モラトリアムカラオケ 3
幼い頃、彼方の空を翔る鳥の背にどうしようもない憧れを抱いていた。
空を飛び回りたいと思ったことはない。だけど、いつだって私は自由に焦がれていた。私自身が、どうしようもないほどに籠の中の鳥だったからだろう。もし私の背中に翼があったとしても、私は飛べない鳥だった。
だから、私は風土記に登場する鳥神に肖って、天乃翠を名乗るのだ。
しかし私は、どうやら神様の器ではなかったらしい。天御鳥命はもちろん、天乃翠ですらなく、どうしようもなく、緑川恋詩でしかなかったようだ。アイドルにはなれても、神様にはなれなかった。VTuberにも。
雨が降るようにさめざめと泣くうちなちゃんを見る。
私に勝ったことを悔やんでいるような涙だった。潤む瞳から涙がひと粒だけ毀れて、それを皮切りに、ボロボロと雫が流れ落ちる。嗚咽はない。ただひたすらに透明な雫だけが頬を伝っていく。男泣きみたいな乙女の涙だった。
泣きたいのはこちらだというのに。
「もう、そんなに泣かないでよ」
待合室に、甘いアイドルの声がぽつりと置かれる。耳が蕩けそうなほどに甘い声だけど、その程度で乙女の涙は止められない。
負けてしまった。これよりないほどすっきりと。気持ちいいくらいに純粋な実力で。いっそ晴れ晴れしいくらいの惨敗――いや、快敗だけど、それでも悔しいものは悔しい。堪えようとしても、目頭の熱は抑えられない。
まさか予選で負けるなんて思っていなかった。というか、デスゲームに予選があるとも思っていなかった。足元の小石に躓いた感覚である。いや、足元の小石なんて表現すると対戦相手に失礼か。
彼女を。
予選の対戦相手として選ばれた少女を見る。きっとこうして言葉を交わすのも最後になるだろうと心のどこかで思いながら。
年下の女の子だった。侮ったつもりはなかったけど、自分より若い子に負かされるのは、やっぱり辛い。辛いし、悔しい。けど、頑張れよと思う。私を負かしたのだから、きっとこの後の本戦も勝ち上がって、素敵なVTuberとしてデビューしてくれと思う。まさかこの私が、そんなスポ根少年みたいな思考をすることになるなんて。
笑えてしまうほど晴れがましくって、涙が出るほど、やっぱり悔しい。
「ねえ、うちなちゃん。私、これからも頑張るから。きっとうちなちゃんの期待に応える。だから泣かないで」
洟を啜って、涙を堪える。
勝っても負けても、最後は握手で終わることに決めていた。だから、私は手を差し出した。彼女は少し訝しがったあと、意図を察して私の手を握り返してくれた。心の温かい人は手が冷たいという俗説があるけれど、そんなの嘘だと確信できるくらい、彼女の手は温かかった。
あーあ。
結局、なれなかったな、VTuber。好きだったのに。憧れだったのに。なれなかったな。
……残念だな。
そう思うと、また追い打つように目頭に甘い熱が浮かんできた。その熱は滲むように体外に漏れ出して、眦から頬を伝って流れていく。
とうとう泣いてしまった。
私まで泣いてしまった。負けても涙だけは流すまいと思っていたのに。でもこれは、悔し涙じゃない。感涙だ。負けた私のために涙を流してくれるうちなちゃんに対する……言いようのない、感動の涙。
「大丈夫だから。うちなちゃんの想い、伝わったよ」
どうして負けた私が慰める側になっているのか。
それがおかしくて、私は泣きながら笑ってしまう。
うちなちゃんが歌った『砂浜とアバンチュール』は、私が初めてセンターを務めた曲だった。
そんな歌を歌われてしまったら、嫌でも思い出す。
そうだった。
