プロローグ
麗しの銀座は薄鈍色。すべてが色褪せるような緊張感に満ちていた。
小銃の重みを感じながら、俺は上官方の背と周囲を交互に見る。
吐く息は白く、曇天は綿雪が降下を今か今かと待ちわびているようにも見えた。
冬はどうも嫌だ。身体が縮こまる。
風はなく、柳の葉すらも揺れていない。いつもの喧騒は完全に消え失せていた。
どうしてこんなところでやらなければならないのかね。
忌々しい顔が脳裏をかすめる。今ごろ罪の意識に怯えていればいいものを。
不意に、遠くから発砲音が聞こえた。俺の反応を背後で感じ取った楠田大尉は鋭く制止する。
「鈴森、まだだ」
俺は唇を噛む。
「中隊長殿、お聞きになりましたか。これが彼らの――」
すると、政木中佐の感情を抑えた声まで飛んでくる。
「今動かすわけにはいかない。まだそのときではない。……それに、あちらさんにはお前の同期もいるのだろう」
言われなくともわかっている。俺は皮肉げに笑ってやった。
「高山田でありますか。あれとは元より折り合いが悪い。情など欠片もございませんよ」
彼とは挨拶の代わりに罵り合う仲だ。
高山田邦勝。俺とは軍学校で同期だったとはいえ、境遇はほぼ正反対だった。
俺は華族の一員で、父は子爵、母は伯爵家の出である。対する高山田の家は、元は士族であったものの、貧しい生活を送っていた。彼は生来の優秀さによってその身を立てるより他なかった。
軍学校の時分より彼のことは苦手だった。率直に言えば、軽蔑さえしていた。
いつも彼は華族や上流階級の子弟を敵視し、決して心を開こうとはしなかった。誕生時より身分が保障され、苦労も知らず安穏と生きている人種が気に障るのだという。
ゆえに、同期の中でも特に俺が、彼の敵意を最も受ける羽目になってしまった。帝や総理とも系図上縁のある、少々目立った立場が癪だったようだ。無論、成績が拮抗していたことに加え、性格も合わなかったが。
確かに俺が恵まれた環境を得ているのは、生まれつきの運によるところが大きい。しかし、それをわざわざ妬むのは馬鹿らしいだろうに。
立場に甘え怠惰を享受しているなどと蔑まれる謂われはない。現に奴を押さえて首席で卒業してやったのだ。
俺も彼も、近いうちに、軍大学に入るつもりでいた。そこでも同じやりとりを繰り返すのかと案じていた矢先にこれだ。
在学時より平等論を誰かれ構わず展開していたものだが、まさかクーデターに与するなどと思わなかった。
高山田は生理的に気に食わぬ、卑屈で陰険で理想ばかりを口にして満足を得ている、どうしようもない人間ではあった。しかし、俺もその有能さだけは認める。さしものあいつもそれだけは踏みとどまる頭を持っていると思っていた。
一般に同期といえば強固な絆にて結ばれていると言うが、元々反りが合わぬだけでなく、今や国に弓引く大逆人だ。
今ここに現れしものならば、俺直々にあの蜥蜴のような顔に銃弾を浴びせたいものだ。
彼の顔を思い出しながら、俺は前方を見据える。
そのときだった。
発砲音が数発分、響き渡る。今度はずっと近くに聞こえた。
反射的に身構えた次の瞬間、俺の身体は跳ねて一瞬宙を舞い、背中で滑稽に着地した。
重い色合いの空を仰ぎ見る。続けて胴に弾けたような感覚があった。数秒遅れて痛みが訪れ、撃たれたのだと気づいたのはそれからだった。
視界に、白いものがちらつく。それが雪なのか、俺の失われていく意識によるものなのかはわからなかった。しかし、桜のようで、美しいと思った。ずっと、春を待ち遠しく思っていたから。
何も聞こえない。静かだ。
俺の顔を覗きこむ人々の口の動きは見えども、何と言われているのかまるでわからない。
寒い。全身が冷たい。体温が地へ吸われていくかのように。
俺は死ぬのか? ここで?
身体の中が鉛で満たされたようだ。力が出ない。胸にさまざまな感情が宿るが、つっかえて出てこない。
――ああ、お前がいるのだな。
姿など見えなくとも、彼の存在を確信した。きっと何処かで、この惨めな俺の姿を眺めているのだと。
高山田よ、この国を己の理想のままにした後、お前はどうするのだ。
その場で唯一出てきたのは、その問いだけ。
そこで全てが終わった。そのあとは何もなかった。