命じられているのもあるが。
「まあ、俺が言うなという話だな」
本来ならば、この次兄こそが軍服を身にまとうはずであった。しかし、どうしても他に進みたい道があるのだと、家を飛び出してしまった。そして、激怒した父により勘当されてしまったのだ。以来、兄弟と顔を合わせることはあれど、両親とは断絶状態だった。
その寿史兄とは違い、俺は帰ろうと思えばいつでも帰れる。そう思っていた。
「そういえば、彼女とは……」
兄上は遠慮がちに尋ねる。
――彼女。俺は、あの白い頬と首筋を思い浮かべる。
法子とは、舶来品の専門店で知り合った。
そこを訪れると、彼女はいつも窓から店の中を眺めるばかりであった。
そんな姿を四度ほど見かけたとき、とうとう俺は声をかけた。
「入らないのかい?」
尋ねると、彼女は俺を見て目を瞠った。少し怯えているようにも見えた。
白い顔を赤く染めながら、法子は俯いた。
「何も買えないので」
言葉に若干の訛りがある。
「見るだけでもいいじゃないか」
「こんなお店、あたしには敷居が高いです」
痩せ気味の身体を包む質素な和装と、体裁だけ整えた髪。
あまり金を持ってはいないとは察したが、何故そう躊躇うのか、俺には理解できなかった。
「何が見たいんだ?」
数分ばかり黙った法子は、おどおどとしながら言った。
「……万年筆」
「なら、俺もちょうど見に行くところだから、一緒に来ればいい」
いささか強引だが手を取って店へ引き込もうとした。それを彼女は、あの細い身体のどこにそんな力があったのだろう、必死で踏み止まった。
「結構です、恥ずかしいです。あたしみたいな人間が」
その卑屈さが高山田を思わせる。それゆえか、俺は苛立った態度をとってしまった。
「恥ずかしくないだろう! 何か後ろめたいことでもあるのか?」
かように女性に声を荒げたことはそれまでなかった。自分でも動揺してしまう。
法子は大きな目で俺を見つめ、表情を曇らせた。俺は慌てて声を落とす。
「無理に引っ張ったのは謝る。来たくないなら来なくていい。ただ、外からより間近で見た方がいいだろうと思って……好きなら」
法子は無言で顔を伏せるばかりであった。いささか気まずく、俺は帽子を直しながら背を向ける。
「悪かったね。忘れてくれ」
言いながら店に入ろうとした瞬間、彼女は俺の手を掴んだ。
「……あの、一緒に入っても、よろしいですか?」
法子は、まるで叱られた子供のようにびくびくとしながら、俺の後ろを歩いた。俺に挨拶する店員にすら卑屈だった。
そして売場に着いた途端、それまでとは打って変わり、彼女の顔が輝いた。
先ほどまでの憂い顔のときは別段美人とは言えなかったが、その笑顔はとても可愛らしく、その差に苦笑する。
「メーカーはわかるかい」
法子は首を横に振った。ひとつひとつ説明してやると、興味津々な様子で律義に頷いた。
「君は、どれが一番好きだい」
法子は、あちらのほうが形がいい、でもこちらも素敵、と真剣に見比べる。子供が遊びに熱中しているようだった。そして、ようやく一本を指した。
「じゃあ、これも包んでくれ」
俺が店員に声をかけると同時に、法子は青ざめた。
「あたし、買えません」
どうやら、単にどれがいいと思うのかという話だと思っていたらしい。
「俺が買うからいい。君にあげる」
彼女の顔色がもっと悪くなる。
「そんなつもりもございませんでした。こんなの頂けません」
店員は困惑しながら俺を見る。俺は視線でそのまま会計を促した。
法子はすがるような目つきになりながら言う。
「いけません、こんな高いの……。あたし、何のお返しもできません」
「珍しく女性で同じ趣味の人に会ったんだ。その記念だよ」
多少値は張るが、一本買って贈る程度の余裕は俺にもあった。法子は呆けたように、記念、とだけ呟いた。
店を出て、堅い表情の彼女を連れて道を歩く。
「あの、お名前は……」
「鈴森彰寿」
「鈴森さんは、あちらによくいらっしゃいますね」
俺が振り向くと、また法子はびくりとする。こちらが悪いことをしているような心持になる。
「……綺麗なお方だから、覚えておりました」
良くも悪くも他人から覚えられやすい顔だ。女性のような顔立ちに不満を抱いた時期もあれど、整っているのは悪いことではないと今は思うようにしていた。
