第十話 あちらの母とこっちの母
桧山さんが再び我が家にやってきたのは、七月中旬になってからだった。
「本、ありがとうございました」
そう言いながら、お土産もつけて返しにきてくれた。わざわざ厳重な作りの保冷バッグに入れての持参だ。
本を何冊か貸しただけで別にここまでしなくてもと思いつつ、ありがたく受け取った。
「あ、長谷屋ですね」
「そう、そうなんです! やっぱりご存知だと思ってました!」
長谷屋は、維新のあった陽慶時代に創業した洋菓子屋で、目新しさもあって流行した。彰寿の生きていた奉佳・正寧時代にはすっかり定着して、華族だけでなく、やんごとなき方々も好んで食べていた。
箱に印刷された紋に、当時の面影を感じる。
かつてほど有名ではなくなり、デパ地下などにも出店はしないものの、この時代でもひっそり商売を続けているらしい。
「うわ、懐かしいー」
「え、お兄ちゃん、食べたことあるの?」
芹花が訝しげに聞いてきた。
数十年経った現在、日常生活で長谷屋の名前を聞くこともほとんどない。もちろん、智樹が食べた経験もない。
「えっと、ほら、俺もあの時代好きだからさ、チェックくらいするよ」
「ちょっと、だったら私の分も買ってきてよ!」
肩を拳で叩かれる。ちくしょう、革前だったら、お兄様相手にこんな乱暴は絶対許されないぞ。兄は敬うものなんだからな。英喜の世に生まれたことに感謝しろ。
母さんが仕事で不在なので、まずは桧山さんも含めた俺たちだけで頂くことにした。
彰寿の幼少時――奉佳時代と同じ、シンプルな形のケーキだ。現代だとちょっとやぼったいかもしれないけれども、逆にそれがいい。革前っぽさがより強調される。
フォークで端を切って口の中に運ぶ。あまり甘くはないクリームが舌の上で静かに溶けていった。
――ああ、この味だ。ぼんやりとしていた記憶がはっきりしていく。
幼い頃、彰寿はこれが大好物だった。この間の夢でも食べていた。
嬉しそうに食べる息子を、鈴森の母はいつもにこにこと見つめていた。美味しいと告げて返してくれる穏やかな微笑みがとても綺麗で、大好きだった。
幸せだったなあ。
昔を思い出してしみじみしていると、桧山さんと目が合った。
「あ、美味しいです。ごちそうさまです」
「よかった。ほら、夏にケーキってどうかって自分でも思ったんですけど、喜んでもらえるような気がして」
「すごく嬉しいですよ」
ただ本貸しただけなのに。
「こんなの頂いたら、逆にお釣りが必要っていうか、むしろこっちがさらにお礼を……」
「え、じゃあ、また革前のこと教えてください!」
桧山さんは身を乗り出してくる。
え、そんなのでいいのか?
「あの、お茶とかそういう」
「奉佳から正寧にかけて、その、鈴森彰寿とかそのへんについて、ご存知でしょうか?」
彰寿?
なんてピンポイントなところがきたんだ。
知ってるも何も、元は本人です――そんな風に笑って返せる度胸はなかった。
「鈴森彰寿好きなんですか?」
「はい、大好きです! あの時代でも特にっ」
これ以上ないくらい元気な声と笑顔だった。
霊園での一件のあと、彰寿ファンとやらが気になってネットで調べたことがある。確かに、ごく一部の若い女性には人気なのか、ブログなどでたびたび名前が挙がっている。文献は少ないのに。
しかし、芹花はともかく、いざこうして彰寿好きだという人に出会うと複雑な気分だった。
とは言いつつも、もちろん断るはずもない。
彰寿周辺のことなんていくらでも話せる。その日も俺は饒舌に語ってしまった。
先日のように、桧山さんはそれを熱心にメモした。前回よりもかなり必死な様子だった。そんなに好きなのだろうか。
「あの、もしよければ、紙にまとめてそれ渡しましょうか?」
そのほうが手間も省ける。話だけではカバーできなかった部分についても取りこぼすことないし。
「え、悪いですよ」
「いや、俺は今は別に忙しくないし、それくらいやりますよ」
桧山さんは少し考えたあと、頷いた。
「じゃあお願いします。でも、今日はもうちょっとお話聞いてもいいですか。」
もちろん、いくらでも。そう答えると、彼女と芹花は顔を見合せて苦笑した。
「幼年学校出身の人と、中学から入ってきた人との関係なんですけれど――」
