宝箱探しゲーム 2
予想通り、そのラウンジは豪奢なものだった。
高級住宅の居間をそのまま移し替えたかのような広々とした空間に、六十インチはあろうかというテレビが隅にあり、その前にソファセットが並んでいる。壁には客室と同じアナログ式の時計。ウォーターサーバーやコーヒーメーカーまで用意されている。
テレビの設置されている壁と反対の壁には鹿の剥製が飾られていた。なんとなく、玄関に飾られていたタヌキの信楽焼を思い出す。私よりも少し上背があったあの信楽焼は、洋館の雰囲気にミスマッチなことも含めて非常に印象的だった。
そういえば、あの置物はどうして玄関の中に置いてあったのだろう?
普通は外に置く物ではないのか?
そんなどうでもいい思考を振り落としながら私はコーヒーメーカーに近付いた。幸い、ボタンを押すだけで自動的にコーヒーをドリップしてくれるタイプの機械のようだ。
「コーヒー、飲みますか?」
「ありがとう。でも、カフェインは摂取しないようにしてるの。赤ちゃんにどんな影響があるかわからないから」
二児の母は言った。慎重に。
カフェイン程度の刺激が胎児に影響を及ぼすことはなかったはずだが、私の胎ではないのでもちろん無責任なことは言えない。それに、よしんば妊婦がコーヒーを飲んでも問題ないとされていたとしても、間違っているのは現代科学の方だという可能性だってある。
私はウォーターサーバーで温めのお湯を二杯作って、ソファに腰掛ける彼女の元に運んだ。身体を温めるのは、むしろ推奨されているはずだ。
「ありがとう。気が利くのね」
「いえ」
なんとも言えない返事をしながら、私もソファに腰掛ける。
テレビ前のソファセットはコの字型に配置されていた。私と妊婦は左側の角に、九十度向かい合うように座っている。
「まずは自己紹介しましょうか」
妊婦はおっとりと言った。
なんとも言えない、ゆっくりとした空気の流れる人だった。どことなく清楚然としているというか、男を知らないような雰囲気を持っている。いや、妊娠している時点で生娘ではないし、生娘は私なのだけど。
「じゃあ、あたしから。栃木の田舎から来ました、淡雪朋絵です。よろしくお願いします」
淡雪さんは深々と腰を折って頭を下げた。
そんなに前屈みになってお腹は大丈夫なのかと不安になる私を余所に、淡雪さんは短い黒髪をさらりと揺らしながら頭を上げ、「あなたのお名前は?」と口にする。
「あ……桧山うちなです」
「素敵な名前」
明らかにお愛想といった口調で、淡雪さんは言った。
お愛想に慣れていないというような印象を受ける。まあ、それはこっちも同じなので責めるべくもない。
「『うちな』ってたしか、沖縄の人って意味よね? うちなちゃんは、そっちの出身?」
「いえ。父親が沖縄出身ってだけです。名前は本名をテキトウにアナグラムして作りました」
父親は高校生の頃に妊娠した母親をとっくに捨てていて、父親の顔も知らないことはわざわざ言わなくてもいいだろう。
妊婦の前で、わざわざ。
妊婦といえば、VTuberのオーディションに妊婦がいることには対する違和感が未だに拭えない。
いいのだろうか?
