先生、聞いて。
お兄ちゃんからメールが来た。
少年誌での連載が決まったらしい。少年誌だから、エッチじゃない漫画だ。
そして、あと、一つ。
彼女に婚約を申し込んだらしい。
……え?
彼女?
婚約?
彼女がいたなんて、そんな話は聞いていない。
だいたい、いつから? どこで知り合ったの?
ーーいや、薄々は気がついていた。
あの日の、私の嫌な予感が当たっていたら。まさかそんな運命的なことはないと思うけれど……でも……。
お兄ちゃんの漫画が、伝えたいことが一般の人に受け入れてもらえて嬉しい。
同時に、身を割くような、釜で茹でられるような、嫉妬や悔しさが、身体中でグラグラと煮え立っていた。
悔しい。悔しくてたまらない。
私が妹じゃなかったら。
私が妹じゃなかったら、素直に喜べていたのに。
私がお兄ちゃんの恋人になることができたら。
兄妹じゃなければ。
今までこんなに尽くして来たのに。
こんなに大好きなのに。
いっぱい許して来たのに。
「……綾瀬さん?」
私を引き戻したのは先生だった。
ハッとした。それまで自分がどんな顔をしていたのかすらわからない。
忘れかけていたが、ここは学校の階段のフロアだった。人通りも多いのに立ち止まってしまうなんて、迷惑なことを。
「大丈夫? 具合悪い?」
先生の心配そうな言葉で、なぜだかわからないけれど、急に悲しみがこみ上げて来た。胸が締め上げられるかのようだった。
「わ、私……どうしよう……」
出て来たのはこんな言葉。先生だって困るに違いない。
でも、たまらなく不安になった。
胃の中が真っ黒になるような嫉妬。今まで感じたことのない、裏切りの様な、怒りにも似た、やり切れなさ。
自分でもコントロールのできない感情。客観的になったとき、まるで何かが取り憑いたような、自分じゃないけど確かに自分で、もう一人の自分が入れ替わって出て来たような……。
不安だった。怖かった。嫉妬の反動か、感情の空いたスペースに詰め込まれたのが、そんなもの。
気がついたら涙が出ていた。
先生はギョッとした。
「大丈夫!? ええと……そうだ、保健室行こうか。そこなら落ち着けるよね、うん」
一人でうなづいて、ポンポンと私の肩を軽く叩く。セクハラだってうるさい女の子もたまにいるけど、自意識過剰なだけだ。先生はなんだかお兄ちゃんに似ているところがあるから、優しい人に違いない。
袖で涙をぬぐいながら保健室に向かう。一層涙が出てしまうのは、先生の優しさのせいだろう。
保健室には不在のプレートが掛かっていた。それでも、生徒のために部屋と薬品棚『だけ』は開放されている。
「とりあえず座ろうか」
ベンチに座ることを促された。
セクハラとか色々言われて気になっているのか、先生は保険の先生の椅子を引っ張り出すと、足を組んで腰掛けた。
「あー……どうしたの?」
少しだけ言葉に悩んだあと、苦笑いしながら先生は切り出した。
「……私、変かもしれません」
私も言葉に悩んだ。
頭の中が真っ白になったように思っていたのに、いざ状態を打ち明けるとなると、かなり計算して発言する内容を吟味している私がいた。
そのことが、少しだけ怖く思えた。しかし泣くほどのことでもなかった。これは『必要』だ。
「何が? ……差し支えなければ話して」
気がついたら涙が止まりそうになっていたのに、話そうとしたら、またぶり返して来た。
ハンカチで顔を抑えながら、しゃくあげながら、それでも頭の中では計算しながら、私は話す。
「兄のことが、好きなんです」
「お、おぉう……」
あ、引いてる。同時に面白がってる。顔が笑って引きつった。
「兄と言っても、父方の義理の兄なんです。中一の時に再婚して……十歳年上で」
「十歳!」
「はい。兄はほとんど"カンドウ"されている状態なんですけど、母は兄のことを気にしていて、お米とか分けてます。私も家事をするために、よく兄のマンションに行っています」
「へぇー……」
先生、完全に面白がってる。こっちは真剣なのに大人って嫌だな。
「兄は、兄なんですけど……家族だって、もちろんわかっています。でも、好きになってしまったんです」
「なるほど」
最後のうなづきは、何故だか貫禄があった。
「私、変ですよね」
「うーん……そんなことないと思うよ」
溜めたわりに、きっぱりとした返事だった。
「女の子ってそういうところあるんじゃないかな。もちろん俺は男で、オッサンに片足つっこんでるわけだけど……」
ここで軽く笑って取り繕う。
笑みが止むと、急にアンニュイな微笑みになった。例の、こっちを見てない視線になる。
「いやさ……新任の頃に、っていってもそんなに前じゃないけど! すごく懐いてくれた女の子がいたんだ」
「もしかして、先生のことを好きになった子、とか?」
「あたり。でも、流石に付き合う訳にはいかなかったんだよな。俺も彼女のことを生徒としてしか見れなかったし……彼女は本気だったみたいだけど」
「それで、先生はどうしたんですか? その子は?」
「……」
こっちを見ないまま、先生は沈黙をした。すごく嫌なことを引っ張り出そうとしているような、そんな重たい空気だった。
「……殺された」
笑っているのに、笑っていない。そんな不思議な顔だった。
自嘲していることはよくわかる。でも、それは顔に出ていなかった。
「え?」
「出会い系サイトで出会った男に、レイプされてバラバラになって、山の中で発見されたよ。……ごめんね、嫌な話をしちゃって」
「いえ……」
聞いたことがあるような事件。一年に一回は聞いているような事件。
重い。
「俺はね……あの時、無理してでも付き合ってたら、こんなことにはならなかったんじゃないかって、思ってる」
「先生が悪いとは思いませんが……また違った人生になりそうですね。一歩間違えたら……」
「人生なんていつもそんなもんだ。その一歩で全てが狂う」
大きなため息と、極めて真剣な表情。
……あ、目が合った。
「男ってわりと臆病になるんだよ。家庭とか仕事とかそれまで築いてきたもの、責任とか信頼とか社会的地位とか名誉とか……無下に放り出せないもんがいっぱいあるんだよな。歳を食うとそんなもんでがんじがらめになるしな」
「じゃあ、なんで一晩の過ちとか、不倫とか存在するんですか」
「うぇっ!? ……い、いや、それは……大人的な合意で、黙ってればわからないかな~っていう……そ、それはいいから!」
見るからに焦っている。なにジタバタしてるんですか。顔、ちょっと赤いです。
「つまりだ。つまり、俺が言いたいことは……当たって砕けろ」
真面目な顔をして言うことがそれか。
「もし、綾瀬さんの想いが成就したら俺は何でも手伝うよ。金の工面以外でな。ダメだったら、それはそれで後腐れないじゃないか」
「……確かに」
正論だ。
私はまとわりついているだけで、正面から想いを伝えたことはなかった。
……いや、あったけど。なかったことに、なっているのだろうか。
「俺個人としては、綾瀬さんに幸せになって欲しい。……今回幸せになれって話じゃないけど」
先生は冗談みたいにケラケラ笑って、両手をグーにすると、頭の左右にもってきた。
「この髪型、思い出すんだよ。あの子のこと」
「……やめてください」
殺された子と同一視されるのはあまり喜ばしくない。
「ごめんごめん。ーー義理兄妹なら手段がないわけじゃないよ。すごく大変だけど」
「はい。……ありがとうございます」
私の涙はすっかり止まっていた。
目的も、決まった。