私だって、別にアイドルが嫌だったわけじゃない。むしろ好きだった。アイドルとして輝く自分のことが、大好きだった。センターを任されたとき、小躍りするほど嬉しかった。そんな思い出の詰まった曲だ。
「私、もう一回頑張る。芸能界で頑張るよ。トップアイドルなんてなんぼのもんじゃいだよ。伝説のアイドルになる。国民的アイドルじゃなくて、世界的なアイドルになる。歌も、いつかうちなちゃんより上手になって、きっとうちなちゃんのことも魅了する最強のアイドルになるから……」
だから。
「だから、ありがとう。私を負かしてくれてありがとう。全力で歌ってくれてありがとう」
きっと、だけど。
きっと、彼女には深い目標はないのだろう。未来になんの希望も期待もないのだろう。目を見ればわかる。これでも、修羅の芸能界を生き抜いてきた私だ。彼女の瞳には燃えるような野心がない。
けど、野心はなくても優しさがある。
夢を叶えることは、他人を蹴落とすことだ。蹴落とされた側ながら、そのことを悪だとは思わない。他ならぬアイドルとして、沢山のライバルを蹴落としてきた私が文句を言えるはずもない。
だけど、だからこそ。
いつだって忘れてはいけない。蹴落とす側も痛いということを。勝利は必ずしも美酒の味がするわけではないということを。
悩んだのだろう。
野心のない自分が他人を蹴落とすことに、うちなちゃんがどういう感情を抱いたのか、その涙を見ればわかる。痛々しいまでに透明なその涙がすべてを物語っている。うちなちゃんの優しさをありありと伝えてくる。
彼女に負けてよかった。
優しい彼女に負かされて、私は満足だ。厳しい親に育てられてきた私である。優しくされるのは大好きだ。
「……違う」
だけど、うちなちゃんは言った。
涙袋を膨らませて、溢れる涙をそれでも堪えようとしながら、彼女は首を振る。
「私、そんなつもりなかった。『砂浜とアバンチュール』を歌ったのは、たまたまその曲が思い浮かんだからで、天乃ちゃんを激励しようとか、そんなこと思ったんじゃない。全力で歌ったのだって……」
うちなちゃんはそこで一度言い淀んで、それから堰を切ったように本音を曝け出した。
「もし、天乃ちゃんの話が全部嘘で、親の話もハッピーちゃんの話も全部嘘で、騙されてるんだったら悔しいって、そう思ったから……思っちゃったから、全力で歌った。それだけ」
「それでも、だよ」
「私、天乃ちゃんが思うような人間じゃない」
「それでも」
私は言った。
「全力で戦ってくれて、ありがとう」
そして、私は彼女を抱き寄せた。
身長差の関係で、彼女の頭を胸に抱えるような体勢になる。すめくような息が胸元にかかって、少し擽ったい。
実のところ、うちなちゃんの内心は私の感傷にはあまり関係ない。
やらない善よりやる偽善という言葉がある。その通りだと思う。アイドルをやっていると思う。ファンの応援は、たとえばその根底にドロドロとした性欲があったとしても嬉しいものだ。少なくとも、SNSでアンチにボコボコに叩かれるよりはずっと嬉しい。
うちなちゃんの『砂浜とアバンチュール』も同じ。
彼女の百点の歌声が、その根底にある猜疑心に端を発したものだとしても、私はうちなちゃんの歌で目覚めた。
言葉は、そして歌は、いつだって受け取る側にすべてが委ねられている。
だから、ありがとうと言った。それから、一回じゃ足りなくてもう一度言った。
「ありがとう」
『大好き』と並んで一番好きな言葉を口にしながら、私はうちなちゃんの頭を撫でた。優しく、髪を梳くように。
それは、私が本当は、親にしてもらいたかったこと……なのかもしれない。
「頭、撫でんなぁ……」
喉から叫くように言って、うちなちゃんは悶える。