なにがとは言わないが、いいのだろうか。
というか、できるのだろうか。
妊婦がタレント業を熟すことができるとは思えない。妊娠に伴う体調不良、出産、育児と苦難が続くことが予想される彼女に、体力勝負とも称されるVTuberが務まるとは思えないのだが……。
「あたしのお腹が気になる?」
「あ、いえ……」
気まずくなって、私は視線を背けた。
背けても、視線の先には真っ暗なテレビが映るだけ。私は温いお湯を喉に流し込む。
「この子たちね、パパがいないの」
と。
まるきり突然、淡雪さんは言った。愛おしそうにお腹を撫でながら。
思わず彼女の方を見る。
「パパがいない?」
「不倫だったの。あたし、ずっと女子校出身で、恋を知らなかったのよね。で、社会に出てこの子たちのパパと出会ったとき、この人しかいないって――相手に奥さんがいるなんて関係ないって、その時は思ってた。最後は私を選んでくれるはずっていう謎の自信もあったな」
隙を見せたつもりはないのに、気が付いたら自分語りが始まっていた。
なるほどどうやら、淡雪さんは対人関係というものに慣れていない節がある。女子校出身と言っていた。蝶よ花よと育てられたのかもしれない。初対面で自分のことをペラペラと語るべきではないことを、誰も彼女に教えてあげなかったのだろう。
そして憎いことに、私は淡雪さんの話に少しだけ興味があるのだった。パパがいない。その文句から始まってしまったせいで、私は耳を傾けざるを得ない。
自分語りは自分語りだが、話の構成は上手い人だ。そういうところは配信者に向いているのかもしれない。
ただ、こんな話は配信ではできないだろう。
「妊娠がわかったときはね、とても嬉しかった。文字通り、愛の結晶だと思った。でもあの人は認知しなかった」
あの人、という単語になにかヘドロのような感情が滲みだしていた。
「愛する人に、愛の結晶を堕ろせって命じられるのは腕を捥がれるのより痛かった。気が変わるかもしれないって思って、中絶できなくなるまで粘ってみたら、元からいなかったみたいに無視され始めたときは真剣に死を考えた。でも、不思議なことにね、そんな人との間にできた子でも、お腹の子には愛情を感じるの。人間って不合理よね」
「不合理……では、ないと思います。それはきっと自然な感情です。だって――」
「だって、この子たちも生きているんだもの、ね」
私の言葉を引き継ぐように、彼女は言った。
聖母のように、慈愛に満ちた声で。
「あの人が愛さなかった子を、あたしまで愛せなかったら嘘だわ。だから、お腹の子が双子だってわかったとき、跳ね上がるほど嬉しかった。もちろん、この子たちのために跳ね上がったりはしないけど――ねえ、双子を妊娠する確率って知ってる?」
「たしか……1パーセントくらいでしたっけ?」
「そう、その通り。百人の妊婦がいて、その内のひとりしか知ることのできない幸福があたしに舞い降りたの」
幸せを噛みしめるような口調。
噛みしめるというよりは、噛みつくという表現の方が正鵠を得ているかもしれない。目の前に降って沸いた幸運を決して離してなるものかという、執念にも似たなにかを彼女からは感じる。
少し、怖い。
幸福に酔っている人間は怖い。
そのくらいのことは、引きこもりだった私でも知っている。
「そんなわけで、どうにかして在宅でできる仕事を見つけたいと思ってたから、このオーディションの広告を見つけたときは天の配剤だと思った。配信者なら、育児をしながらでも続けられるでしょ?」
「それは……どうですかね」
そう簡単な話ではないと思う。配信者も、育児も。
しかし、目の前に転がり込んだチャンスにハイになっている淡雪さんに、否定の句を継ぐのは憚られた。意気地が足りない、私も。
だからやんわりとどうとでも取れる表情をしておいて、私は空気を変えるためにテレビを点けた。テキトウにザッピングしてから消す。テレビ電波は届いているらしいということがわかった。有線で引いているのかもしれないが。
「雪、止みそうにないね」
窓の外を見ながら、淡雪さんが言った。あまり残念そうではない。
雪が好きなのだろうか。
考えてもみれば、彼女の『淡雪』という名前はもちろん自分でつけたタレント名だ。雪が好きだったとしても、まったく矛盾はない。
「クローズドサークルみたい」
