向上月君と、図書室。 下
「そういえば、まだあんまり聞いてなかったよね。お兄さんについて。……怖くて聞きたくなかっただけかもしれないけれど」
だんだんと向上月君の目が鋭さを帯びてくる。告白された時のことを思い出した。
怒ってる? ……とは違う気がする。嫉妬は多大にあるだろう。それ以外の複雑な感情は理解しきれない。
「ぶっちゃけたところ、君たち兄妹以上の関係だろう」
尋問するようだった。切りつける視線が言葉を叩きつける。肉体的拘束はされていないのに、強烈な圧迫感だった。
「……そんなの、向上月君には関係ないじゃない」
「ふぅん、そうか。ヤったんだ。何回? ……まぁいいや、そんなことは」
一拍の沈黙。
「悔しい。僕のことだけ考えてよ」
首筋に額が乗せられた。バンダナのがさついた生地が頬に当たる。拗ねて甘える子供みたいだった。
ごめん。とも、ありがとう。とも、言えない。私は少し困って、会話のキャッチボールを放棄した。
「……私ってそんなにわかりやすいの?」
お兄ちゃんと致したことは否定しなかった。実際にその通りだから。
そして、向上月君には嘘や隠し事はできない気がした。他にどんな理由があるわけでもなく、単純に、無駄だと思った。そのことについて、明確な動機付けはない。直感だ。
「わかりにくいよ。全然顔に出ないから。でも、僕にはわかる」
「なんで?」
「君のことが好きだから。……なんて言えたらカッコいいよね」
何がおかしいのか知らないけれど、向上月君は、ふっ、と笑ったようだった。決して明るい笑いではなかった。
「僕、人の心の声が聞こえるんだよ。信じる?」
信じる、って。
普通に考えたら嘘くさい。嘘か勘違いか精神病だと思うだろう。
でも、向上月君ならあるいは……。そう思わせてしまう、不思議な子なのだ。平均的な人と違うところがいっぱいあるから、何がどう違うなんて挙げていられないけれど。
「もちろん全部聞こえるわけじゃないし、聞こえない人もいる。どういうわけか相馬君のは聞こえないんだよね」
だから相馬君と仲良しなのか?
「私のは……?」
「わりと、よく聞こえる。けっこう言ってることと思ってることが違うよね。親しくなると特に」
「そうかも……あんまり気にしたことなかったけど」
視線がかみ合う。向上月君がじっと私を見つめる。怖くない目は澄んでいる。
「ザワザワした教室の中で、綾瀬さんの声が聞こえたんだ。透き通った水みたいに、綺麗な声だった。心地よく目が覚めるような思いだった。この声なら、いつまでも聞いていたいと思った。僕は君に惚れた。ーーこんなあらすじ」
あまりにも感覚が違いすぎてピンとこない話だった。
「……よくわかんない」
「人の気持ちなんかわからないもんだよ。声が聞こえてきたって、本当の意味では理解できなきんだから」
まぁ、それはそうかもしれないけれど。なんでそんなに切り捨てるような言い方をするのだろうか。なんだか、寂しい感じがする。
「綾瀬さん、僕が今考えてること、わかる?」
向上月君は私の顔を覗き込んでくる。
「……なんだろう?」
難しいこと考えていそうな気がする。
クスリと向上月君は上品に笑う。
「綾瀬さんのことだよっ!」
「あら……」
そんなこと自己申告していたら自意識過剰みたいじゃないか。
「だから綾瀬さんも早く僕のこと考えて。僕のことだけ考えてよ」
「……頑張ってみる」
向上月君のことだけを考える。それは、お兄ちゃんへの想いを吹っ切るためには、最良の手段なのかもしれない。
バン!
ーー机から音。多分、手で叩かれたのだ。
やばっ。怒られる……私がびくりと体を跳ねさせているのに、向上月君は平然としていた。
「おーい、学校でイチャついてんじゃないぞー」
先生だ。
知った声にホッとした。同時にたまらなく恥ずかしかった。
「邪魔しないでくださいよ、もぅ」
ぷくーとわざとらしく頬を膨らまして拗ねて見せる向上月君。
先生は呆れた顔だ。
私は……目を合わせられなくて俯く。
「いちゃつくなら家でやれ、家で。あと学生の域は越えんなよ」
「家には親がいますから。あと学校ってシチュエーション良くないですか?」
「心底気持ちは察するが教師として推奨できんな」
先生と向上月君は一体何を話しているんだ。意味は理解できるけどほとほと呆れてしまう。恥ずかしさが瞬時に蒸発して消え失せた。
バカバカしい……。なんで男性ってエロに妙な情熱を燃やすのだろうか。体の構造が違うから、基本的なところで理解できない。
好きとか可愛いとか、それと違うところに性欲がある。性欲は時に好きとか可愛いとかと掛けられて、ごちゃ混ぜになって膨らんだりもする。だけど切り離すことも簡単にできる。
全然わからない。
お兄ちゃんの漫画を読んで、少しだけ知識として理解できたつもりでいた。だけど、根本的なところで私は全然わかっていない。
私はぼんやりと考える。
本当にお兄ちゃんは私が好きだったのだろうか。
向上月君は本当に私が好きなのだろうか。
私は本当にお兄ちゃんが好きなのか。
私は……。
私は、お兄ちゃんが好き。
一つ一つの理由なんてあげていられなくて、きっかけなんかなくても人を好きになることはできる。つまらないこじ付けなんて語ってもしょうがないなんて、色々な歌が歌っているくらいだ。
でも、私に理由がなくても、人に理由を求めてしまう。勝手に考えてしまう。
お兄ちゃんは私の見た目が好きで、テンションでそうなって、後悔していて、全部私の勝手な思い込みで、迷惑していて。
向上月君はただの電波。
なんだって言うことはできる。人を信じなくなれば尚更のこと。
本当にわからないことばかり。
聞けば嘘を吐かれる。私なら嘘を吐く。でも本当かもしれない。
それでも私はお兄ちゃんが好きなんだ、と、否応なく思い知らされた。
嘘でもいいからもう一度ぎゅっとして頭を撫でて欲しい。ーーバカみたい。