涙でガラガラになった声だ。先ほどの玉を転がすような歌声からは考えられない声。そんなギャップも、彼女がデビューに相応しいと思わされる。
「甘やかされてよ。私ね、ずっと妹が欲しかったんだ。弟じゃなくて、妹。やんちゃなのは嫌だから。パパとママはね、私で懲りちゃったみたいで兄妹はいないんだ。でも、妹ができたらうんと甘やかしてあげるんだって、昔からそんなことばっかり妄想してた」
「……そうは見えないかもだけど、私、二十歳だよ」
「え⁉ たしかにそうは見えないかも……」
背が低いのもあるし、骨格が幼い。それに化粧っけのない顔もあどけなさを演出している。
「でも、うちなちゃんが二十歳なら私の方が年上だね。二歳も」
「え、十八歳じゃ……」
「アイドルはサバ読んでなんぼだよ」
私も同年代に比べてかなり骨格が幼いから、四つもサバを読めてしまう。私の子役としてのキャリアがあまり世間に知られていないのは、本当の年齢がバレないように秘密にしているからだったりもする。
うちなちゃんは驚いたように目を丸めたあと、呆れたように目を細めた。その拍子に、涙が一滴だけ滑り落ちていく。
それが最後の一滴だった。
うちなちゃんはもう泣かない。私も。
女の友情に涙は似合わない――これはただの持論だけど。
アイドルは笑ってなんぼの商売だ。だから、最後は思いきり笑って。
「ありがとう、うちなちゃん。わたし、向き合ってみるよ。芸能界とも、親とも。勝利だけが戦いじゃないって、うちなちゃんの歌が教えてくれたから」
勝って失うものもあるし、負けて得るものもある。
時には、戦うことそれ自体が大切なことだってある。
逃げることは悪ではないけれど、逃げていいのは、いつか戦わなければならないことを知っている人だけ。
そして私の逃避は、うちなちゃんに打ち破られたことで終わった。それを運命だと思うことにしよう。予選の相手が百点を叩き出してくる化け物だったなんてバッドラックは全部運命とかいう目に見えないもののせいにして、私は私の人生と向き合おう。
「だからさ、いつか私が世界的なアイドルになって、うちなちゃんのこともメロメロにしたそのときはさ、きっと大人気配信者になった桧山うちなが私をコラボに誘ってね?」
「恐れ多いし、荷が重い。それからプレッシャーも重い。このあとの本選で順当に、そして無残に敗退したら、私はどんな顔して家に帰ればいいの? いや、負けたら私、そもそも帰る家もないんだけど……」
その冗談に、私は笑った。
最高の笑顔で。
私の挑戦は終わる。敗北という形で。
悔しいけれど、それでいい。
「そう言わずにさ、最後まで頑張ってよ。そうじゃないとさ、私、勝手に説得されただけみたいになるじゃん。もしも、うちなちゃんが勝ち残って最高にキラキラしたVTuberとしてデビューできたらさ、全部、良い風になったんだなって思えて、私の負けにも意味があるって思えるから」
「……うん」
きっと私は、ありもしなかった夢を一時だけ追いかけて、『好き』を情熱にした青春を楽しんでいただけなのだろう。
でも、二十二歳アイドルのモラトリアムはここで終わり。
夢は夢の中で見るものだから。青い夢から目を醒まして、私は蛹から蝶になる。
「よし! 私は今日をもって生まれ変わるぞ!」
拳を突き上げて高らかに宣誓した。
威勢よく。防音室すら貫通して、天の上の神様にまで届くように。
「病気療養は終わりにして、また世界に愛を届けるよ。最高で最強のアイドルになる」
「うん。きっとまた好きになる、天乃ちゃんのこと」
「今は違うよ」
あ、『今は』じゃなくて、『もう』か。
ポカリとコミカルに自分の頭を拳で叩きながら、私はそんなことを言った。
「私は緑川恋詩。是非、あなたもそう呼んで?」




