……なんで、ダメなの。
決行の日は、金曜日にした。
その日は雨だった。悪い天気ではないと思う。
私は久方ぶりに三つ編みと眼鏡を装備していた。ときおり雨粒がレンズに落ちてうざったい。
服装はブラウス、ミニ丈のプリーツスカート、タイツ、ローファー、淡い色合いの薄いカーディガン。お兄ちゃんが前に描いていた、眼鏡の小さな女の子に着て欲しい服装だ。
ピポピンポーン……。
チャイムを鳴らす。煩わしい、わずかな待ち時間。
「……なんだよ」
「お祝いに来たの。どうしても直接言いたくて」
ケーキの箱を胸の前に掲げて微笑む。
お兄ちゃんは、ぶそっとした表情。なんだか私の笑顔が空回りな気がしてきた。……普段から笑っておけば、こんな気分にはならないのかな?
「一種類ずつ、六つなの! ……あ、もしかして、取り込み中だったとか?」
「いや……別に」
「え、えっと……邪魔だったら、帰る」
「……ネーム中。いいよ、あがってけよ」
怖いくらいに素っ気ない態度だった。しばらく来ないうちに嫌われてしまったのかと思うくらい。この時点で怖気づいてしまいそうだった。
「お邪魔します……」
久しぶりに上がるお兄ちゃんの家は、何だか違う匂いがする、気がした。整理されているし、ゴミも落ちていない。
「……私、お茶沸かすね! 紅茶も買ってきたの」
「ポット買った。持ってくから座っとけ」
「じゃあ、お皿……」
「俺が持ってく。座ってろ」
「……」
ケーキの蓋だけ開いて、正座をする。正座をするしかない心境だった。
「お兄ちゃん……私、なんか悪いことした?」
二人分のコップ。一つはお兄ちゃんのだけど、一つは来客用のものだ。
私のマグカップは、もう、ないのかな。食器棚とも呼べない質素なケースの中には、かわいいけど知らないマグカップがあった。
「いや、別に」
お兄ちゃんの表情は、冷たい。学校にいるときの私に似ているかもしれない。
「じゃあ、なんで? なんでそんなに冷たいの?」
言葉を吐くたびに、泣きそうだった。泣かないように我慢していると、声が震えた。
「……たまちゃんは、いい子だから」
ふっと、お兄ちゃんの表情が今日の天気みたいに陰る。
「たまちゃんはいい子だから、無理しているのがよくわかるんだ。俺でも頑張ったらなんとかなった。たまちゃんは我慢しなくてもいいんだ」
……は?
目の前には真剣な顔がある。
「ご、ごめん。話がよくわからないけど……」
「とぼけなくてもいいんだ! だってあんなことされたら……信頼してる相手にあんなことされたら傷付いたって仕方ないよ! それなのに無理して家族関係保ったり、遊びたいだろうに、俺の面倒見させられたり……そんなの、可哀想すぎだろ!」
「ふざけんな!!!!」
私はパックでまだ出汁をとっている段階の紅茶をお兄ちゃんにぶちまけた。咄嗟の行動だった。
「うあっちい!?」
「これくらいでガタガタ抜かすな!」
とぼけたリアクションに怒りが増してしまい、頬へ張り手が飛ぶ。
「痛いっ!」
頬を抑えて床で丸くなってしまうお兄ちゃん。コップ一杯のお湯くらいは大したことないだろう。白いTシャツは染まってしまうかもしれないが。
「し、信じらんない! なんで? ねぇ、なんでそうなるの!?」
転がるお兄ちゃんに掴みかかる。お兄ちゃんはわけがわからないと目を白黒させながらも泣きかけていた。
「ご、ごめんなさい……?」
「わからないのにあやまんないでよ! そんな……そんなの! 酷いよ! お兄ちゃん、好きだって言ってくれたのにっ!」
怒鳴りながら、涙が出ていた。そのことに気づいたら、すっかり怒る気力が失せてしまって、もう泣くことしかできなくなっていた。
「酷い……酷いよ……あんまりだよっ……! お、お兄ちゃんが好きだから、お兄ちゃんのことが好きだから、私っ……嬉しかったのに……っ!」
うっすらと紅茶の匂いがするお兄ちゃんに泣きつく。既に衣服へついたお湯は温度が下がっていて、冷たくなっていた。
「やだ! やだ! お兄ちゃんが他の人にとられちゃうなんてやだ! やだよぉ!」
相手のことなんかしらない。でも、私の方がお兄ちゃんを好きな気持ちでは勝っているはずだ。何倍も何倍も……お兄ちゃんのことが好き! それに、私の方がお兄ちゃんの好みにあっているはずだ。背がちいさくて近眼で長い黒髪で胸がなくて、まるきり子供で。しかも妹だから、こっちの趣味の人にはたまらないはずだ。
それなのに、なんで!
