疑心暗奇で鬼鬼怪怪。
「アルコール中毒とか飲酒運転とか、他人にひどい迷惑をかけるものだよね」
「そうですね」
「だがニコチン中毒とか喫煙運転で迷惑かけることは、統計においてはそれらと比べたらよっぽど少ないはずだよ。なのにどうしてこんなに喫煙者は迫害されるのかね」
「知りません」
「考えてくれ」
くしゃくしゃの前髪の間からじろりと見据えて、先輩は言った。てきとうな返しをすることは躊躇われて、僕は口をつぐんだ。
ある冬の終わり、「安楽苑」という居酒屋に来てはや一時間……どうでもいいが、この「安楽苑」という店の看板、草書体で書いてあるせいで「安楽死」に見える……僕は先輩の隣で、愚痴とも雑談ともつかない取り留めもない話に、耳を傾けていた。親に厳しめに言われているのもあり、アルコールにも煙草にも手を付けることなくのんびりと、焼き鳥などを口にしながら一時間、だ。
対して、隣に座る先輩は、一時間の間に熱燗を二合と焼酎を三杯飲んでいた。横のサラリーマンと比べてもおそらく、かなりペースが早い。
先輩は、なぜかいつも着込んでいる白衣のポケットからなぜかピン札の一万円を出して、「今日は奢ってあげよう」などとらしくもなく先輩ぶったことを言っていたので、今日は飲むぞと決め込んでいたのだろうが。それにしたって、飲みすぎではないかと思う。ついでに言えば食べ過ぎでもあり、先輩の前には食べ終えた品の皿が山と積まれていて、奥行きのない狭いカウンターをより狭く感じさせていた。十席しかない呑み屋なのだから、遠慮してほしい。
「ガンになったりするからでしょう」
「酒はガンを招きはしないだろうが、記憶は飛ぶし呑み続けりゃ吐くし、肝臓を悪くし心臓に負担をかけ痛風を呼び込み死を招くだろうに。その点、煙草は吸い続けても人格がおかしくなることはないね」
「はあ」
「からみ酒うぜー、とか思っているねきみは。これこそまさに酒の持つ悪い点だよ、恐ろしい効能サ。その点、煙草だけだったらおれの人格もこんなに百八十度変わったりはしないよ」
「いえ、二、三十度くらいしか変わってない気がします」
「どっちでも大して差はないよ」
もう矛盾が出ている。完全に酔っ払いだ、と酒臭い先輩を横目に見ながら、嘆息した。
「字面も酒より煙草の方が雅やかだね」
「煙の草、がですか」
「煙管も杉田玄白は喜びを世に留める、と書いてきせる、と読ませたそうだ。そして飲酒、と喫煙、を並べてごらんよ」
「はあ」
「かたや酒を飲む。つまらない字面だね」
先輩の前に並ぶグラスに目を落とした。これだけ酒をあおっておいて、いまさら何を言ってんだこの人は、という思いを視線にこめた。陶酔したように中空を眺めている先輩は、気付いてくれない。彼の視線の先には、慣れた手つきで串を返す店の主人の姿があったが、たぶん彼には見えていない。ぼうっとしている。
「かたや、口と煙の契りだ。ちぎりだよちぎり。えろてぃっくな響きだねえ」
「賛同しかねるといいますかなんといいますか」
「まあなんだ、そんなわけで、一本、いいかな」
「……あなたこっちの応答ことごとく無視し続けたあげく、言いたかったのは結局それですか」
「いやあ非喫煙者の前では吸いづらくてね。おっと、ひがついてるのに非喫煙者とはこれいかに」
ひひひ、と気味の悪い笑い声をあげた先輩は、仕方なしに掌を上に向けて降伏のポーズをとった僕の前で、ポケットからゴールデンバットの箱を取り出した。そして一巻き取り出すと、口にくわえ、片手で器用にマッチを擦ると、着火剤が燃え尽きてから火を灯し、一服深く静かに喫んだ。アーモンドの後味みたいなにおいが漂った。
「ぷはあ。うまいね。ところでちぎりと言えば、きみは女とちぎりを交わした経験はおありかな?」
「ぶふう」
「……おいおいジンジャーエール吐き出すなよ。おれのお金で奢っているときにもったいない真似はしてくれるなよ」
「いや、だって、あなた、急になんですか」
「いやべつに。少し気になっただけサ。おれもこれで、一週間後にはここを抜ける身になったもんでね。抜けた後の人間関係がどうなるのか、少し考えるところあったんだよ」
「べつに……なにも変わりなく今まで通りに進みますよ。僕はそういうことをする予定はないです」
「溜めこむのは身体に毒だと思うがね。そうかい、なにもする気はない、か……しかし一人でうだうだ悶々と励むことはあるのだろう?」
「下世話ですよ」
露骨に、と見せていることがわかる程度に露骨に、僕は拒絶する意志でもって嫌な顔をして見せた。輪っかにして煙を吐き出した先輩は黙り込み、以後は気をつけよう、などと思ってもいなさそうなことを口にした。
「まあ個人の話からは離れよう。人間の話をしないかね」
「大きく出ましたね」
このように話題が転々として取り留めもないことも、酔っ払いの会話の特徴である。先輩は煙草を味わうかのように閉じていた瞳をくわっと開くと、こちらを向いた。
「男児はいつハイパーセルフプレジャーに目覚めるのだろうね」
「話題が転じていなかった」
「きみもそうだが、昨今の世の中は閉塞的だよ。先の煙草のことについてもそうだが、昔と比べていい意味でルーズだったものがなくなりつつあると思わないかね」
「たとえばなんですか」