「クローズドサークル?」
と、首を傾げたのは私。
「閉じ込められるってことですか?」
「天候や道路の遮断で事件現場から抜け出せなくなるのは、ミステリーの世界ではよくある展開なの。スマホの電波も通じないし、このあと、この館で誰かが死んだりしてね」
「やめてくださいよ」
縁起でもない。本当に。
デスゲームか殺人ミステリーか、どちらがよりマシかといえば、まだデスゲームの方がマシだと思える。輪廻転生プロジェクトは別に誰も死ぬわけではないらしいし。
……恋詩ちゃんは。
私のアイドルは、あのあとどうなったのだろう。そしてこれからどうなるのだろう。蹴落としたくせに、彼女の将来を一丁前に案じる自分に気が付いて、私はなんとも言えない気持ちで自分自身を見つめ直す。
「うちなちゃんは、どうしてこのオーディションに?」
「……まあ、VTuberが好きだからですかね」
「じゃあ、デビューしたあとの展望とかあるの? こういうのを売りにしたいとか、こういうキャラで売っていきたいとか」
「一応、考えてはいます」
嘘だった。
なにからなにまで嘘だった。
私はここまで、流されるままに流されてきただけの人間だ。主体性の欠片もない私にデビュー後の展望なんてあるわけがないし、そんな未来の話をしている余裕もない。ここに今いるのだって、元を辿れば、ママに言われたからに過ぎない。
自らの足で立って、自らの意志で未来を決定していくのが『自立』というものなら、私はまだ、ママの庇護下にいるということになる。自立も自律もできていない。
「へえ、すごいね。あたし、なにも考えてない」
「自分のキャラを考えるとか、中学生みたいでちょっと痛いですしね」
「でも、大切なことなんでしょう? だってタレント業だもの。キャラクターは生命線のようなものじゃない。デビューできてもご飯を食べていけるようにならなくちゃいけないんだから、あたしも自分のキャラクター考えておかないといけないのかな」
デビューはゴールじゃなくてスタートだものね。
淡雪さんは添えるようにその言葉を言った。蒙が啓かれる気分だった。
そうだ……その通りだ。
目先のことにばかり気を取られて見失っていたが、VTuberの仕事はデビューすることではない。それはスタート地点に過ぎず、そしてスタートしたら最後、ゴールのないマラソンを走り続けなければならなくなる。
できるのだろうか、私に。
妊婦の心配をしている場合ではなかったのかもしれない。他人の心配をする前に、自分の心配をするべきだった。
そんなことが今さらわかったところで、私にできることはなにもない。
「でも、うちなちゃん。それならひとつ、やめてほしいことがあるな」
「はい?」
なんだろう?
なにか無礼なことでもしてしまっただろうか。してしまっていてもおかしくない。社会経験のない私は社会マナーを知らないから。もしくは、妊婦にこういうことをすべきではないというマナーがあるのかもしれない。それも、妊娠したことがないからわからない。
色々と不安を巡らせた私だったが、淡雪さんが言及したのは無礼についてではなく、むしろその逆だったようだった。
「敬語、やめてほしいな」
淡雪さんは言った。おっとりと。
「敬語……ですか?」
「そう、それ。たしかに歳はあたしの方が上かもしれないけど、でも、デビューしたら同期になるんだよ? 敬語を遣うなんておかしいでしょう?」
「……たしかに」
それはその通りかもしれない。
別に敬語キャラとしてやっていけばいいだけなのかもしれないけど、むしろそっちの方が難しそうだ。私は別に、敬語を遣い慣れているというわけでもない。誰にでも敬語を遣っていけるほど、礼節に精通しているわけでもない。
ただ敬語というのは、始めるに易く辞めるに難い。
歳上に対してタメ口を利くのは相応の勇気が必要だった。
「えっと……じゃあ――」
「皆様、長らくお待たせいたしました」
私の覚悟を察知したわけではあるまいが、その声はちょうど私が口を開きかけたタイミングで響いてきた。鹿の剥製の口から。どうやら、スピーカーが内蔵されているようである。悪趣味な仕掛けだ。
その悪趣味な口から、篠宮さんの声が降ってくる。
「一階ラウンジにお集まりください。第一オーディション、『宝箱探しゲーム』の概要をご説明します」