桧山さんは、俺に話を聞きたがっているけれども、思ったよりも詳しい。質問がやけに具体的で、俺が教えなくても答えを知っているんじゃないかと思うほどだった。
鈴森家の位置づけ、華族としての立場、交友関係、学校での成績、軍での勤務内容。
どこにも記録が残っていないような、よほど細かい情報は知らないふりをしたものの、気を抜くと話が止まらなくなる。
それも、彼女と芹花は喜々として聞いていた。
俺はつい尋ねる。
「女の人って、鈴森彰寿ファンが多いって聞いたことありますけど」
ネットの評判だと、八割が顔について触れている。多くの女性は、彰寿という男の価値を容姿だけと思っているのだろうか。やはり退場が早すぎたせいか。
「ああ、そうですね……。やっぱり、はまりますよ!」
「また、いったいどうして……」
「傲慢ってよく言われていますけれど、熱血なんだと思います。国に対する忠誠心がメラメラで、周囲の人に求めるものも高くて。それに、他人だけじゃなくて自分にも厳しいじゃないですか」
予想外だ。
こんな風に面と向かって誰かから彰寿のことを聞くことって、今までほとんどなかった。なんとなく気恥しさが出てしまう。
でも、自分のこと振り返っても、熱血とか思えないんだが……。
「それゆえの行動だと思えば、多少きつい言動も納得できるかなって」
「でも、最終的には、『ただし、イケメンに限る』ですよね」
芹花の言葉に桧山さんは顔を赤くしながら笑い、軽く芹花の腕をつつく。
「まあ、そうだけど、そうなんだけどー」
俺は笑ってみせる。
この人は彰寿のことを好きでいてくれる。それは、芸能人に対する感情に近いだろう。だとしても、ちょっと喜ぶくらいなら罰はあたるまい。
それにしても本当に話をしていて楽しい。専門用語も理解しているし、むしろ語るこちらのツボを理解しているように、どんどん話を広げてくれる。
年寄りならともかく、永喜生まれでここまでわかってる人なんてかなりの少数派だろう。
彰寿の記憶を持っていることを、こんなに嬉しく感じるのは初めてかもしれない。
しかし、水を差す名前がここで飛び出た。
「ところで智樹さん、高山田邦勝はどうでしょうか?」
ギクリとする。
「あー、どんなんでしょうねえ」
名前を聞くだけでいやな汗が出てきた。
「ほら、彼は銀座事件のあとに自殺してスポットライトが当たったじゃないですか。だから、あまり知らないんですよね」
「ああ……そうなんですか」
ちょっとがっかりした顔を見ると心苦しい。が、生前のあいつには詳しくてもあまり口にしたくないんです、ごめんなさい。
うっかりあの顔を思い出し、胃がムカムカする。確かに慰霊碑で手を合わせたりもしたが、やっぱり好かん。一度死んでみたが、やっぱり嫌いなものは嫌いだ。
「彰寿とは仲悪かったみたいだっていうのは知ってますけど」
桧山さんはこらえきれない様子で笑いだす。
「ふふ、高山田邦勝の日記とか手紙って読んだことあります?」
そんなの出回ってるのか。そういうあまりに個人的なものが死後に出るって、普通だとしてもちょっとなあ。まあ、恥ずかしいこと書いてあるなら、これに関してはざまあみろって言ってもいいだろう。俺の流出は手紙だけでよかった。
「彰寿のこと、たっくさん書いてあるんですよ」
噴き出すように芹花が笑う。俺は目が点になった。
「はい?」
「気を使ったのか、身内へはそんなに書いていないんですけど、知り合いへの手紙には『実にけしからん野郎だ』とか『あのやせがますは鬱陶しい』とか『相手の最も痛いところをあえて突くことに愉悦を感じる卑怯者』とか延々と。日記にも、三日に一度は彰寿のこと出てくるんですよ」
ねちっこいやつだと思っていたけれど、そこまで俺のこと嫌いだったのか。そういう俺も、誰かに高山田の愚痴を聞かせたりしたから人のことは言えないとはいえ。
それでも、憎い人間に好かれるより、嫌われるほうがマシかな。
「はあ……」
「お互い、実力は認め合っていたみたいだし、なんだかんだ言って邦勝は彰寿のことよく見ていたようなんですよね。本当は仲良くなりたかったんじゃ」
「いや、それはありませんね」
反射的に言葉を出してしまった。
女子二人は驚いていた。しまった、と思った瞬間、桧山さんは苦笑した。
「ごめんなさい。まあ、彼らが死んだあとに生まれた私たちが好き勝手に言ってもしょうがないですよね」