「昔話であるだろう。うなぎ屋の前でにおいだけ嗅いでごはん食べてた男が、におい代払えって言われる奴」
「ありましたね。たしか働いて貯めたお金の〝音〟で払っておしまい、じゃなかったですか」
「現代でそんなことしたら訴訟沙汰だろ。みんな心にゆとりがないからだね、四角四面がいいと思っているね」
まあそうかもしれないな、とは思う話であった。今時、とんちのきいたことを言って許されるのは落語家くらいのような気もする。
先輩は口から輪にした煙草を吐きだして、残る煙を鼻から吐き散らした。
「ある種の寛容さが足りないよ。なににでもイエスマンで済ませてしまうのは論外であるけどね」
「はあ」
「きみの場合、その振れ幅が極端すぎるということサ」
急にまた個人の話題へ戻ってきて、僕はまたむせそうになった。先輩は煙草の火を揉み消すと、名残惜しそうに煙を吐いて、徳利を傾ける。それでいて目線はこちらへ向けているのに、おちょこから酒が滴り落ちる前に、先輩は徳利を元の位置に戻した。
「後任の座を、きみに譲らないことにした。長の座は、彼女に譲るよ」
「それはまた、どうして」
「理詰めで考え過ぎるくせに、和を求め過ぎていて、そのくせ特定の個人に対してはうなずきばかりだからだね。きみ、傀儡政権とか作ってしまいそうだよ」
「……そんなことは」
「矛盾があってもいい。屁理屈を通してもいい。下心があろうと、それでも組織をまとめることはできるだろうサ。けれどね、きみは三つの配分がどうもうまくないね。おそらく、どこかで破綻を起こすだろう」
さすがに、聞き捨てならない言葉だ。そんな言われ方をしてしまっては――僕が過ごしてきた時間は、彼女と共にあったこれまでの時間は、なんの意味があったのか、ということになってしまう。
「いや、過ごした時間に付随する意味はあるサ」
僕の心を先読みしたように、先輩は言う。
「けれどきみはまだその経験を、知識に変えることができていないね。まだ痛い目を見ていないとみえる」
「愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ、ですか」
「賢者になりたいのかい、きみは。毎晩なってるだろう……などという冗談はさておくか。きみ冗談が通じないね。だいたい、そもそもにして、なろうとして賢人たることかなうと思うのかね」
「努力はすべきでしょう。愚かな間違いをしないために、賢くあろうとするのは大事です」
「だが直感で行動し続けて、失敗しない人もいる」
「いずれ失敗します」
「慎重になりすぎてなにもできなくなるのも、結果から言えば失敗ではないかね」
注いだ酒に手を伸ばすこともなく、先輩は言った。こちらを向いていないにもかかわらず、言葉だけは、重くまっすぐに僕の正面からとんできている。
「結果論でしょうそんなの。ならば直感であまり失敗しなかった、なんていうのは、結果論からしても過程を大事にするとしても失敗です。過程で周囲をかき乱す。なぜなら直感には根拠がありません。経験にもなりませんから先へ活かせません」
「後先考え過ぎだよきみ。今と昔に真摯に向き合えちゃいない」
「考えてます。全体がうまく、回るように……」
「だからそれ和、だけだろう? 先のことを考えて、いまあるものが崩れるのを恐れて慎重になって、の結果だろう? 進む意志が感じられないんだよね。彼女との関係と同じだね」
「……いまそれ、関係ないでしょう」
「あるよ。組織の中に幼馴染の女の子がいるってだけで問題といえば問題サ。まあそれだけならいいんだがね、きみ、組織と彼女を同一視してないかい」
「ばかな」
「彼女が彼女の意志で属すと決めた場所だからかね? 彼女の意志が満ちる場所だから同一視している、そんな風にしかおれには見えなかったよ。きみの価値観は、どこにも不在だ。イエスマン、ああ、イエスマンだね」
最後の一杯を飲み干すと、先輩は立ち上がった。ちょっとふらつきながら一万円札をカウンターに置いて、ほろ酔いくらいが一番だとうそぶきながら、マフラーを首に巻いてレジまで歩いていった。僕は追えばいいのかどうするべきかわからず、じっとうつむいて、残った串の皿を見つめていた。
「さて、明日も動くしそろそろ帰ろうかね。きみ、どうするね。まだ飲むなら、ビールチケットがあるからそいつを使ってもらって構わないが」
「……少し、考えますよ。そこまで言われて黙っていられるほど、僕も温厚ではないんです」
「そうかい。そうかい。我が出るのは、うん。悪いことじゃあない」
言いながら、先輩は出て行った。また明日になれば会うことになるけれど、いましばらくでも顔を合わせずにいられることに、安堵を覚えた。
どうにもならない、自分の心根にこそ苛立ちを覚えた。先輩の言うことに反感は覚えても、反抗に出ることができなかった時点で、自分の中に彼の言葉を認めるだけの後ろめたさがあると知って、いやになっていた。
「えっと、なにか、頼まれますか。チケット、三千円分はありますが」
店主に訊かれて、顔をあげて。
苛立ちのままに僕は三千円を懐から出すと、僕の名義でチケットをください、と言った。その後に運ばれてきた酒は辛くて、けれど無理して飲んで、僕は明日の体調を考えて、すぐにやめて、ただ眼前の徳利だけに向き合った。