聞けば、法子は学者の娘だが、目算のとおり、さほど裕福ではなかった。
傲慢さのかけらもない、素朴な娘であった。幼い時分は身体が弱く、三年ほど前まで親の郷里である田舎で生活していたという。
「東京は苦手です」
法子は街中を見渡してそう呟いた。
「そうかい? いいところがたくさんあるのに」
「それは、鈴森さんがこちらのお生まれだからでしょう。あたしは違いますもの」
そうやって、自分を卑下する態度が引っかかる。売り場を眺めていたときはあれほど楽しそうだったのに。
「それなら、案内するよ。時間ができたときに」
法子はまた固まってしまう。
「男性とお出かけなんて」
「気にするほどのことではないよ。文具を見に行くだけだ」
文具。その言葉に、彼女は一瞬反応を見せる。面白い女だ、と内心笑ってしまった。
「日本のものもいいよ。値もさほど張らない」
不意に、彼女の表情が冴えないものに戻る。
「すまない、外国の方が好きかな? それなら」
「あ、いえ……そんなにたくさんは持てません。贅沢ですもの」
「そうかい。いい店を知っているんだ。見ているだけでも楽しいくらいで」
ぴくりと反応を示した彼女は、少々迷った末に頷いた。その瞳は、憂いの色がまだ濃く残っていた。
それから俺たちは頻繁に会うようになった。
何か買ってやると言うと固辞する。売場にいると満面の笑みなのに、店を出るとすぐに暗くなってしまう。遠慮がちに俺に寄り添って、躊躇いがちに俺に触れる。
法子はそういう女性だった。
もっと彼女の嬉しそうな顔が見たかった。売り場に行かなくても、俺の前で笑ってほしかった。
ある日、俺はショールを携えて彼女と落ち合った。彼女の白い肌によく映える色を選んだ。
これからの季節、きっと喜んでくれるだろうと思った。彼女もまた、俺と同じで冬が苦手だと言っていたから。
「ちょうど似合いそうだと思って」
そう言いながら渡すと、法子は悲しそうに俯いた。
「受け取れません」
「何故?」
「あたしにはこんないいの買えませんし、ふさわしくもありません」
またそんなことを言う。その性分はとても惜しく感じられた。
「俺が渡したかっただけだ。普段買わないなら尚更、もらえるときに受け取っておけばいい」
「いいえ。頂けません。……今日、言おうと思っていました。もう彰寿さんには会いません」
何を、と固まる俺に、法子は薄く笑った。
「いろんなところに連れて行ってくれましたね。どこの人も、みんな親切でした。あたし一人では見向きもしないような人たちでしょうに、彰寿さんがいれば……」
「それは」
「聞きました。彰寿さんは華族のおうちの方なんでしょう。しかも、雲の上の方々ともご縁があるとか。そんな方と一緒にはいられません」
「気にしなくていい。俺は……」
「あたしは気にします。あなたにふさわしくありませんし、遊び相手にもなれません」
「ふさわしいとか」
好きなものを目にすると、いつもの憂い顔がどこかに行ってしまう。そんな彼女でいてくれれば、それでよかったのに。
「彰寿さんは何でもお持ちです。お家柄も、綺麗なお顔も、何でも。これからもきっと、いろんなものを……一番いいものを手に入れられるでしょう。奥様だって。けれども、あたしは違います」
「何故そう、後ろ向きなんだ」
法子は涙を流しながら言う。
「彰寿さんはご自分のことをおわかりじゃないんです。そして、人の心も。彰寿さんが、あたしを後ろ向きにさせるんです」
「法子、君は何か勘違いを……」
「あたしは平凡な女ですから、平凡に生きたいんです」
呼び止める声に振り向くことなく法子は足早に去った。そして以後、決して俺と会おうとしないままだった。
そんな事情を知っている寿史兄は笑う。
「あのお前がやけにご執心だったからな。興味あったのに」
父上には内緒で、と片目を瞑って笑う。
「ああ言われてはね。去る者を追っても仕方がないでしょう」
何故、彼女はあそこまで自分を下げようとするのだろう。高山田ではあるまいし。もっと自信を持ってもよいだろうに。
所詮、数多いる女性の一人。そう自分に言い聞かせた。
けれども、あの先にも後にも、本当に気にかかる女は、法子ただ一人だけだった。




