高校生になってからの、お兄ちゃんと私。
時間に急かされているわけではない。しかし、私の心はどこか急いでしまう。
一秒でも早く着いて、一秒でも長くいたい。……そんな気持ち。
学校と自宅の間の駅。駅から十五分歩くと目的のマンションがある。
七階建て。ちょっとボロい。外から見ると煤けてる。
そんなマンションに、私の義理兄はいるのだ。
玄関チャイムは二回、一定のリズムで鳴らす。ピポピポーン。お兄ちゃんが提案した"お約束"だ。
「珠美です。お邪魔します」
こんなこと言わなくてもいいけれど、私は断らないといられない性格なのだ。
親しき仲にも礼儀あり。なんせ、お兄ちゃんのマンションとは言え、ここは『仕事場』だ。家族の気持ちでずけずけ入って行くのは間違いだろう。
「うおっ!?」
ガタッ。バサッ。
ーー呆然とする間。
端的に擬音で表すなら、そんな感じだ。机周りの風景から、お兄ちゃんの間抜けな表情までよく想像できる。まるで頭の中にもう一つ同じ世界があるみたいに。
まったくもう、そそっかしい人。
私は少し笑いそうになってしまった。
「お兄ちゃん、何やってるの」
「いや……ハハハ」
床に這いつくばったお兄ちゃんは引きつった笑みで対応してきた。
中肉中背。顔は可もなく不可もなく。短髪は特に染めたりしていない。着ているのはお母さんが買ってきたジャージ。足短い。なんとなくダメっぽいオーラの漂う人だ。
床に散らばった原稿に目を遣る。これは……下絵を書き込んでいる段階かな。
そう。お兄ちゃんは漫画家だ。……ちょっと、人には隠したくなる内容の。
原稿に描かれたラフは、裸婦だった。
身体の小さな黒髪の眼鏡の女の子が、数人のモブ男の一物を舐めたり扱いたりしているシーン。
「ちょ、ちょっ! まじまじと読むなし!」
お兄ちゃんは慌てた様子で私の手から原稿を奪い取った。少し顔が赤いのは恥ずかしいからだろうか。
「何を今更」
たまにべた塗りとか手伝うのに。それでも相変わらず、締め切りギリギリにならないと私に原稿を見せるのは恥ずかしいらしい。
「リアルJKが読むもんじゃない」
お兄ちゃんは早口にそれだけ言うと、床の原稿収集に掛かった。
「手伝おうか?」
「いらない。それより腹減った」
「うん、わかった」
鞄を部屋の隅に置いて、私は台所に向った。
これが私の仕事である。お兄ちゃんの仕事場での家事。片付けも洗濯も、時々私がやらないと溜め込むクチだ。
お昼ご飯か。手早くできる方がいいよね。簡単な炒め物にしよう。
そんなことを考えて家事をしている瞬間は、なんだか責任のある大人になった気分だ。こうやって面倒見ないとダメな、手のかかる大人がいるからかな。お兄ちゃん、もう26歳なのに。
10も歳が違う、義理の兄妹。
中一の時、私にしてみれば唐突にできたものだった。
お母さんの再婚に反発するつもりもないし、あぁそうなんだ、って、素直に受け入れて興味を持っていた。
漫画家ということは少し前に知らされてきた。直接見せてもらった漫画は、なんかシュールな四コマと可愛いイラストの載ったーー萌え系と言うのだろうかーー紙を折って作られた本だった。
興味を持った私は、ペンネームをネットで調べてみた。
出てきた本は成人指定の、汁ドロドロ、いかにも隠語なタイトルの漫画だった。
キモい。ヤバい。
私は危機感すら感じた。
当時の私は眼鏡に三つ編み、身体も大して大きくなくてーーよく知らない通販ショップに表示された表紙の女の子と同じ要素を持っていたから。
試しに、と、そのまま数冊注文して読んでみた。
相手が何を考えているのか知りたかった。それを知らずには、この先家族としてやっていけないとすら思えた。
そして、読後は物の見方が変わってしまった。
表紙に反して純愛もので、話がしっかりしていて、最後は感動してしまったくらい。ーーネットでの評価は「エロ漫画としてどうなの」ってコメントはあったけれど。
エロを通して何か伝えたい人なのかもしれない、と、思った。ストレートな欲望だけをぶつけた漫画じゃないから、ビビりながらも最後まで読めたんだと思う。(今は慣れた)
それ以降、お兄ちゃんはキモくないし、怖くないし、尊敬する人物になった。
「できたよー」
二人分のお昼を、作業机とは違う机に置く。て言うか、作業机は汚くて食事なんか乗せられやしない。
「おお、ありがと」
「どういたしまして」
お兄ちゃんは、はにかむように笑ってくれる。だから私も、笑い返す。
こうやっているときが、ちょっと、幸せ。