お兄ちゃんは困ったように無言を返してくる。
「お、お兄ちゃん……」
私はためらった。
……でも、これは"駆け引き"なんだ。
恥ずかしさをぐっとこらえる。沸騰してしまいそうだ。唇が震えてきた……でも、これしか、ないかもしれない。
「私を、抱いてください」
女の子から誘うこと。
これすなわち……なんだろう。よくわかんないや。言っといてなんだけど。
……あぁ、都合のいい女になってもいいよってことなのかな。でも、それだけ好きなんだよって、体を張った愛情表現なのかな。
初めて以来経験したことないからかもしれないけれど、そういうことが気持ちいいのって都市伝説だと思っている。女の子側は途中から痛いだけじゃない。
恥ずかしくて顔が見れない。消えてしまいたい。顔が熱い。
私の心臓の音が部屋の中に響き渡ってしまいそうな沈黙。怖い。
お兄ちゃん、どんな顔してるの。でも見れない。触れた体は死んだように硬直している。
「……っ、そんなのダメだ」
お兄ちゃんは私の肩を掴んで、押し返した。手が震えていた。緊張? 恐怖? お兄ちゃんは、どうして震えているの?
ただ、拒絶だということはわかる。
いたたまれなくて、恥ずかしくて、悲しくて、辛くて、切なくて、苦しくてーー私はやっぱりうつむいていた。
「俺たち、普通の兄妹に戻らなくちゃダメだ……あんなことしておいて、こんなこと言うのは調子が良すぎるけれど……でも、ダメだ……ダメなんだ……!」
何がダメなの。ねぇ。
……先生の言葉を思い出す。
ーー男ってわりと臆病になるんだよ。家庭とか仕事とかそれまで築いてきたもの、責任とか信頼とか社会的地位とか名誉とか……無下に放り出せないもんがいっぱいあるんだよな。
そうだね。
お兄ちゃんは、漫画家さんで、大切なことを伝えなくちゃいけないんだ。
きちんとした社会人として、彼女さんと幸せな家庭を作らなくちゃいけないんだ。
そうしたら、お父さんも、お兄ちゃんのことを認めてくれる。
みんな幸せになる。
「……嘘だよ」
私は顔を上げた。
お兄ちゃんは泣きそうな顔をしていた。何で泣きそうなのかはわからないけれど、大人の男の人にかかってくるプレッシャーっていうのは、子供で女の子の私にはわからない。
だから、嘘を吐いて煙に巻くことだってできるかもしれない。
「みんな嘘だよ。だって、人のものって欲しくなるじゃない。だからからかっただけだよ。お兄ちゃんって童貞じゃないのに童貞臭いから面白かった。笑わせてくれてありがとう。私、お兄ちゃんなんかに興味ないもの。この間もクラスのイケメンに告白されちゃったし。顔面偏差値低い上にロリコン漫画家の変態なんか相手にするわけないよ」
カラカラカラ、と空っぽの笑い声をあげる。教室でよく聞こえてくる笑い声と一緒。甲高くて耳障りで、どこか調子外れ。
お兄ちゃんは泣きそうな顔のまま、ポカンと口を開けていた。目も丸い。どこかが足りない子みたいだ。
「バイバイ。結構楽しかったよ。あ、ケーキは彼女さんと食べてね。連載と婚約おめでとう」
私はそれだけ言うと、逃げるように出て行った。お兄ちゃんは呼び止めるどころか、惚けたように一言も発しなかった。




