「童貞のまま死にたくねぇ」
「綾瀬さん!」
新学期、空気が冷たい二日目の朝のことだ。向上月君は内容を言う前に両手を合わせて頭を下げてきた。
「ごめん! 今日の放課後、図書当番手伝って!」
「え」
図書当番って手伝いがいるようなものだっけ? 確かに冬休みの間に借りた本を返す人はいるだろうけれど……。
「……ダメ? 忙しかった?」
下げた頭、視線だけ上げて私を確認してくる。狡猾な女の子がお願いしてるみたいだ。
「ん、いいよ。もう放課後に用事なんかないから」
……なくなってしまったから。
ずいぶん経って、その事実に違和感がなくなっている私に気がついた。しかし、心のどこかに嫌な感覚があることも確かだ。
向上月君はホッとしたように顔を上げて、肩をなでおろす。
「よかったー。なんか冬休みの本の返却と、遅延の催促と、本の整理とー、みたいな感じで意味不明に忙しいんだ」
「他の図書委員は?」
「来ない。ていうか、当番に来るようなやつが図書委員になると思う? みんながみんなまともに本を好きだと思ったら大間違いだよ」
視線がそれた……一番誤算をしていたのは向上月君だったようだ。表情が仄暗い。
「向上月君、ほんとに本が好きなんだね」
「かな?」
ほんのりとした愛想笑いが浮かぶ。
「実を言うとよくわからないんだ。好きと言えるか」
「ふぅん?」
読んでるんだし好きじゃないの? 何難しいことを言い出すのか。お兄ちゃんは「好きじゃなきゃ漫画なんか書き続けられない」とか言ってたし。……。
「物語って自分のことを忘れることができるから、読んでたんだ。一種の清涼剤みたいな。でも最近はなんだか虚しくて」
そう言う向上月君の目は、ぼんやりと遠くの闇を見つめているようだった。彼がどこを見ているかなんて私には知りようがない。
「ごめんなさい。今の私じゃ向上月君の言うことの全てはわかりかねるわ」
「こっちこそごめん。誰かに聞いてもらいたかっただけ」
どこか寂しく笑い捨てる向上月君。視線が足元に向いている。
病み上がりなこともあり、嫌な予感が掻き立てられてしまう。彼の場合は来るべきものが来ている状況と言っても過言ではないのだ。
「……童貞のまま死にたくねぇ」
おい。悲しげな表情をやめろ。