お兄ちゃんの、マンション。 上
私はお兄ちゃんのマンションに来ていた。
遠くない内に引越しをする、という話は聞いている。段ボールはちらほらと積まれていて、棚はやや寂しくなっていた。仕事道具と普段使いの生活用品が出ているだけ。
お兄ちゃんはぼーっとしたような顔をしていた。どこか疲れているようでもあった。
「義理姉さんはいないの?」
「友達と声優のライブ行ってるよ」
「あら……」
オタクさんな休日の過ごし方を。終わった後は池袋に行くのかな?
「えーっと……」
お兄ちゃんはモソモソと頭を掻いた。そして、話そうとしながら、なかなか話し出せない様子だった。
「……あのね、お兄ちゃん」
焦れったくなって、私から切り出す。お兄ちゃんは「うおっ!?」と小さな声をあげて挙動不審だった。
なんでこんな変な気を使うようになっちゃったんだろう……あんなに仲がよかったのに。その事実が、少し悲しかった。
「アニメ化、おめでとう。……まだちゃんと言ってなかったから」
「……ありがとう。まぁ、アニメ化っていっても、まだ候補だから本当にアニメ化するかはビミョーだけど」
「でも、嬉しいよ。お兄ちゃんの作品がみんなに認めてもらえてる」
本当に嬉しくて、一時でも手伝えたことが誇らしくて。そんな人と巡り合えて、その上自分のお兄ちゃんなんて、運命にしても偶然にしても奇跡にしても。
フ、と、お兄ちゃんの口元が緩んだ。さっきまではガチガチに緊張して引きつっていたくらいだった。
でも、目元はけして明るくないし、私と視線を合わせようとしなかった。
「本当にありがとう。これでも俺も、曲がりなりに、多少は、世間に認められる人間になれたかもしれない。……たまちゃんのお陰だと思ってる」
胸が刺繍針で刺されたみたいにチクリと痛んだ。
お兄ちゃんがどんな顔をしているのか、気になる。でも、俯くことしかできなかった。聞こえてくる声は柔らかい。
お兄ちゃんは私のことどう思っているの。あの漫画は、ただの作り話? それとも、本当の気持ち?
お兄ちゃんは段ボールから一冊の本を抜き取った。あの本――私は妹、だ。
「俺は、漫画家として、人間として、一区切りつけるために、この本を出すことにした」
本が差し出される。お兄ちゃんのゴツゴツした手を辿って視線を上げると、真剣や真面目というより、覚悟を決めたような、勝負に向かうような、勇ましい表情があった。お兄ちゃんのこんな顔を見るのは初めてだ。
「気持ち悪いかもしれない。怒るかもしれない。……でも、嘘偽りなく、これが、俺のたまちゃんに対する気持ちだ」
さぁ、読め。――そういうことなのだろう。お兄ちゃんの冷や汗をかきそうな嫌なドキドキが、手に取るようにわかった。
……あぁ。お兄ちゃんは嘘つきじゃなかった。ただのロリコン野郎じゃなかった。最低かもしれないけど。それでも、私はそう思った。そう感じた。それでいいのだ。いいじゃないか。
「先生。新刊、面白かったです」
私は本を受けとって、抱きしめた。本の厚みや重みは頼りないけれど、確かにここに存在している。
「へぁ?」と、お兄ちゃんは間抜けた声を出した。目が点になっている。こういうところが可愛い。少し、笑いそうになってしまった。
「でも、最低。妹をあんな目で見て、想像の中で犯し尽くすなんて。いちいちいやらしい妄想するなんて変態。挙句それを本にして売っちゃう? 信じられない」
「……本当に申し訳ございません。ぐぅの音も出ません。全てたまちゃんの仰る通りです。俺はダメなお兄ちゃんです」
床にベタリと頭を付けてお兄ちゃんは土下座した。二度目の土下座は、あらかじめそうすることを自ら予測した落ち着きのある土下座だった。
「……でも、すごく嬉しかった。私はずっとお兄ちゃんを信じていたから。お兄ちゃんは絶対に嘘をつかないって、信じてた」
裏切られたかもしれないし、何度も何度も疑ったけど。それでも私はお兄ちゃんを許す。好きだから。
気の重い沈黙が、一瞬だけ私たちの間に落ちた。冷たいような空気に私は緊張した。お兄ちゃんは私の求めている答えと違う答えを出そうとしている。そんな予感、なのかもしれない。
「確かに俺は、たまちゃんが好きだった。今でも好きだ。たまちゃんにお湯かけられた日、すげー嬉しかったし、グラッて来たし、その分辛かった」
硬い声。この先の、拒絶を予測させる言葉の流れ。
心臓が早鐘のように鼓動を刻んで煩い。お兄ちゃんのことを見れない。息が苦しい。
「でも、だからこそ、俺は頑張れた。彼女だって、最初は苦手なタイプだったけど、接して行くうちにいいところに気がついて、だんだん好きになったんだ。今じゃ俺のかけがえのない人だよ。あいつと結婚して子供作って育てて、そんなビジョンも見える。ちょっと前じゃ考えもつかないことだ……」
お兄ちゃんと彼女さんの幸せ家族計画。暮らしていける程度の生活だし、そのうちギスギスしてくるけど、信頼でやっていける、多くを望まずに多くを得ずに、そんなアットホームな幸福。仕事は変わっているけど普通の家庭。
お兄ちゃんがまくし立てた言葉から、そんなつまらないものを想像してしまった。現実になりそうだ。