端から見れば俺も他人だからなあ。
しかし、死んだ人間って本当に好き勝手に言われるものだよな。だって、本来なら反論できないし。生前以上に、個々のイメージが異なるんだろう。
桧山さんは高山田に関してもわりと好意的のようだ。実際のあいつを知らないとそうなるのか。会話をしてみると、本当に粘着質で気持ち悪いやつだったのに。
実際の俺は……。軍博で見た資料を思い浮かべる。本当に、死んだらそれまでなんだよな。
ちょっと切なかった。
桧山さんの住まいは我が家から遠いうえに門限が早く、今回も早めにお開きとなった。
前回のように数度おじぎをしながら去っていく背中を見ていると、どうも寂しくなった。もっと一緒にいたい、と。
これって彼女に恋をしてるってことだろうか。恋愛感情をすっかり前世に置いてきてしまったような感覚だから、判断に悩む。
確かに、話していると楽しいし、盛り上がる。これが単に前世と現世に悩む心を慰める行為だとしても、革前時代に浸れて心が弾む。
あー、なんで今さらこんな子供みたいな……ってよく考えたら今はそうか。
その後、すぐに母さんが帰ってきた。父さんは夜中の帰宅になるので、三人で食卓を囲む。そこで桧山さんの話になった。
「歩実さんね、お母さんの分もケーキ持ってきてくれたんだよ」
「え、嬉しい~。しっかりしてるねえ、芹ちゃんもどんどん見習ってね」
うーん、芹花とはキャラが違いすぎるし、無理じゃないかな。
食後、母さんはケーキ残りひとつと、紅茶のカップを三客出してきた。自動的に、俺と芹花もお茶に付き合うことになる。
芹花と母さんは、ぞっとするくらいミルクをたっぷり入れる。彰寿の頃からストレート派の俺としては、何故クリームたっぷりのケーキにミルクティーを合わせるのか理解できない。
そのケーキを一口食べると、母さんの表情が一気に緩んだ。
「へえ、名前しか知らなかったけど、なんか素朴な味だね。懐かしい味」
「創業当時はハイカラな味だったんだよ」
今時の店のケーキは派手だ。百年以上ずっと同じ品質を守っているこれは、やっぱり地味に見えるかもしれない。
「ふうん」
俺は長谷屋のことを説明する。そこに芹花が、本を借りたお礼としてそれにちなんだケーキをくれた、と付け加えた。
「歩実さん、お母さんのこと可愛くて料理上手で優しいって言ってたよ」
「やだあ、照れるなあ」
この年齢の女性に可愛いって誉め言葉なのだろうか。まあ、でも本人は嬉しそうだからいいのかな。
「ああいう子が智くんのお嫁さんになってくれないかなあ」
「は?」
「あ、いい! 歩実さんなら大歓迎!」
「ね! 芹ちゃんもそう思うでしょ?」
芹花はこちらを見て、何か裏がありそうな笑顔になる。
話を勝手に進められても。まだ何の進展もしてないってのに。あっちの気持ちとかさ。今どき礼儀正しいお嬢さんなのは確かだし、俺だってまんざらではないけれど。
母さんは想像を膨らませていく。いつの間にか、孫が生まれたときのことにまで話が広がっていた。彼女は妄想が大得意なのだ。
こういうところはさすがについていけない。しかし、この人はまだ、自分の息子が誰かの生まれ変わりだという事実は考えていないようだ。想像の範疇外ってわけか。
話を聞き流してぼんやりとしていたら、母さんは不意にニコリとした。
「なんか、こういうケーキもいいね。お母さん研究して作ってみるからさ、またみんなで食べよ!」
その瞬間、鈴森の母の顔が思い浮かんだ。
――彰寿さん、美味しい?
彰寿の後を追うように亡くなったと寿基は言っていた。愛する息子の死に、彼女は何を思っただろうか。
俺が殺したようなものなのだろうか。彰寿が生きていたら……。
会いたい。
あの人は、もうこの世のどこにもいない。ましてや、松井智樹の人生には何の縁もない女性のはずだ。
それなのに、あの人の慈しみに満ちた目が忘れられない。
ああ、ごめんなさい。謝る言葉しか出なかった。父さんのときと同じように。
今の両親を見れば、昔の両親を思い出す。同じ親と言えど、両者はいろんな意味で対照的だ。
けれども、どちらも息子を愛している。それはわかっている。わかっているのに。
心情を探られないように、俺は作り笑いを浮かべた。芹花と一緒にきょとんとする母さんの顔に、ゆったりと微笑む鈴森の母を重ねながら。




